増田勇一の『インタビュー無法地帯』【1】SIGH 川嶋未来「ブラック・メタル? アヴァンギャルド? あなたがまだ知らずにいる“日本が誇るべきバンド”の深層を探る」

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先頃、英国のキャンドルライト・レコーズからリリースされたSIGHの新作アルバム『IN SOMNIPHOBIA』が素晴らしい。彼らは正真正銘、日本のバンドであり、結成は1990年に遡る。2007年のドキュメンタリー映画『グローバル・メタル』で紹介されたことを機にその存在を知った読者も少なくないだろう。

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僕自身はあまり音楽をカテゴライズすることを好まないが、あくまで目安として言うならば、彼らの音楽に伴いがちな形容というのは“アヴァンギャルドなブラック・メタル”ということになる。とはいえ、僕がこのバンドに惹かれるのは、そうした枠組みを超越した次元での美学追求の姿勢や実験精神が、その音楽自体から感じられるからである。だからこそ、このバンドの根底にある精神的な部分について、もっと詳しく知りたいと感じずにはいられなかった。

そこで3月のある日、このバンドの中枢であり作詞/作曲とヴォーカル以外にもさまざまな楽器演奏を手掛ける川嶋未来にコンタクトをとり、いくつかのごく基本的な質問に答えてもらった。いわゆる日本盤すらリリースされていないブラック・メタル・バンドの素性について、どれほどの読者が興味を持つことになるのかは疑わしくもある。が、この記事をこうした場に掲載したいと考えた最大の理由は、川嶋から寄せられた回答の随所に、“いまどきの常識”に慣れてしまった自分自身を覚醒させてくれるような言葉がいくつもちりばめられていたからに他ならない。それは同時に広い意味で、音楽づくりやバンド活動のあり方といったものについてのヒントにもなり得るのではないかと僕は感じている。是非、この種の領域にあまり興味を持ったことがないという方々にもお読みいただきたい。

▲Mirai Kawashima(vo,piano…etc)、Dr.Mikannibal(vo,alto saxophone)
なお、このインタビューを寄稿するにあたって、勝手ながら『インタビュー無法地帯』という表題を設けさせていただいた。実際のところ、第1回があるからといってかならず第2回があるとは限らないのだが、とにかく現状ではジャンルも国籍も問わず、いわゆる大人の事情とも無関係なところで、不定期に続けていきたいと考えている。

以下は、僕が送り付けた5つの質問に対する川嶋からの回答のすべてである。細かな表記の部分など以外については一切こちらの手を加えていない。また、SIGHの今後の活動予定についても訊いたのだが、まだ不確定的な部分があるため、それについてはまた機会を改めてお伝えしたいと思う。とにかく本稿が、あなたにとって“何か”への入口になれば幸いだ。

【I】第9作『IN SOMNIPHOBIA』を制作するにあたり、いちばん意識したのはどんなことでしょうか? 内容的に、前作以上に“自分自身の音楽観の体現”をもくろんだ作品なのではないかと察するのですが、いかがでしょう?

まず念頭にあったのが、恐ろしい、不気味なアルバムを作ろうということです。それも完全に空想でもなく、かと言って現実でもない、その中間の、空想と現実が交錯するような世界。映画で言うと『ジェイコブズ・ラダー』や『ゾンゲリア』、『Carnival of Souls』など、文学で言うと筒井康孝の『遠い座敷』や『エロチック街道』のような、夢と現実、生と死の境界線があいまいになるような作品が非常に好きで、また個人的にも夢の中で夢だと気づく、いわゆる明晰夢、しかも悪夢を子供の頃からやたらとよく見ることもあり、そういった世界観を音楽で現せないか、というのがまずありました。

そして僕らが子供の頃には確実に存在していた、エキゾチックなものに対する漠然とした恐怖。国籍不明のマスクマン・プロレスラー、ファラオの呪い、イエティなど。今の子供なら「国籍不明でどうやって入国するんだ?」と指摘するでしょうし、ファラオの呪いも話自体がでっち上げ、イエティはデジタル解析で背中にチャックが見つかるなど、すっかりファンタジーは消え去ってしまいましたが、1980年くらいまでは、まだまだそういった現実とも空想ともつかない恐怖が残っていました。E.A.ポーやH.P.ラヴクラフトなども異国恐怖モノを扱っていますし、映画『エクソシスト』はイラクで事が始まります。『食人族』などはエキゾチックなものに対する恐怖=偏見の極地でしょう。

