【対談連載】ASH DA HEROの“TALKING BLUES” 第2回ゲスト:中島卓偉
■辞めるんだったら行く必要がない
■解散するんだったらデビューする必要はない──中島卓偉
──当時ASHはどういうきっかけでHIPHOPやラップに?
ASH:僕が作詞作曲を始めたのは13歳くらいなんですね。小学校当時、僕はひどいイジメにあっていて。友だちっていうものが本当にいなかったというか。
卓偉:僕と一緒だね。
ASH:どうすればいいかな?って考えて、“本をたくさん読んだりして頭が良くなれば、同級生は認めてくれなくても、先生は認めてくれるかな”という気持ちで、勉強ばかりしてガリ勉くんになったんです。でも、そうすると教師の言うことのウソとホントに気づくようになる。これはBARKSのインタビューで卓偉さんも言ってましたけど、教師の矛盾や、正しいこととそうでないことに気づき始めるんです。
卓偉:わかる。そう思う時期ってあるよね。
ASH:そうなると、それをどう処理していいかわからなくて、横柄な態度をとって教師に殴られたり。“俺、どこにも居場所がないな”って思ったときに、家でジャミロクワイのCDを母親が聴いていたんです。
卓偉:粋なお母さんだね(笑)。
ASH:ファンキーな母親なんです(笑)。気づいたら、ジャミロクワイのインストゥルメンタルに自分で詞を乗せて歌っていたり。その頃、キングギドラを聴いて、“あ、ラップっていう手があるんだ”と知り、そこから歌詞を書いたりHIPHOPにはまるようになったんです。それが作詞作曲を始めたきっかけでもあって。
卓偉:メロディラインを書くようになったのは、いつ頃?
ASH:15歳の頃にパンクバンドを組んだんですけど、せっかくバンドをやるんだったら、自分たちにしか出来ない曲を書こうと思って、気づいたらもうつくってましたね。パンクロックでしたけど、メロディのあるものを。卓偉さんが曲をつくり始めたのは中学1年生の頃だったとか?
卓偉:そう。僕は15歳で上京したんですけど、13歳の頃にMTVでセックス・ピストルズを観て、エレキギターを買って。それ以前に親父の影響でザ・ビートルズを聴いてギターの和音に魅力を感じていたんですね。中1の終わりくらいには曲が書けるということに気づきまして。やっぱり友だちもいないからこそ、自分の音楽をつくることに時間を費やし始めたんです。で、高校受験はせず、上京してバンドをつくることを考えたという。
──当初は“バンド”だったんですね。
卓偉:ASHくんはどうかわからないけど、僕は実を言うとバンドでデビューしたかったんですよ。ただ、自分と同じように本気でやってくれるメンバーに出会うような、そういう運命的なものはなかった。東京に、僕の同世代でそういうヤツがいたら今も一緒に音楽をやってると思うんですけど……事実、1977年〜1980年生まれくらいの世代で今も長く続けてるヤツって結局いないですからね。やっぱりバンドって生き物ですから、妥協はできないんですよ。結果、バンドを壊して、しょうがなくソロになったんです。だから、本当はバンドのいちヴォーカリストでいたかったんですよね(笑)。
ASH:実は僕もそうなんですよ。バンドを始めたきっかけは、高校一年生のときにパンクバンドに誘われたことなんですけど、そこでオフスプリングとかグリーン・デイとか、メロディックパンクを知って、遡ってセックス・ピストルズに衝撃を受けるわけです。そこで“こうすればいいんだ!”と思って、僕も本当はパンクバンドで成り上がりたかった。ソロのロックシンガーでデビューしたのは同じ志を持ったメンバーと出会えなかったからで。
──ライヴハウスで叩き上げてバンドデビューというカタチではなく、ソロとしてデビューに至る、その経緯というのは?
