デフ・レパード、ジム・スタインマンとの『ヒステリア』セッション「絶対にリリースしない」

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デフ・レパードのジョー・エリオットが、80年代半ばに行い、失敗に終わったジム・スタインマンとのレコーディング・セッションについて語った。

デフ・レパードは、プロデューサーのマット・ラングと4枚目のスタジオ・アルバム『Hysteria』(1987年リリース)を制作し始めたが、ラングが多忙を極めたため、マネージャーから代わりにジム・スタインマンと共作するよう提案されたという。

エリオットは当時のことを『Classic Rock』誌のインタビューで、こう振り返った。「ジムは面白い男だった。すごくエキセントリックだった。でも、チャールズ・マンソンとだって20分話しただけだったら、多分、“彼はそんなに悪くない”って思うだろうよ。最初のミーティングで、俺らは、ジムは俺らとは全く違う軌道に乗っているってわかった。俺はそれを居心地悪く感じてた」

しかし、選択の余地はなく、スタインマンと組むことになったそうだ。「スタインマンはプロデューサーではなかった。俺はそれを指摘した。でも、マットはソングライティングとアレンジも手伝ってくれるプロデューサーだったから、クリフ(マネージャー)は、俺らにはソングライティングの面で助けが必要だって考えたんだ。クリフは完全に間違っていた。でも、スタインマンしか選択肢がなかったんだ」

ラングに相談したところ、「やってみて、ダメだったら、そいつを追い出せばいい」と言われ、結局、8週間後には「その通りになった。スタインマンは使いものにならない以下だった!」という。

「初日の午後、俺らはウォーミングアップとして、“Don‘t Shoot Shotgun”をゆるめにストーンズ風にプレイしたんだ。リフとメロディだけをね。コーラスさえ入れなかった。そしたら、スタインマンは“これでいいじゃん”って言ったんだ。俺ら、顔を見合わせたよ。フィル(・コリン/G)は“俺ら、まだチューンアップさえしていない!”って言ったのに、スタインマンは“ああ、でもヴァイブがある”って。いい兆候じゃなかった」

このほか、スタインマンはシンセを入れようとしたり、メンバーのテイストとは異なる曲名をつけようとしたり、デフ・レパードを全く理解しておらず、7曲ほど取り組んだが、バンドが求めるレベルには達しなかったという。また、「俺らは午前11時にスタジオに入ってた。スタインマンがヨロヨロとやって来るのは午後3時だ。彼は夜通し、(ミート・ローフのアルバム)『Bat Out Of Hell II』の曲を作ってたからだよ。俺らに全集中ってわけじゃなかった」と感じたそうだ。さらに、創作面での問題ではないが、毎晩、彼はメニューにあるもの全てを注文するので食事代も凄いことになったという。

そしてとうとう、スタインマンがコントロール・ルームのカーペットをもっといいものに換えるよう言い出したとき、エリオットはもうたくさんだと思い知ったそうだ。彼は他のメンバーたちに「俺ら、クソ・カーペットを換える前にプロデューサーを変えるべきだ」と宣言したという。

「ジム・スタインマンは、ホントにちょっとのことしかせずに、デフ・レパードに大金を払わせた。そういう意味では彼はラッキーな男だな。俺らは絶対にあれらの曲をリリースしないよ。何もできていない。最悪のブートレグだ。テープは俺のライブラリーにしまい込んでいる。そこから出ることはない」

バンドは結局、マット・ラングと『Hysteria』を完成し、同作はバンド最大のヒット作となった。

Ako Suzuki
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