タマならぬミケ…Mi-Keの深遠なパロディ精神
変幻自在、万華鏡のようにポップ・ミュージックの歴史を次々とひも解き、自らのスタイルとして表現、矢継ぎ早に具現化していったポップ・トリオ、それがMi-Keだった。
もともとB.B.QUEENSのコーラス部隊として結成。まず、彼女らはデビュー・シングル「想い出の九十九里浜」で正統派GS(グループサウンズ)サウンドを90年代に蘇らせた。
そこで聴くことが出来るサウンドは、ザ・ワイルドワンズやテンプターズ周辺のサウンド・エッセンスを巧みにちりばめ、歌詞中でもGSの名曲や当時の風俗を感じる言葉を羅列するなど、徹底して緻密に分析されたパロディー・ナンバーだった。しかし、パロディーとは、その対象となる物の本質を理解せずに成立することはない。原曲の良さを実感させ、それをリバイバルさせる優れた出来映え。それは、その後のMi-Keの楽曲を辿ることでも容易に理解出来る。
「涙のバケーション」では古き良き時代のアメリカン・ポップスを、「サーフィン・JAPAN」ではビーチ・ボーイズを始めとするサーフィン&ホットロッド・サウンドを、そして「ブルーライト ヨコスカ」ではいしだあゆみに通じる昭和ムード歌謡を、「白い2 白いサンゴ礁」では和製フォークソングを、「悲しきテディ・ボーイ」ではキャロルを始めとしたロカビリー歌謡を…、とまるでポップ・ミュージックの歴史そのものを辿る旅を続けるかのようなバラエティーの広さと深さを表現した。
パロディー精神とそのキュートなルックス故に、正当な評価が下されにくいアーティストではあったが、その軌跡を辿ってみると、今でこそ当たり前のように受け入れられている日本語によるポップスの先駆者とも言える才能をMi-Keは兼ね備えていたのだ。
もともと、Mi-KeのコンセプトはB.B.QUEENSのプロデューサーでもある長戸大幸が作り上げたもの。大のポップス・マニアとして知られる長戸は、50~60年代の洋楽シングル・コレクターとしては業界で右に出るものはいないとまで言われている。学生時代、親から貰うパン代を節約してまでシングル収集に費やした、という執念の収集は3万枚以上にも及び、そんな長戸の青春時代を彩った音楽がそのままMi-Keのバック・グラウンドに反映されているのは間違いない。
そして、長戸はMi-Keで徹底して遊んでいる。というかパロっている!
まず、B.B.QUEENSは、Blues界の大御所B.B.KINGのパロディーで、Mi-Keは最初B.B.Qシスターズだったが、バーベキュー姉妹に見えるといって面白がっていたが、いざデビューとなると新聞のラ・テ欄(ラジオ・テレビ欄)には名前が長くて載りにくいと言われ、「じゃ、どんな名前が載りやすいのか?」と問うと「今はやりの『たま』は載りやすいです」という答えに、「じゃ、『みけ』にしよう」と長戸は決めたと言っている。猫じゃあるまいし…。
ただ、だからといってMi-Keをコンセプト重視の単なるパロディー・ユニットとして見るのもまた、いかがなものか。彼女達の場合、シングルをリリースした後、必ずそのコンセプトに乗っ取った形でミニ・アルバムを制作しているのだが(しかもそのタームは当時アルバムで3カ月に1枚リリース!という驚異的なスピードだった)、オリジナルに敬意を評した形でのカバー・ソングをきっちり収録しているところを見れば、Mi-Keの制作行為が単なるおふざけで終わっていないのは明らかだ。
また、リード・ヴォーカル、宇徳敬子の実力は、その後のソロ活動の様子を見ても納得出来るだろう。ポップ・ミュージックの歴史に対する深い愛情からスタートしたコンセプチュアルなコーラスグループ、Mi-Keのスタンスとはそんな所にあるのではないだろうか。
もし、Mi-Keの存在がなかったら、現在のJ-POPは歌謡界とこれほどまでに融和していただろうか? 今さらながらに再評価されて然るべきグループだと思う。
◆「BEST OF BEST 1000」シリーズ ダイジェスト映像
https://www.barks.jp/watch/?id=1000020789
[楽曲解説]
1. 想い出の九十九里浜
