【インタビュー】三味線と歌で作る新しいポップス、蜷川べにが切り開く表現の新領域

2025年、蜷川べにがソロとして歩み始めてからの時間は、本人いわく「体感3年分」の濃密さだったという。和楽器バンドが2024年末で活動休止となった前から、三味線の可能性を提示するカバーアルバム『三味線で弾いてみた。Vol.1』を発表し、翌2025年にはEP『hybrid新解釈民謡!!』、そしてソロ1stシングル「春ね。」と立て続けに作品を届けてきた。2025年はファンクラブの開設や全国ツアーも重なり、制作とライブの双方を高い密度で走り抜けてきた1年でもある。
そんな中で迎えた2ndシングル「火群 -Homura-」のリリースは、三味線奏者としての10年と、ボーカリストとして新たに歩む現在地を重ね合わせるような節目となった。
もともと民謡の大会で数多くの賞を獲り、自らのアイデンティティ全てを「歌」に注ぎ込んできた彼女だが、喉を壊したことにより歌うことを完全封印するという過去を背負ってきた。そんな中、神の悪戯なのか茶目っ気なのか、和楽器バンドのツアーで蜷川べにを突然ステージ中央に立たせるという出来事によって、かつて命を注いだ「歌」と再び向き合うきっかけが与えられることとなった。
緊張と葛藤の中で掴んだ手応え、Shirafuでの全国行脚で得た自信、そして「三味線ボーカリスト」という新たな独自性。そこへ至るまでの背景を探るべく、ソロ活動の現在地と「火群 -Homura-」に込めた意図を聞いた。

──ソロとして初となるシングル「春ね。」のリリースからもう半年以上が経ちました。
蜷川べに:そうなんですよね。体感3年ぐらいは生きたつもりだったんですけど、蓋を開けてみたら1年っていう感じで(笑)。2024年12月31日をもって和楽器バンドは活動休止したんですけど、私は去年8月の時点ですでに、三味線はどんな楽曲でもアプローチできるんですよ、ということをお伝えする意味も込めて、『三味線で弾いてみた。Vol.1』という、海外の楽曲も含めたポップスのカバーアルバムを出したんですね。で、その作品を引っさげて、リリースイベントも1か月間やっていて、その頃からタームが始まっていた感覚だったので、2025年が終わるとなった今、3年くらいずっと走ってきた気がするなと。しかも、「春ね。」と今回の「火群 -Homura-」の間には、『hybrid新解釈民謡!!』という8曲入りのEPも出しているので、1年で3枚パッケージを出したことになるんですよ。そんな感じでぎゅうぎゅう詰めで制作とライブをやっていたし、今年は1月1日にファンクラブも開設したので、今年は本当に詰め込みましたね。
──ソロだし、単純にやることは増えますよね。
蜷川べに:そうですね、増えましたね。3つ4つのことを同時に進めることが多くて。意識としては、和楽器バンドの蜷川べには、メンバー8人の中で津軽三味線奏者に徹する部分が大きくて、私はバンドの一部分としてサポートしていく10年間だったんですけど、今は三味線ボーカリストとしてのキャリアをスタートさせて、人前で歌を歌うことになって。元々、4歳から民謡をやっていて、昔は大会にも出ていましたけど、人前でボーカリストとしてパフォーマンスするとなるとそれはまた違うじゃないですか。なので、自分としては、三味線ボーカリストという独自性を大切にしていきたいという気持ちで活動しているところです。
──自分でメインボーカルをとることに躊躇はなかったですか。
蜷川べに:いや、ぶっちゃけ、ありましたね。最初は、祖母と母の影響で民謡をはじめて、全国大会が続いているタイミングで喉を潰しちゃった時期が3年くらいあるんですよ。その頃に、師匠さんから「伴奏ができたほうがやれることの幅が広がるから、三味線やったらどう?」と勧められて、半分嫌々みたいな感じで三味線を始めたんですね。なので、歌をちゃんとパフォーマンスするというのは自分にとってすごく大きな壁で。でも、2022年にあった和楽器バンドのツアー中にゆう子さんが緊急入院して、私が急遽歌うことになったことが、後々考えてみると今回三味線ボーカリストという選択をしたきっかけにはなったのかなと思っていて。
──あれもすごい話でしたよね。
蜷川べに:「いや、無理です」という感じだったんですけども(笑)。でも、ここでツアーを止めるわけにもいかないし、来てくれたお客さんに喜んで帰ってもらわなければいけないという使命感もあったので、「できません」っていう選択肢は私の中にはなくて。結果としてここに至ってますけど、当時はすごく葛藤がありました。だって、いきなり何千人っていう人数の方を目の前にして、いきなり代役としてセンターでキャリアの無い私が歌うわけですから。しかも、和楽器は調弦が簡単には変えられないから、ゆう子さんのキーで歌わなきゃいけなくて。だから、いろいろとままならない状況下で、緊張状態で走りきったんです。