卓偉:僕の場合は、上京してすぐバンドを組んだわけですけど。曲を書けるヤツに出会えたわけでもないし、気づけば、楽器がそこそこ上手いヤツとしかバンドを組まなくなっていたんですよね。“それもなんか違うな”と疑問を抱えながらバンドを続けていくと、人気が出はじめちゃったりもして。でも、それすらも自分のなかではジレンマ。僕はオーディションというのも一切受けたことがなくて。やっぱり、“デビューさせたい”とか“うちに所属しないか?”っていう誘いがくるまで演るのが本当のパンクスピリットだと思っていたんです。それが、東京で400〜500人の動員をかせげるようになると、声が掛かるわけですよ。
──それはある意味、“ついに”ですよね。
卓偉:ところが、そうなったときでも“いやー、このバンドじゃなー”って心のどこかでは思っていて。でも、当時のバンドメンバーは声が掛かったものだから、超調子に乗っちゃってたり(苦笑)。そういう熱の上がり方すら、“こんな感じでデビューしたら絶対コイツらダメになる”と冷静にみられる自分がいてね。実際、いろいろなプロダクションとかレコード会社とかから話をいただいたんですけど、その時点で“僕しか要らない”という声の掛かり方だったんです。僕しか曲を書いていないわけですし、レコード会社にしてみれば、「サウンドはこのままでいい。もっと上手いミュージシャンがいるから、ソロで」ということですよね。
ASH:やっぱりそうなりますよね。
卓偉:でも、自分は義理とか人情とかを大切にしているから、それでもバンドでデビューさせてくれるところでやりたかった。そのなかで唯一、“バンドでもいい”って言ってくれるプロダクションがあって、そこに所属したんですね。ところが、本契約の話になったとき、シングルやアルバムまでの予定が記された表みたいなものを提示されて、“全然印鑑を押せない”って自分だけ躊躇して帰ったんですよ。
──バンドの先々がリアルに想像できたという?
卓偉:そう。その後、当時のプロダクションともう一度話し合って、“やっぱりできないです。解散させてください”と。そのとき、東京初ワンマンのチケット400枚くらいを売り切っていたんですけど、“それを最後にしてもいいですか?”みたいな。だから、急展開だったんですけど、自分の心にウソはつけない。ライヴではファンに“今日、解散です。すみません”みたいな。
ASH:すごいですね(笑)。
卓偉:5年も6年もバンドをやって、もう疲れちゃっていたんですけど、そこから1年下積みしたんです、もう一回。ソロデビューが21歳のときで、その前の1年間は、バンドで出来なかったこと……たとえばデジタルチックなものとか、頭の中で鳴っていたけど再現できなかったものを音にしていく作業をしていたんです。
──つまり、ソロとしての準備ですよね。
卓偉:そうです。ソロとしてアイテムをつくるために、もう一回ということですね。そこからはわかりやすかったです。“自分はソロだ”と。“ペイメントするから僕のライヴで楽器を弾いてくれないか?”と。当時はカセットテープの最後の時代でしたけど、デモテープみたいなものをつくって。1年くらい掛けて、デビューまでこぎつけたという感じでしたかね。
ASH:ソロという運命が卓偉さんを待っていたわけで。
卓偉:さっき言ったように、ソロは自分のなかでイレギュラーでもあるんですよ。曲が書けて尊敬できるメンバーがいたり、たとえ書けなかったとしても、そこに立っているだけでカッコいいベーシストっているじゃないですか。ルックスが良くなくてもドラムプレイに人柄とか愛が溢れるヤツとか。そういうヤツらと出会えたなら、印税を4等分してでもバンドを組みたかった、本当に。だけど、残念ながら、コイツらと同じ釜のメシを食って、同じフィロソフィーでやれる、というような感覚まで持つことはできなかった。
──ソロを選択すること自体が、大きな決断だったと思うんですが。
卓偉:高校を受験しなかった理由と同じですよね。辞めるんだったら行く必要がない。バンドも、解散するんだったらデビューする必要はない。解散が見えているのにデビューするなんて、そっちのほうがよほどファンに失礼だから。
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