1991年2月14日に発売された1stシングル。GSを意識した楽曲は数多くあれど、ここまで徹底してGSの精神を理解し、GSサウンドを現代に蘇らせ、さらにはヒットさせてしまった作品はないのではないだろうか。楽曲的にはオックスのヒット曲として知られる「スワンの涙」をベースに制作されたと噂されている。歌詞ではGSのヒット曲12曲のタイトルを羅列してみるといったパロディー精神を発揮。パクりうんぬんの是非を問う不毛な日本人的体質をモノともしない潔いインスピレーションには脱帽ものだ。また、楽曲中間部で聴くことが出来るオルガン・ソロはGSのルーツであるリバプール・サウンドを、さらにリズムにはスパイダースの影響も感じられる。古くて新しい永遠の懐メロナンバー。作詞は長戸大幸。オリコン最高位5位。
2. 悲しきテディ・ボーイ
1992年4月8日リリースの6thシングル。ギターを担当しているのは、スウィンギンボッパーズの吾妻光良。結成したてのキャロルのような、もしくは60年代の粗削りなR&Rのような感触を感じさせてくれるトラック。こんな曲には、リーゼントと皮ジャン、そしてリーバイス501がよく似合う。オリコン最高位10位。
3. ブルーライト ヨコスカ
1991年6月13日発売された3rdシングル。もちろんこのタイトルはいしだあゆみの大ヒット曲「ブルーライト・ヨコハマ」のパロディー。イントロでは流麗なオーケストラからスタート、そして一転エレキ歌謡へとチェンジするマイナー・ポップ。ベンチャーズのサウンド・エッセンスをふんだんに取り入れたこのサウンドは、まさしく昭和“エレキ路線”への回答。Mi-Ke流歌謡曲の極意がサウンドの隅々に刻まれている。プロデューサー長戸大幸のセンスがよく理解出来る一曲。オリコン最高位13位。
4. Please Please Me, LOVE
1993年5月12日リリース。Mi-Keのラスト・シングル。この時期のMi-Keのコンセプトはリバプール・サウンド。60年代前半、ビートルズを代表としたゾンビーズやハーマンズハーミッツ、ホリーズ等のブリティッシュ・ビートと呼ばれたアーティストらの代表曲をカバーしたミニアルバム『永遠のリバプールサウンド プリーズ・プリーズ・ミー・ラブ』を聴けば、それは明らかだ。(タイトルは多分にTHE BEATLESの「Please Please Me」を意識したものだろう)そして、そんなコンセプトの先行アイテムとしてリリースされたのが本作。当時、フジテレビ系木曜劇場でO.A.されていたドラマ「愛情物語」の主題歌。しかも、そのドラマ自体がビートルズ世代の大人たちが繰り広げる青春群像劇だった。サウンド的には90年代初期のビーイング色が色濃く出ていて、曲全体を通して聞かせるTUBE風コーラスといい、切ないメロディーとエッジの効いたハードなギターサウンドといい、タイトなリズムとポップなメロディーが絡む曲風はまさにビーイング流ポップ・ソング。
5. 好きさ好きさ好きさ
1991年5月3日リリースの2ndシングル。GSの代表的グループ、ザ・カーナビーツのヒット曲として知られているが、もともとはリバプール・サウンドのゾンビーズが歌ってヒットさせたもの。このマイナー調の楽曲では、ハード・ロックとユーロビートの要素を大胆に持ち込み、見事なJ-POPサウンドに仕上げている(アレンジの勝利!)。また、本ヴァージョンには、本家本元のカーナビーツのアイ高野がゲスト・ヴォーカルとして参加している。 オリコン最高位9位。
6. 涙のバケーション
1992年12月31日リリースの10thシングル。コニー・フランシスの「Vacation」から引用された、コーラスから始まるMi-Ke流“イエイエ歌謡”。王道のアメリカン・ポップスをテーマに制作されたこの楽曲には、ミュートを効かせたギターのバッキング等、随所にアメリカン・ポップスへの深い愛情が感じ取れる。また、この楽曲が予告編となりミニ・アルバム『甦る60's 涙のバケーション』がリリースされたが、そこで演奏されている全ての要素がこのシングルには詰まっている。ビーイング・サウンドの基本形がここにある。オリコン最高位19位。
7. サーフィン・JAPAN
1992年6月10日に発売された7thシングル。この曲の下敷きはもちろん「サーフィンUSA」を1963年に大ヒットさせたビーチ・ボーイズ。そして60年代カリフォルニアを中心に巻き起こったサーフィン&ホットロッド・ムーブメント。この曲中ではモンキーズの「I'm a Believer」のリフをキーボードが刻んでいたり、60年代アメリカン・ポップス的要素をふんだんに盛り込んでいる。サーフィン&ホットロッド歌謡と形容したくなる"サマー・オブ・ラブ”なナンバー。 オリコン最高位10位。