──野球でたとえると、少年野球で肩を壊してからピッチャーはずっとやっていなくてバッターに専念していたけど、そんなときにいきなりピッチャーとして再び声がかかるという。
蜷川べに:うん、まさにアスリートの方がぶつかるような壁みたいなもので。変声期のタイミングで歌うことに固執して声を潰してしまって、それでも「自分の人生には歌うことしかない」って無理やり歌い続けた結果だったので、もう歌はやめよう、諦めよう、ここからは新しい人生を生きようと決心していたんですけど、まさかこういった形であの時のトラウマと向き合う時が来るとは思っていませんでしたね。声って、メンタルが大きく関わってくるもので、喉を潰した3年間は、ステージに立つとどうしても力が入ってしまって、声が出なかったんです。あれからすごい時間が経って、「楽しく音楽できたらいいな」っていうライトな気持ちになれているし、今なら歌と向き合えると思えたことも大きいですね。
──当時のことがフラッシュバックするようなことはないですか。
蜷川べに:ありますあります。ようやく最近はなくなったんですけど、「春ね。」の頃は正直、実はまだ向き合うのが怖いなっていう感覚がありました。…松村和子さんってご存知ですか。
──ああ、「帰ってこいよ」を歌っていた。彼女も三味線を弾きながら歌っていましたね。
蜷川べに:そうです。「春ね。」のときに初めてソロで全国ツアーをして、ボーカルをやりながら三味線を弾いたときはああいうイメージで、最初はいつもどおりの力が出ないな、やっぱり怖いなっていう感覚がありましたね。でも、もっと遡ると、ゆう子さんの代役を務めたあと、町屋さん(和楽器バンドのギタリストであり、総合サウンドプロデューサー)とShirafuというユニットで全国を車で回って、彼が民謡にギターとコーラスで更にアレンジを加えた新解釈民謡というものを作って、そのツアーで1ヶ月間、毎日ライブをやっていたんですよ。そこで、精神的にも体力的にもかなり自信がついたことは大きかったです。あれがなかったらもっと難しかったと思います。
──ゆう子さんの代役でボーカルを務めたこととShirafuの活動が偶然続いたんですね。では、ソロ1stシングル「春ね。」ではどんな楽曲を残せたと思いますか。
蜷川べに:自分のルーツをしっかり残しつつも、モダンな要素も入れられて、なおかつ和楽器バンドでは表現ができない自分自身の色も出せたんじゃないかと思ってます。
──じゃあ、1発目としてはかなり満足のいくものができたと。
蜷川べに:はい、そうですね。私はひとつ、大事にしていることがあって、蜷川べにという三味線ボーカリストの独自性に関わっていただく方のアイデアは、なるべく活かしたいんです。そういった方々との化学反応を大事にしたくて。なので、みなさんの意見は積極的に聞くようにしています。
──自分の中にあるイメージだけで固めるのではなく、余白を残す。
蜷川べに:そうです。そうじゃないと、自分自身が予想してるものにしかならないと思うので。衣装にしても、世界観にしても、関わってくれる人たちがこういうことやりたいって言ってくださったものを採用していくことによっていい化学反応が生まれるということは、和楽器バンドも含めて、これまでのキャリアの中ですごく実感しているし、そういったものを大事にすることで自分が思ってる以上の作品が生まれるんですよね。なので、「春ね。」に関しても、MVの演出だったり、町屋さんの楽曲制作だったり、そういったものが加わったことですごくいいものになったと思ってます。
──それにしても、以前、民謡歌手としてあらゆる大会であらゆる賞を獲ってきたべにさんが、これまで10年以上ずっと三味線に徹してきたってすごいことだなと改めて思いますよ。
蜷川べに:いやいやいやいや(笑)。でも、ありがとうございます…と言いたいところなんですけど、本当に自信がなかったし、歌は怖いんでもう大丈夫ですっていう気持ちが当時はあって。和楽器バンドでは三味線奏者としてパフォーマンスするということが求められていたし、お客さんが喜ぶことをエンターテイナーとしてやりたいっていうのが私の中で一番大きな思いだし、ステージでカッコよく三味線を弾きこなす蜷川べににファンの方がついてくださっていたので、そこを追求して頑張っていきたいっていう気持ちのほうが大きかったんですよね。だから、本当に人生ってわかんないなと(笑)。
──喉を壊していた頃の自分が、のちに自分がまた歌い出すことを知ったらなんて言うと思いますか?
