【音楽ギョーカイ片隅コラム】Vol.137「THE YELLOW MONKEY、希望の光を放つ」

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またひとつ、大きな希望の光を見た。その光源はTHE YELLOW MONKEYだ。

11月3日に東京ドームにて開催された<THE YELLOW MONKEY 30th Anniversary LIVE -DOME SPECIAL->公演によって、日本における大型コンサートの再開が果たされた。政府が2月26日にイベント開催自粛を要請してから実に8ヶ月と6日ぶりのことであり、今公演も当初予定していた4月開催を中止せざるを得なかった東京ドーム2days公演に代わって開催されることになった4公演のひとつである。コロナ禍となって以降、ライブ音楽はライブハウスやコンサートホール、野外でのドライブインシアターなどではもっと早い段階から再始動されていたが、国内最大級の屋内スタジアムでの大型コンサートはこれが初とあって、音楽ファンはもとより、多くの人やマスコミからも注目され大々的に報道されたのは周知のとおり。ここでは今公演と続いて開催された11月7日の横浜アリーナ公演について、筆者の視点から見えたものや考えさせられたことについて綴りたいと思う。

まずは東京ドーム公演を振り返ってみよう。会場に到着すると、いつもの賑わいも入場待ちの列も公演を知らせる幕などもなかった。そして待つことなく秒で場内に入れた。この日の来場者が収容可能人数の半分以下で入場時間もコントロールされていたからなのだろうけれど、東京ドームに足を運ぶようになってから20年経つがこんなことは初めてだ。座席につくと前後左右がひとつ飛ばしで設定されていた。ドームの高い天井といい、他人との余裕ある距離感といい、とても開放的に感じられたことでウイルス感染への恐れを大幅に軽減し、終始ライブを安心して楽しむことができた。これはスタジアムクラスの会場であるが故の利点と言えるだろう。イベント自粛要請後にライブハウスなどの狭い空間で物々しい感染対策が施された会場で観たライブよりも安心度は格段に高かったし、コロナ以前と比べて声を出せないこと以外には違和感が一切なかった。

この日は「真珠色の革命時代〜Pearl Light Of Revolution〜」で幕が開き、「JAM」「悲しきASIAN BOY」「バラ色の日々」といったバンドを代表する作品の数々と2016年の再集結以降で新たに加わった「天道虫」や「ALRIGHT」などが披露され、最後は「「プライマル。」で終わるといった彼らの王道と言える鉄板の内容だった。それはバンドとしてのライブ活動再開だけではなく、音楽エンターテインメントの一部である大型コンサート再開の狼煙を上げるというエンターテインメント産業全体にとっても非常に重大な意味を持つ公演に相応しいセットリストであったし、ライブパフォーマンスへの信念を貫く4人の姿に希望の光を見た公演だった。解散も再集結も、このタイミングで大型ライブを実施できた偶然のような必然も、ライブバンドたる由縁としか言いようがない。いつの時代もライブで道を切り拓いてきたTHE YELLOW MONKEYらしい有様を前に、ロックの神様がTHE YELLOW MONKEYに白羽の矢を当てたのはきっとそういうことなのだろうと思った。


さて、この公演を観たことによってもたらされた自分の変化にも触れておこう。実はもう二度とデカ箱でライブを観ることは不可能なのかもしれないという底知れぬ不安感を抱いていたのだが、その不安が一夜にしてパッと消えたというか、空いていた心の穴がSF映画のように音を立てながら一瞬で塞がったというか、憑き物が取れたというか。それはそれは非常にマジカルな体験だった。この気持ちをもう二度と味わうことはないだろうし、他には変え難い尊いものとして関わった万人の心に深く刻まれることだろう。