8. 白い2 白いサンゴ礁
1991年12月4日リリースの5thシングル。叙情派フォークソングをMi-Keがやったらどうなるか? 敢えて、四畳半フォーク的なマイナー調の世界に行かず、「白いブランコ」のメジャー調路線を取ったのは正解だ。歌詞では「想い出の九十九里浜」でもチャレンジしていた順列組み合わせ歌詞を更に発展。全てのフレーズをフォーク全盛時のヒット楽曲27曲のタイトルから引用しているのは興味深い。ちなみにこのシングルが発表された後リリースされたミニ・アルバム『忘れじのフォーク・白い 2白いサンゴ礁』では様々な形でフォークの名曲カバーを行っている。
9. Pink Christmas
1992年11月6日リリースの9thシングル。この時期のMi-Keは、コンセプト重視の原音再現型サウンド&アレンジ手法ではなく、よりミクスチャーなサウンド指向に変化している。むしろここでは、様々な過去のヒット曲への変遷を経て現代に立ち返った時、Mi-Keは何をやるべきか?その回答がこの楽曲だ。ハード・ロックの要素を打ち出しつつ、導入部に「ホワイトクリスマス」のフレーズをさりげなく盛り込む、そんな絶妙センスは健在。作曲はTUBEの春畑道哉。
10. 亜麻色の髪の乙女
ヘビーメタル・ギターの咆哮から始まり、いきなりJ-POPな歌声と明るいメロディーでその世界観を一気にひっくり返す大胆なアレンジが施された一曲。島谷ひとみのリヴァイバル・ヒットでも知られる国民的楽曲だ。原曲はヴィレッジ・シンガーズの代表曲。ゲスト・ヴォーカルとしてそのヴィレッジ・シンガーズの清水道夫が参加。1991年4月13日リリースの1stアルバム『想い出のG.S・九十九里浜』収録。
11. 朝まで踊ろう
1992年7月22日リリースの8thシングル。館ひろしソロデビュー後の1stシングルであり、ヒット作。クールス脱退後の彼がナッシュビルにレコーディングで行った際(1976)、同行していたのがビーイング設立前の長戸大幸だった。「太陽の下の18才」等を彷彿とさせるイタリアンツイスト路線を巧みに取り入れた楽曲は、作曲家長戸大幸、初のヒット・ソングとして知られている。
文:斉田才
もともとB.B.QUEENSのコーラス部隊として結成。まず、彼女らはデビュー・シングル「想い出の九十九里浜」で正統派GS(グループサウンズ)サウンドを90年代に蘇らせた。
そこで聴くことが出来るサウンドは、ザ・ワイルドワンズやテンプターズ周辺のサウンド・エッセンスを巧みにちりばめ、歌詞中でもGSの名曲や当時の風俗を感じる言葉を羅列するなど、徹底して緻密に分析されたパロディー・ナンバーだった。しかし、パロディーとは、その対象となる物の本質を理解せずに成立することはない。原曲の良さを実感させ、それをリバイバルさせる優れた出来映え。それは、その後のMi-Keの楽曲を辿ることでも容易に理解出来る。
「涙のバケーション」では古き良き時代のアメリカン・ポップスを、「サーフィン・JAPAN」ではビーチ・ボーイズを始めとするサーフィン&ホットロッド・サウンドを、そして「ブルーライト ヨコスカ」ではいしだあゆみに通じる昭和ムード歌謡を、「白い2 白いサンゴ礁」では和製フォークソングを、「悲しきテディ・ボーイ」ではキャロルを始めとしたロカビリー歌謡を…、とまるでポップ・ミュージックの歴史そのものを辿る旅を続けるかのようなバラエティーの広さと深さを表現した。
パロディー精神とそのキュートなルックス故に、正当な評価が下されにくいアーティストではあったが、その軌跡を辿ってみると、今でこそ当たり前のように受け入れられている日本語によるポップスの先駆者とも言える才能をMi-Keは兼ね備えていたのだ。
もともと、Mi-KeのコンセプトはB.B.QUEENSのプロデューサーでもある長戸大幸が作り上げたもの。大のポップス・マニアとして知られる長戸は、50~60年代の洋楽シングル・コレクターとしては業界で右に出るものはいないとまで言われている。学生時代、親から貰うパン代を節約してまでシングル収集に費やした、という執念の収集は3万枚以上にも及び、そんな長戸の青春時代を彩った音楽がそのままMi-Keのバック・グラウンドに反映されているのは間違いない。
そして、長戸はMi-Keで徹底して遊んでいる。というかパロっている!