SIGHのアルバムは、まずこのようなコンセプトから作られ、そしてそれを描写するためにベストなスタイルを選びとっていくスタイルで完成されています。なので、最初から「雑多な音楽を取り込んだアルバムを作ろう」というコンセプトがあったわけではありません。夢と現実、生と死が交錯していく世界を描いていく中で、結果としてジャズやインド音楽などが必要となりました。

【II】SIGHの音楽を形容するにあたり、ブラック・メタル、アヴァンギャルドといった言葉は切り離しにくいところがあります。ご自身の言葉でカテゴライズするとすれば、今作における音楽スタイルをどう名付けますか?

詰まるところ、ブラック・メタルなのだと思います。現在のブラック・メタルというのは90年代初頭に、当時は廃れかけていた80年代スラッシュ・メタルのリバイバルとして台頭してきたという側面があります。80年代のスラッシュ・メタルというのは、SIGHの音楽的バックグラウンドにおいても非常に大きなものであり、その点ブラック・メタルというジャンルにはシンパシーを感じます。そしてもうひとつはブラック・メタルというジャンルの持つ音楽的幅の広さ。例えばカナダのBLASPHEMYのような、殆どグラインド・コアと言っていいようなものから、フランスのALCESTのようにメタルの要素すら希薄なバンドまでが包含され、一種の何でも有り状態であることから、SIGHの音楽もブラック・メタルと称されることに大きな違和感はないと思います。

一方アヴァンギャルドという形容は、常にSIGHにはつきまとっていますが、自分たちではアヴァンギャルドなことをやっているつもりは毛頭ないですし、SIGHの音楽もアヴァンギャルドではないと言い切ることができます。すべてがやりつくされた感のある現代に、アヴァンギャルドたりえるかという根本的な問題を置いておくにしても、SIGHがやっていることは前衛とは程遠く、むしろロック、メタルにおける常套句を再構築しているだけです。インド音楽を取り入れるなんて、60年代にやりつくされたことだし、サックスなどはむしろロックにおいては基本的な楽器です。エクストリーム・メタルの世界においてすら、80年代にDEATH SSやWARFAREが実践済み。複数のスタイルの音楽を並存させたり、カットアップ的な手法もクラシックではロシアのシュニトケ、ジャズではジョン・ゾーン、ロックではザッパ、そして近年ではMR.BUNGLEがやりつくしていること。確かにこれらをブラック・メタルという文脈で行なっているバンドは多くないかもしれませんが、それが前衛かと問われれば間違いなく答えはノーです。

『IN SOMNIPHOBIA』の曲についても、せいぜい少々モードが使われている程度で、殆どは充分保守的、伝統的な機能和声法の範疇。ジョン・ケージが休符だけの曲、4分33秒を書いたのが1952年のことです。その時点で音楽の前衛はそこまで進んでいたわけで、21世紀になって、このレベルのものをアヴァンギャルドと呼ぶのは明らかに間違っています。

【III】あまり語られないことですが、僕はSIGHの音楽に独特のポップ・センスと日本人としてのアイデンティティを感じています。ご自身ではそうした部分についてどのように解釈していますか? また、日本の音楽からの影響として自覚しているものには、具体的にどのようなものがありますか?

アルバムのアートワークやメンバー写真、歌詞などにおいて日本的なイメージを使用してきましたが、音楽においては故意に日本的なサウンドを求めたことはありません。自分たちがやっているのは完全な西洋音楽だと自覚していますし、例えば安易にシンセサイザーで琴の音を出して、“♪ミファラシレ”なんて音階を弾いて、「どうです、僕たち日本のバンドでしょ?」みたいなことは絶対にしたくないです。

しかし一方で、日本人であるがゆえの色みたいなものは避けられないし、避ける必要もないと思っています。いくら日本人の生活が西洋化されているとはいえ、依然僕らは日本語を話し、日本語でモノを考えているわけで、言語から受ける影響というのは非常に大きいと考えています。“腹減った”と“I am hungry”からでは、ちょっと鼻歌を作るにしてもまったく違うものになるはず。欧米とは違う言語を話し、それなりに違うものを食べ、違う気候の中で暮らしているわけです。さらにそこに個人的な身体的特徴や個々の経験などが加わり、特に意識していなくても、出来上がった作品には何か他のバンドとは違った匂いがするというのが理想であり、それこそが本当のオリジナリティだと思っています。

「日本のバンドだとは思えない」というのが褒め言葉であったり、「ヴォーカルが日本人っぽい」というのが批判であったり、いまだ日本ではいかに西欧のバンドと同じことをするかが評価の基準みたいな風潮があります。インド出身の本格派スウェディッシュ・メロデス・バンドとインド出身のインド丸出しデスメタル・バンド、どっちが聴きたいかという話です。私は後者にしか興味がわきません。

【IV】川嶋さんご自身が音楽活動をするうえでの、動機と目的とは?