蜷川べに:今のような状況は本当に想像してなかったというか、「どういう事情があってそんなことになっちゃったんですか?」って、当時の自分は信じられないと思いますね。それくらい三味線に徹してたんで。
──ちょっとお聞きしたいんですけど、ここ10年、カラオケには行ってなかったんですか。
蜷川べに:…実は隠れて行ってました。絶対人前では歌わないって決めてたんで。あはははは!
──じゃあ、ひとりで?
蜷川べに:はい。人前だとカチカチに固まっちゃって歌えないって自分でもわかってたんで。でも、歌が好きって気持ちは変わらないから、ひとりでいるときに「1時間あるな…」と思ったらカラオケにパっと入って歌って…っていうことをずっとやってました。
──カラオケに行っていることは、人には言ってたんですか?
蜷川べに:言ってないですね。「趣味は?」とか人に聞かれても言わないし。
──たとえば、和楽器バンドのメンバーと飲みに行ったあとにカラオケへ行って、そこで歌う、みたいなこともなく?
蜷川べに:恥ずかしかったんで(笑)。メンバーも「歌、歌ってたんだよね?」ぐらいの感じだったし。
──メンバーですらその認識ですか。
蜷川べに:そうですそうです。だから人前で歌うことはないし、カラオケに行ったとしても私は歌わない。そもそも誘われても「あ、大丈夫です…」とか言って行ってなかったんで、その分ひとりでこそこそ行ってました(笑)。こんな質問されたの初めてなので、確かにひとりで隠れて行ってたなって今、思いました(笑)。
──隠れていくのが自分の中ではずっと当たり前だったから、それが特別なことだとも思ってなかったんですね。
蜷川べに:そういうことだと思います。
──それくらいの認識でよくゆう子さんの代役の話が来ましたね。
蜷川べに:それぐらい現場はギリギリで。だから、それまで10年以上もの間、人前で歌うことを避けてきたし、自分が力不足なことも分かってはいたけど、それでもお客さんがちょっとでも「これはこれで面白いライブだったよね」って喜んで帰ってもらえることにつながるならっていう気持ちがあって。でも、必死すぎて当時の記憶はほとんどないんですよ。そういう理由でもない限り、歌うことなんて一生のうちで二度となかったと思う。
──でも、その経験が今のソロにつながっていくんですからね。
蜷川べに:結果的にはそうなりましたけど、当時は本当に必死で、先のことなんて何も考えられなかったですね。

──では、2枚目となるシングル「火群 -Homura-」をリリースした今、べにさんの中で三味線奏者、ボーカリスト、それぞれの意識ってどれくらいの割合ですか。
蜷川べに:うーん、難しいですね…。ライブでは、歌いながら弾く楽曲が7割ぐらいかな。で、3割ぐらいが三味線だけのインスト楽曲。あと、オリジナル曲は歌いながら弾くのがメインになってきてるので、その場合はどっちかというと歌メインで、そこに三味線のメロディが入ってくるイメージ。でも、インストはバチでしっかり弾いてるところを聴かせたい…。だから、楽曲によって変わりますけど、三味線の手を抜いたり、歌の手を抜くことは全くないし、毎日しっかりと、声と三味線のトレーニングを同じくらいやってるので…5対5って感じですかね。
──これまでの活動の流れからすると、歌と三味線が同じ比率になることがすごいですよ。
蜷川べに:そうですね。そこにプラスして、ライブをやるとなるとMCも込みでひとつのショーになるし、そういう経験は初めてだったので、MC込みの練習を家で一人でやってましたね(笑)。
──では、「火群 -Homura-」の内容について聞かせてください。この曲は三味線とレゲエのミクスチャーで、「春ね。」に引き続き、町屋さんが作詞作曲を手掛けています。これはべにさんからの発注ですか。
蜷川べに:そうです。でも、さっきもお話したように、「春ね。」も「火群 -Homura-」も、事前にこちらから投げる情報量は多くならないようにしていて、今回町屋さんに伝えたのは、花魁の世界観をテーマにした楽曲をやりたいっていうことだけなんです。「春ね。」は、歌謡×ポップスということでビジュアルはドレスにしたんですけど、今回のビジュアルは花魁の世界観で行くことを事前に決めていて、それに対してどんな曲が来るのかと思ったら、まさかのレゲエをベースにしたもので、さらにラップが入ってくるっていう(笑)。それを受けて浮かんだMVのイメージが、私の好きな蜷川実花さんのカラフルな世界観。そこで、花魁の衣装で華やか、かつ妖艶に撮るっていうイメージが浮かびました。ということで、楽曲に関しては、町屋さんの持ち味を大事にしたいので、私はいつも楽しみに待ってるところがあります。
──最初から映像込みで考えているんですね。