まず、B.B.QUEENSは、Blues界の大御所B.B.KINGのパロディーで、Mi-Keは最初B.B.Qシスターズだったが、バーベキュー姉妹に見えるといって面白がっていたが、いざデビューとなると新聞のラ・テ欄(ラジオ・テレビ欄)には名前が長くて載りにくいと言われ、「じゃ、どんな名前が載りやすいのか?」と問うと「今はやりの『たま』は載りやすいです」という答えに、「じゃ、『みけ』にしよう」と長戸は決めたと言っている。猫じゃあるまいし…。
ただ、だからといってMi-Keをコンセプト重視の単なるパロディー・ユニットとして見るのもまた、いかがなものか。彼女達の場合、シングルをリリースした後、必ずそのコンセプトに乗っ取った形でミニ・アルバムを制作しているのだが(しかもそのタームは当時アルバムで3カ月に1枚リリース!という驚異的なスピードだった)、オリジナルに敬意を評した形でのカバー・ソングをきっちり収録しているところを見れば、Mi-Keの制作行為が単なるおふざけで終わっていないのは明らかだ。
また、リード・ヴォーカル、宇徳敬子の実力は、その後のソロ活動の様子を見ても納得出来るだろう。ポップ・ミュージックの歴史に対する深い愛情からスタートしたコンセプチュアルなコーラスグループ、Mi-Keのスタンスとはそんな所にあるのではないだろうか。
もし、Mi-Keの存在がなかったら、現在のJ-POPは歌謡界とこれほどまでに融和していただろうか? 今さらながらに再評価されて然るべきグループだと思う。
◆「BEST OF BEST 1000」シリーズ ダイジェスト映像
https://www.barks.jp/watch/?id=1000020789
[楽曲解説]
1. 想い出の九十九里浜
1991年2月14日に発売された1stシングル。GSを意識した楽曲は数多くあれど、ここまで徹底してGSの精神を理解し、GSサウンドを現代に蘇らせ、さらにはヒットさせてしまった作品はないのではないだろうか。楽曲的にはオックスのヒット曲として知られる「スワンの涙」をベースに制作されたと噂されている。歌詞ではGSのヒット曲12曲のタイトルを羅列してみるといったパロディー精神を発揮。パクりうんぬんの是非を問う不毛な日本人的体質をモノともしない潔いインスピレーションには脱帽ものだ。また、楽曲中間部で聴くことが出来るオルガン・ソロはGSのルーツであるリバプール・サウンドを、さらにリズムにはスパイダースの影響も感じられる。古くて新しい永遠の懐メロナンバー。作詞は長戸大幸。オリコン最高位5位。
2. 悲しきテディ・ボーイ
1992年4月8日リリースの6thシングル。ギターを担当しているのは、スウィンギンボッパーズの吾妻光良。結成したてのキャロルのような、もしくは60年代の粗削りなR&Rのような感触を感じさせてくれるトラック。こんな曲には、リーゼントと皮ジャン、そしてリーバイス501がよく似合う。オリコン最高位10位。
3. ブルーライト ヨコスカ
1991年6月13日発売された3rdシングル。もちろんこのタイトルはいしだあゆみの大ヒット曲「ブルーライト・ヨコハマ」のパロディー。イントロでは流麗なオーケストラからスタート、そして一転エレキ歌謡へとチェンジするマイナー・ポップ。ベンチャーズのサウンド・エッセンスをふんだんに取り入れたこのサウンドは、まさしく昭和“エレキ路線”への回答。Mi-Ke流歌謡曲の極意がサウンドの隅々に刻まれている。プロデューサー長戸大幸のセンスがよく理解出来る一曲。オリコン最高位13位。
4. Please Please Me, LOVE
1993年5月12日リリース。Mi-Keのラスト・シングル。この時期のMi-Keのコンセプトはリバプール・サウンド。60年代前半、ビートルズを代表としたゾンビーズやハーマンズハーミッツ、ホリーズ等のブリティッシュ・ビートと呼ばれたアーティストらの代表曲をカバーしたミニアルバム『永遠のリバプールサウンド プリーズ・プリーズ・ミー・ラブ』を聴けば、それは明らかだ。(タイトルは多分にTHE BEATLESの「Please Please Me」を意識したものだろう)そして、そんなコンセプトの先行アイテムとしてリリースされたのが本作。当時、フジテレビ系木曜劇場でO.A.されていたドラマ「愛情物語」の主題歌。しかも、そのドラマ自体がビートルズ世代の大人たちが繰り広げる青春群像劇だった。サウンド的には90年代初期のビーイング色が色濃く出ていて、曲全体を通して聞かせるTUBE風コーラスといい、切ないメロディーとエッジの効いたハードなギターサウンドといい、タイトなリズムとポップなメロディーが絡む曲風はまさにビーイング流ポップ・ソング。
