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テナーサックス奏者John Coltraneは、人気をほしいままにし、絶大な影響力をふるう一方で、妥協を許さぬ難解な作品群を生み出した。自分にもリスナーにも一貫して厳しい彼のプレイは、段階的に発展を遂げるが、常に徹底した探究を試み、それは時に徒労に終わった。しかし彼の作品にこめられた本質的な人間性ゆえ、いったんそれに接したリスナーは、どこまでも彼についていこうという気になるのだった。

John Coltraneは''26年ノースカロライナ州ハムレット生まれ。キャリア初期には特にめだった動きはない。兵役を終えると、シンガーEddie“Cleanhead”Vinsonのもとでプレイ(''47~''48年)した後、トランペット奏者Dizzy Gillespieのビッグバンド(''48~''49年)とセクステット(''50~''51年)に参加する。

このころの彼は、Dexter Gordonの朗々たるハードバップ・スタイルを踏襲していた。Dizzyのバンドを離れてからは、Duke Ellingtonのアルトサックス奏者Johnny Hodgesらと共演(''53~''54年)。''55年までには、激しく時には物悲しいトーンと饒舌なフレージングで、独自のスタイルを築いた。

この年、初めてMiles Davisのグループに加わる。彼のプレイは、苦痛を内に秘めた簡潔でストイックなMilesのスタイルとは好対照だった。この偉大なコンビによるレコードは、いまだにジャズの古典とされる。Coltraneは同時に、Prestige Records傘下でもサイドマンおよびリーダーとして活動。彼の卓越したハードバップには自信がみなぎっている。

しかし、''50年代のジャズミュージシャンにつきものの災いがColtraneを見舞う──ヘロイン中毒だ。このため''57年、Milesは彼を解雇せざるを得なくなった。Coltraneは麻薬を絶って二度と手を出さなかったが、その後の10年間に彼が展開する忘我の攻撃的プレイは、普遍救済説の狂信に起因するだけでなく、ヘロインを摂取し、さらに重要なことにその使用を中止したという体験によって引き出された面があったのかもしれない。

立ち直った彼は、Thelonious Monkのカルテットにしばらく在籍し、Blue Noteから究極のハードバップ宣言というべきアルバム『Blue Train』を発表する(以上''57年)。''58年には再びMilesに合流。このトランペッターによる伝説の名盤『Kind Of Blue』(''59年)で、Milesと対をなす熱っぽく思索的な演奏を聞かせる。

Coltraneが''60年に発表した『My Favourite Things』(Atlantic)は、彼のレコードの中でも特に人気が高く、ここでは彼のテナーにソプラノが加わっている。''61年にはジャズ史を変えるカルテットを結成。個性の強いプレイヤー──ピアノのMcCoy Tyner、ベースのJimmy Garrison、ドラムスのElvin Jones──にサポートされたColtraneは、安心してハードバップの域から脱却し、モーダルミュージックなどで従来のコード進行を免れる方法を探った。

彼のライヴは1時間にもおよぶ曲が演奏されることで有名になったが、その間カルテットは凄まじいハイエネルギーを保ちつづけた。人を引き込む彼の強烈なスタイルには、計り知れない影響力があった。当時ある批評家は、ドラマーでさえColtrane風のサウンドになってきた、と冗談を言ったものだ。

彼は''60年代のアヴァンギャルドにも必然的にかかわった。みずからの音楽の限界を越えようとするこの時期のアルバムには、忠実なファンもしばしばとまどうほどだった。『Meditations』や『Ascention』(共に''65年Impulse!)は、音楽の概念を突き破る気迫に満ち、今日でも聞き手を圧倒する。

Coltraneは''67年7月17日、癌でこの世を去り、その探究は惜しくも道半ばで費えた。