蜷川べに:もちろん、そうです。楽曲だけじゃなく、MVまで含めてひとつの世界観を表現するものだと思うので。私のルーツは民謡なので、他の作家さんに任せるとなったらもっと細かくオーダーするとは思うんですけれど、町屋さんとはShirafuとして一緒に全国を回ったことで私のルーツをしっかり知ってくれているし、ボーカルに関しても、どこからどこまでの音域がミックスボイスで、どこからファルセットになるかとか、低音だとどこが聴かせられるかというところまで理解してくれているんですよね。だから、今回デモが上がってきたときに変えたいと思ったのは、一定の音域になっていたラップパートを、もっと小刻みにして1オクターブ上げたものと下げたものをミックスしたいっていうことだけでした。そこでちょっと面白さを出したかったんです。
──もはや阿吽の呼吸ですね。三味線のプレイに関してお聞きしたいんですが、民謡や邦楽以外から影響を受けている部分はありますか。
蜷川べに:そこは完全に和楽器バンドの存在が大きくて。いろんな三味線奏者の演奏動画を見ると、三味線という楽器ひとつで曲を完結させようとする方が多いのかなと思っていて。たとえば、流行りの楽曲やポップスを三味線でアレンジしたものを聴くと、三味線でメロディーをとっていることが多いんですね。でも、私の場合は、メロディーを三味線で弾くのではなくそれはオケにお任せして、その上で三味線にしかできないものを弾くんです。そのほうが三味線の持ち味を活かせるし、三味線で弾く意味があると思うんですよね。三味線でメロディーをなぞったところで…まあ、それはそれで「三味線ってこんなことができるんだ」っていう面白さにはなると思うんですけど、三味線らしいフレーズ、三味線にしかないフレーズをコード符の中にしっかり収めた上で三味線のよさを出していく。それが和楽器バンドでずっとやってきたことだし、和楽器バンドは楽器が多いから、その中に三味線がいる意味を伝えようと思うと、三味線にしか出せない飛び道具的な音になってくるんです。かと言って、コード譜から外れたことをやってしまうと悪目立ちする。なので、アンサンブルへのきれいなアプローチの仕方は和楽器バンドで培うことができたと思います。
──非常に納得のいく解説です。
蜷川べに:なので今、ソロでレコーディングするときは、最初に自分の歌をオケに収めた上で、それに対して三味線でどうアプローチするかあとから考える。それが面白いし、そもそもそうやって全体のアンサンブルのバランスを考える癖みたいなのがついちゃってるんですよね。そういうこともあって、メロディーは別の楽器が弾いてもいいんじゃないかと思ってます。もちろん、人それぞれだとは思うんですけど、あくまでも私のスタイルとしては、そういう形になってます。
──西洋のスタイルの音楽をやってるからといって、そっちに寄せたものを三味線でやっても意味がないから、あくまでも三味線らしいことをやろう、と。
蜷川べに:おっしゃる通りです。真似事をしてもそれはただの真似事なので、独自性を大事にしたいっていうのが真のテーマなんですよね。真似事をするのではなくて、オンリーワンを作り出す。その追求ですね。
──べにさんは昔から様々な音楽を聴いてきていますけど、そういった経験が今に活きているところもあるんじゃないですか。
蜷川べに:そうですね。私は4歳から民謡の流派に入ってはいたんですけど、元々ワールドミュージックが大好きで、クラシック以外の音楽はほぼなんでも聴いていたし、そういった音楽に三味線でアプローチするっていうことは地元にいるときからやってたんですよね。当時、駅前で楽器を演奏してる方がたくさんいて、ジャンベとかディジリドゥの奏者の方と一緒に1日中セッションしたり、クラブのワールドミュージック系のイベントで弾いたりしてました。師匠からは「変なことするのはやめなさい」って言われてたんですけど、そっちのほうが楽しくて。だから、元々興味のあったことが今に活きているっていうのはすごくあると思います。
──和楽器バンドの存在も大きいけど、和楽器バンドにすんなり馴染めたのも、それ以前から慣れ親しんでいた音楽の存在が大きかったんだろうなと想像します。
蜷川べに:はい、自分が元々興味があったところに吸い寄せられてきた結果なのかもしれないですね。
──そういうべにさんの姿を町屋さんもそばで見て知っていたからこそ、こういう一見トリッキーな曲がポンポンと出てきて、べにさんもそれを難なく歌いこなしてしまうという。
蜷川べに:いやいや(笑)…でも、そうかもしれないですね。彼が和楽器バンドの音楽プロデューサーをしていて、私の得意なフレーズや歌を知ってくれてたので、そういうところを取り入れてくれているんだと思います。

──今後もいろんなジャンルを取り入れて歌っていくつもりですか?