5. 好きさ好きさ好きさ
1991年5月3日リリースの2ndシングル。GSの代表的グループ、ザ・カーナビーツのヒット曲として知られているが、もともとはリバプール・サウンドのゾンビーズが歌ってヒットさせたもの。このマイナー調の楽曲では、ハード・ロックとユーロビートの要素を大胆に持ち込み、見事なJ-POPサウンドに仕上げている(アレンジの勝利!)。また、本ヴァージョンには、本家本元のカーナビーツのアイ高野がゲスト・ヴォーカルとして参加している。 オリコン最高位9位。
6. 涙のバケーション
1992年12月31日リリースの10thシングル。コニー・フランシスの「Vacation」から引用された、コーラスから始まるMi-Ke流“イエイエ歌謡”。王道のアメリカン・ポップスをテーマに制作されたこの楽曲には、ミュートを効かせたギターのバッキング等、随所にアメリカン・ポップスへの深い愛情が感じ取れる。また、この楽曲が予告編となりミニ・アルバム『甦る60's 涙のバケーション』がリリースされたが、そこで演奏されている全ての要素がこのシングルには詰まっている。ビーイング・サウンドの基本形がここにある。オリコン最高位19位。
7. サーフィン・JAPAN
1992年6月10日に発売された7thシングル。この曲の下敷きはもちろん「サーフィンUSA」を1963年に大ヒットさせたビーチ・ボーイズ。そして60年代カリフォルニアを中心に巻き起こったサーフィン&ホットロッド・ムーブメント。この曲中ではモンキーズの「I'm a Believer」のリフをキーボードが刻んでいたり、60年代アメリカン・ポップス的要素をふんだんに盛り込んでいる。サーフィン&ホットロッド歌謡と形容したくなる"サマー・オブ・ラブ”なナンバー。 オリコン最高位10位。
8. 白い2 白いサンゴ礁
1991年12月4日リリースの5thシングル。叙情派フォークソングをMi-Keがやったらどうなるか? 敢えて、四畳半フォーク的なマイナー調の世界に行かず、「白いブランコ」のメジャー調路線を取ったのは正解だ。歌詞では「想い出の九十九里浜」でもチャレンジしていた順列組み合わせ歌詞を更に発展。全てのフレーズをフォーク全盛時のヒット楽曲27曲のタイトルから引用しているのは興味深い。ちなみにこのシングルが発表された後リリースされたミニ・アルバム『忘れじのフォーク・白い 2白いサンゴ礁』では様々な形でフォークの名曲カバーを行っている。
9. Pink Christmas
1992年11月6日リリースの9thシングル。この時期のMi-Keは、コンセプト重視の原音再現型サウンド&アレンジ手法ではなく、よりミクスチャーなサウンド指向に変化している。むしろここでは、様々な過去のヒット曲への変遷を経て現代に立ち返った時、Mi-Keは何をやるべきか?その回答がこの楽曲だ。ハード・ロックの要素を打ち出しつつ、導入部に「ホワイトクリスマス」のフレーズをさりげなく盛り込む、そんな絶妙センスは健在。作曲はTUBEの春畑道哉。
10. 亜麻色の髪の乙女
ヘビーメタル・ギターの咆哮から始まり、いきなりJ-POPな歌声と明るいメロディーでその世界観を一気にひっくり返す大胆なアレンジが施された一曲。島谷ひとみのリヴァイバル・ヒットでも知られる国民的楽曲だ。原曲はヴィレッジ・シンガーズの代表曲。ゲスト・ヴォーカルとしてそのヴィレッジ・シンガーズの清水道夫が参加。1991年4月13日リリースの1stアルバム『想い出のG.S・九十九里浜』収録。
11. 朝まで踊ろう
1992年7月22日リリースの8thシングル。館ひろしソロデビュー後の1stシングルであり、ヒット作。クールス脱退後の彼がナッシュビルにレコーディングで行った際(1976)、同行していたのがビーイング設立前の長戸大幸だった。「太陽の下の18才」等を彷彿とさせるイタリアンツイスト路線を巧みに取り入れた楽曲は、作曲家長戸大幸、初のヒット・ソングとして知られている。
文:斉田才
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