【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話064「音楽のツボは裏切りにあり?」

現代の神経科学・認知科学によると、我々の脳には予測符号化という働きがあるらしい。簡単に言えば、過去の経験をもとに「次はこうなるだろう」とあらかじめ予測しておき、実際に違ったら、その差分だけを処理して精度を上げていくという効率的な情報処理方法だ。五感として受ける情報をバカ正直に全受信&処理するのではなく、予測外の「変化」や「驚き」のみに注目するというエコな仕組みのおかげで、素早く環境に適応でき、知覚・学習・行動という進化/成長を最大化させてきたらしい。かしこい。
ここで注目したいのは、予測と違って「え?」となったときのこと。その差分を検知して取り込むときにドーパミンのような脳内物質がぶっ放されることが分かっている。音楽を聴いていて「え?」と思ったあとの「期待」と「解決」は、とりわけ強い快感を生じさせるらしい。要するに期待が裏切られるも、最終的に意味付け可能な形で回収されると感情は大きく揺さぶられるわけだ。音楽が感情を動かす要因は「快」そのものではなく、「予測と逸脱のバランス」「期待と裏切りの兼ね合い」が大事なポイントだと、現代の認知神経科学で語られている。
音楽を聴くとき、我々は無意識のうちにメロディやリズム、和声の進行を予測し、例えば「あるコード進行が来れば、次はこう進むだろう」という無意識の期待が生成される。この「予測」が適度に当たり適度に裏切られると、脳内の報酬系が活性化し脳汁が出ちゃうというわけだ。予測が的中する「安心感」もあるけれど、予定調和は退屈で逸脱しすぎると興味を失う。大事なのはバランス、その人にとっての頃合いだ。
当然だけど「不快との境界」は見逃せないポイントで、予測からの逸脱が大きくなりすぎると脳はそれを「理解不能なノイズ」として処理し「不快」と判断する。黒板を引っかく音に不快感を感じるのは、高周波かつ不規則で予測不能な音が「不快との境界」のしきい値を超えているから。音楽は、このしきい値の手前で絶妙にコントロールされているもので、ジャズにおけるテンションノートやブルーノートは、調性からわずかに逸脱しながらも、文脈の中で意味を持つことで「不安定さ」を「表現」に転化させている。またクラシックにおける不協和音も、解決へ向かう過程があるからこそ緊張と解放のダイナミクスを成立させる有効な刺激を持つ。
どうやら音楽が感情を動かすのは「美しいから」ではなく、「予測可能な秩序と逸脱による揺らぎのせめぎ合いが脳の予測システムを刺激し続けるから」のようだ。もちろん逸脱し過ぎてしまえば、その音楽は一気に不快へと転落してしまう。嫌いな音楽とは、その人にとって臨界点の向こう側に転がってしまったものなのかもしれない。
当然「え?」と予想を裏切るしきい値には個人差があることだろう。それが好き嫌いを左右する分水嶺なのかもしれないし、マニアと呼ばれる人たちの嗜好性にも直接関わっているポイントかも知れない。よく考えれば「予測と逸脱のバランス」というこの構造は音楽に限った話でもなく、映画や物語もそうだし、もっと言えば会話だって人間関係そのものがこのバランスで動いている。相手の言動が予測内であれば平穏だけど、ほんの少しの「え?」が差し込まれると、ざわつきが生まれるよね。そこから解決や別離へとストーリーが始まる。
そう考えると、「面白さ」や「魅力」というものの正体は、理解できる範囲に踏みとどまりながら、ほんの少しだけ裏切るという絶妙な設計思想にありそうだ。「ちょうどいい裏切り」の位置は「人によって」「状況によって」「時代によって」変わり続けるから、ヒットは無限増殖できないんだろう。
結局「音楽」は、「外から与えられるもの」ではなく「自分の中にある予測を素材にして成立する体験」とも解釈できる。好きな曲は聴くたびに報酬系を刺激するし、聴くたびに予測の精度が更新されればわずかなズレが更なるドーパミンを誘う。同じ曲を何度聴いても新鮮さを失わないのはそういうことだ。
「音楽を楽しむ」という行為が「自分の予測と、その裏切られ方を楽しむこと」なのであれば、我々が聴いているのは音そのものではなく、「裏切られる準備が整った自分自身」なのかもしれないね。
文◎烏丸哲也(BARKS)