蜷川べに:そうですね。今年は国内での活動をメインにやってきたんですけど、私は元々、1人旅で2か月とか海外に行っちゃう人なので、今後は自分が持っているものをいろんな国の文化や言葉と融合させることを大事にしていきたいと思ってます。私のマネージャーはルーツがフィリピンなんですけど、フィリピンの歌手とコラボしたいとなったときには、三味線を弾きながらタガログ語で歌ったり、他の国でもそうやってアプローチできたらと思ってます。
──やっぱり、海外は視野に入ってるんですね。
蜷川べに:そうですね。自分のルーツは日本の民謡と三味線で、それを自分の好きな海外の国の世界観にぶつけてみたらどんな科学変化が起こるのかなっていうのが今、一番興味があるんですよね。
──この間、他媒体でゆう子さんにインタビューしたときにもした話なんですけど、日本人が好きな和と海外の人が好きな和って違うじゃないですか。
蜷川べに:はいはいはい、そうですね。
──日本人って基本的に、コテコテな和を嫌がると思うんです。成田空港にあるギフトショップのコテコテな装飾は見ていて恥ずかしくなるけど、海外の人はそれが好きなわけじゃないですか。
蜷川べに:そうですね。
──そういう好みの違いは音楽にもあると思うんですが、べにさんのアプローチの仕方も、どの国の人たちを対象にするかによって変わってくるのかなと。
蜷川べに:私が考えるオリジナリティの出し方は、国内でも海外でもあくまでナチュラルであることが最優先で、和を表現するとか、和を出していくっていうことは一切考えていないんです。ナチュラルに演奏する、歌う、話す、そういった全ての行動にすでにオリジナリティは出ていると思っているんですよね。だから、それをくどくどとお客さんに伝える必要は一切ないと思うんです。
──なるほど。
蜷川べに:だから、こうやっていろんな方にお話をするときも、ナチュラルであることは常に意識しています。無理に何かを訴えかけようと思わなくても、受け取る人の環境とか性格によって良きように捉えてくれると思っているので、芸術に関してはそれでOKだと思ってます。
──和楽器バンドがいるからちょっと麻痺しているところがあるんですけど、今、べにさんが三味線でやろうとしていることってちょっとした革命というか、邦楽の新たな道を切り開いているところがあると思うんですよ。
蜷川べに:道なき道ではあるんですけども、それをどうやって自分のオリジナリティとして確立させるかは、私がどうこうするよりも、受け取り手の方たち次第だと思っています。自分も今、道を模索しているところなので、面白そうだと思ったことやワクワクすることならなんでも挑戦していく。そうやって純粋に音楽や自分のキャリアを楽しんでいけたらいいなというのが、今の一番思っていることですね。多分、その先にきっと、新しい世界が広がっているんじゃないかと思ってます。
取材・文◎阿刀 “DA” 大志
2nd Single「火群 -Homura-」


2025年10月24日(金)リリース
通常盤 ¥2,000(税込)
1.火群 -Homura-
2.splash
3.火群 -Homura- instrumental
『三味線で弾いてみた。Vol.1』
2024年8月28日発売
12cmCD ZENT-0004
2025年4月3日配信

【蜷川べにオフィシャルサイト・サロン】https://lounge.dmm.com/detail/8683/
【X】https://x.com/benina1225
【Instagram】https://www.instagram.com/ninagawabeni/
【YouTube】https://www.youtube.com/@yokohamariri0914
【TikTok】https://www.tiktok.com/@benininagawa
【Facebook】https://www.facebook.com/profile.php?id=61577298216350
【オフィシャルECサイト】https://benifan.base.shop/