「この世にすでにこれだけ素晴らしい音楽が溢れているのに、何故これ以上自分が曲を作る必要があるのかを疑問に思うことがある」

こうした趣旨のことを、ボブ・ディランが言っているのを読んだことがあります。あのボブ・ディランですらそんなことを考えるとはと驚きました。まあ本心かどうかは別として、ですが。ただこれ、本当にその通りだと思うのです。メタルのアルバムというのはすでに数え切れないほど存在していて、今も毎月何十枚と新譜が出ている中で、SIGHがアルバムを作ることに何か意味があるのか、と思うことがあります。実際意味なんてないのでしょうが、自分なりの結論として……
(1)SIGHの過去の作品を超えるものを作れるという創作意欲があること。
(2)そして、その作品を作るために投資をしてくれるレーベルがあること。
(3)その作品を聴きたいと思うファンが存在すること。
……の3つが動機として挙げられます。2と3はほぼ同義かもしれませんが、この中のひとつでも欠けたらSIGHはおしまいにします。もう9枚ものアルバムを出してきましたし、もうアルバムを出してくれるレーベルが見つからないような状況になった場合、私費を投じてまでニュー・アルバムを作ろうとは思いませんし、聴いてくれる人がいないのに、自分のために作曲しようとも思いません。また逆にニーズがあっても、惰性で適当なアルバムを作り続けようとも思いません。

音楽活動の目的となると、これはもっと答えるのが難しいです。バンドって楽しいこともありますが、大変なことも同じくらい、もしくはそれ以上に多いわけで、それでも活動を続ける理由なんて、結局“音楽が好きだから”以外にないような気がします。海外のフェスに出て、何千人というお客さんの前でライヴをやったり、子供の頃から好きだったバンドのメンバーと仲良くなれたりとか、メタル・ファンとしては最高の経験をできる一方で、フェス出演時に予約していた飛行機が飛ばず、チケットをとりなおして多額の損失を出したりなどの苦労も尽きません。それでもバンドを始めて20年以上、いまだにCDを出してくれるレーベルがあり、年間何百枚もメタルのアルバムがリリースされる中で、一応そのリリースが世界的に認識されるというのは幸せなことであり、大げさな表現ですが人生の選択としては正しかったのだと思っています。

【V】今やメジャー/インディーズの境目もさほどない時代ですし、「日本のバンドでありながら輸入盤でしか手に入らない」という実情も、さほど大きな障害にはならないのかもしれませんが、SIGHとして望むのはどのような活動環境なのでしょうか?

日本のバンドが海外のレーベルと契約して……というと何か特殊なことをしているようにとられるケースもありますが、ちょっとそれは視点が違うと思っています。例えが古いですが、スイスのCELTIC FROSTがドイツのノイズ・レコーズらアルバムを出していたからといって、「CELTIC FROSTは国外のレーベルと契約してるんだ!」なんて考えて聴いていた人は一人もいないはずです。アメリカやヨーロッパ、そして日本を含むアジアは地理的には離れているし、それぞれシーンの色みたいなものはあるのでしょうが、そうは言ってもやっぱりヘヴィ・メタルという世界はこの世でひとつ。その中でできるだけ多くの人に自分たちの作品を聴いてもらうにはどうすればいいかとなると、現状では欧米のレーベルを選択するのがベストという結論です。

今はインターネットが普及し、日本盤/輸入盤も特に意識することなく簡単に自宅で買える時代になりましたし、日本盤が出ないデメリットは自分たちもファンの方々もあまり感じていないと思います。活動環境としては、現状も悪くないです。唯一の問題は、日本在住という地理的なハンディでしょうか。ヨーロッパやアメリカにツアーに行くにも5人分の飛行機代がかかります。欧米のバンドは車一台ですぐにツアー始められますからね。どちらの大陸も充分に広いですし、そういうところはとてもうらやましいです。

文/増田勇一

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