【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第15回「蜘蛛」
「あなたって子は。」
電話越しに感じたママの気配はそれからすぐに消えた。
そうだ、ママは私のことを〝あなた〟と呼ぶ人だった。
「ごめんなさい、今仕事が立て込んでいて。明後日ならお見舞いに行けると思うから、パパにはそう伝えて。」
そっけない電話に返事するように急いでメールを送ると、すぐに電話で言われた病院の詳細と面会時間の書かれた端的な文章に、病院とにっこりマークの絵文字が添えられた返信がきた。
ママはこういうところで自分がとった態度の帳尻を合わせる癖がある。
「ツーリング日和です。」
自撮りと一緒に投稿されたパパのSNSを見かけてから事故の知らせを聞くまで、そう時間はかからなかった。
幸い大きな事故ではなく命に別状はなかったものの、あの歳のバイク事故は何かと心配事が多いので、念のため少しの間入院することになったらしい。
せっかくこれからというツーリング日和を毎日病室で過ごさなければならないパパのことを考えると心が痛むが、当の本人はさっそく右足のギプスの写真に「生きてます。」と添えてSNSを更新していた。
病院の最寄り駅を出て向かいのコンビニでお金を下ろしていると、綺麗なブルーのワンピースを着た女性が来て、入り口前で煙草を吸い始めた。その姿勢からママであることはすぐに分かったが、声はかけられなかった。
実を言うとママと会うのはかなり久しぶりだったのだ。
前に会ったのは金沢のおばちゃんの葬式だったから、もう7年は経っている。
そういえばあの時も、間違えて肌色のストッキングを履いてきた私に「あなたって子は。」と言っていた。
ママが煙草を吸い終わるのを待つ間、私はコンビニのありとあらゆる商品をなめるように見ていた。そして時折入口の方に目をやって、立ち去ったかどうか確認したのだ。
こんなことをしてもどうせ何分後には顔を合わせるのに。
今の私にはこのコンビニからパパの病室に着くまでの間二人でどんな会話をしたらいいのか思いつかなかった。
ブルーのワンピースを遠くに見つめながら歩いていると、簡単に病室にたどり着くことができた。
扉を開けようとすると後ろから「おお来たか!久しぶりだなー!」声をかけられた。
パパは看護師さんに車いすを押されながら、分厚い掌で力強く私の尻を叩く。
「ママー!さつき来たよ!」
そうだ、パパはママのことを〝ママ〟という人だった。
病室に入ると窓際にママが立っていて、それを見た瞬間、他人みたいに綺麗な人だと思った。
「ちょっと痩せた?」
それが目を合わせての言われた久しぶりの言葉だった。
久しぶりに過ごした家族の時間は想像より幾分か自然で、たとえるならマニキュアを塗った爪で雑誌をめくるときくらい、そのくらいの頑張りで物事は円滑に進んだのだ。
パパは「さつきはどんどんママに似てきたな」と私の痩せた肩を掴んだ。
ママは表情一つ変えずにどちらともいえない相槌をうったあと、「今よりもっとぴちぴちの頃ね」と帳尻を合わせるように笑った。
帰り道は二人だった。まだ少し暑さが残る暗闇の中、広い道路を道なりに歩く。
ママの顔が時折車のライトに照らされて、やっぱり他人みたいに綺麗な人だと思った。
「一本吸っていい?」
そう言って近くのコンビニで煙草と二つに割れるアイスを買って、道沿いの小さな公園のベンチに二人で腰掛けた。
私は人が煙草を吸う姿を見るのが嫌いだった。
それはいつも母親をしていたママが、タバコを吸うときだけ知らない人みたいに見えたからだ。だから彼氏が煙草を吸い始めた時も、「あなたが私の前で煙草を吸うときは、私と他人になるとき」なんて言ってしまった。
そうか、私も彼のことを〝あなた〟と呼ぶ時があるんだ。
煙草に火をつけてすぐ、ママの携帯に病院から電話があり少し離れたところで話していた。
ああ、この光景前にも見たことがある、そう思った。
確かあの時、微かに聞こえたママの声は「幸せになりたい」と言っていた。
電話の主はわからなかったが、「幸せになりたい」というママの声ははっきり覚えている。
中学生だった私はその言葉をこの世で一番悲観的に受け取ることができたのだ。
片手にアイス、もう片方に火のついた煙草を持ちながらママは私に
「あなた、いいひといるの?」と聞いた。
「4年近く付き合ってる彼がいて、結婚の話もでてるけど、具体的にはまだ何にも。」
「そうなの。まあ焦らなくてもいいわ。」
気にはなるくせに必要以上に踏み込まない、その心地よさを少し思い出した。
「実を言うと、怖いの。結婚はまだしも、もし子供ができたら自分の人生が終わっちゃうような気がする、んです。愛してるし結婚もしたいけど、あなたと結婚したら私の人生が終わるなんて、彼には言えない。きっとわかってもらえない。」
ママは「私も同じようなこと思ってた。」と、二本目の煙草に火をつけた。
「私は、何もなかったから。ずっと自由に生きてきて、人間として十分じゃないのに、人の親になって、でもいつか自由な自分がでてきたらどうしようって、思ってました。」
その言い回しをきいて、自分のことを話そうとすると涙が出てしまう私に、敬語で話したらいいと教えてくれたのはママだったことを思い出した。
「けど、私はずっと私でしかなかったの。うまく母親もできなかったし。あなたがどう感じているかわからないけれど、
私はあなたには母親じゃなくて、ひとりの人間として、女として接することしかできなかったと思っています。」
その言葉を聞いた瞬間、自分の中でいろんなことが腑に落ちた。
そして同時に、私にとってママをもっと身近に感じられるのはあの頃じゃなくて、これから先のことかもしれない、と思った。
「私はママに似ているって言われて、嫌な思いをしたことは一度も無いです。」
そういうと、ママはアイスをくわえながらいたずらっぽく笑った。
底冷えが今にもはじまろうという秋の暗闇で、私たちは女同士の話をした。
「彼、蜘蛛を殺さないの。」
「えー、私は潰しちゃう。けど、きっといい人ね。」
リーガルリリー 海
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