一方、横浜アリーナ公演では2本目ということもあってか、バンドもお客さんも状況を受け入れてリラックスして楽しんでいるように見えた。この日はバンドのこだわりや思い入れがひしひしと伝わってくる内容で、『SICKS』や『パンチドランカー』リリース当時に同会場で行われたライブを彷彿させる場面もあった。それは同時にTHE YELLOW MONKEYがライブバンドとして歩んできた歴史を感じさせ、ツアーに冠された30周年という時の流れを色濃く漂わせるものでもあった。また、「楽園」「MY WINDING ROAD」「SO YOUNG」などに見られる過去の肯定と未来への希望を連想させる作品群からは今の時代とリンクする歌詞が心に沁みた。過去があって今があること、状況は少し異なるかもしれないがいつの時代もライブを楽しむことはできるということを明示した魅力的なライブは、けして大げさではなく生きていてよかったと、これからもちょっとふざけたりしながら肩の力を抜いて楽しいことを見つけていこうという気持ちを観る者に与えたことだろう。

この2公演が成功したのはバンドやそのスタッフ陣営の開催への決断と感染予防対策に徹底した運営であることは言うまでもないのだが、もうひとつの大きな要因に来場者のマナーの良さがあったことも記しておきたい。アーティスト性に左右される面も大きいが、自己主張の激しい国民性を持つ国では平穏で冷静に従順するオーディエンスばかりではないからこううまくはいかないだろう。また、感染予防対策とはいえルールでがんじがらめの環境下で見るライブは吉井さんが言ったとおり「ロックっぽくない」状況ではあったが、それでもバンドや主催者の意向をしっかりと受け止めプラチナ・チケットを手にした19000人は誰一人として勝手な行動を取ることなく他者と共に楽しもうとする共存の精神を体現していた。こうしたバンド、クルー、オーディエンスがひとつになることがエンターテイメントの成功の証であり、特別な記憶としてそれぞれの脳裏に刻まれ、心には明かりが灯る。本当に素晴らしいことだと思う。
有人無人問わず、配信ライブは今後のスタンダードになるだろうし、それはそれで良い面が多々あるが、その場でしか感じられない臨場感や希望の光をダイレクトに感じ取れるライブパフォーマンスを体感する場はけしてなくしてはならないし、なくさずに実現できる道がひとつ、またひとつと切り開かれてゆくのは喜ばしいことだ。やはり音楽の、とりわけ青春時代に心を揺さぶられたバンドのライブ音楽の力は絶大なものであった。

こうして日本では大型コンサートは再開したわけだが、イギリスやフランスでは再びロックダウンが開始されるなど欧米諸国を筆頭に悪化傾向にある。そのため、海外アーティストの来日公演がコロナ禍以前のように開催されるようになるまであとどれほどの期間がかかるのかは分からない。だがアメリカではザ・フレーミング・リップスがウォーターバルーンを使った奇想天外なライブを開催して話題になるなど今の状況の中でできることを世界中のアーティストが模索している。

今のような難しい変化の時代を人間らしく生きるためには、最低限の衣食住だけではなく、それぞれの心が求めるプラスαが必要だ。それが音楽の人もいれば、美術、スポーツ、映画、本を愛する人など千差万別だろう。それらの恩恵は楽しいというだけではなく、ある者は自殺を止め、生きる希望を見し出し、勇気を与えられもする。その中でも目に見えない不思議な力を持つ音楽を、ことさらライブ・エンターテイメントを私は愛している。音楽業界に身を置いたのもそうした場を創る一員になりたいと思ったからだ。しかしコロナは私たち人類から突如として大切な人や物、空間を取り上げ、言い知れぬ恐怖と不安を与えた。すべての生活において新しい様式を強いられ苦しい思いをすることもあるけれど、興奮、歓喜、共感、共鳴など五感すべてに作用し心身を豊かにする芸術という特効薬を絶やさないためにも、希望を持てる何かに触れることを止めずに皆で支え合いながら踏ん張って生きていこう。未来は明るいはずだ。

文◎早乙女‘dorami’ゆうこ

◆早乙女“ドラミ”ゆうこの【音楽ギョーカイ片隅コラム】
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