「未成年」 2004年1月21日発売 Dreamusic MUCD-5052 1,050(tax in) 1 未成年 2 幸せなうた 3 サーカスがやってきた~Piano Solo~ ■ 「未成年」のPVを観よう | | <FM Osaka Spring Live Special Blooming Beauty> 日時:2004年3月14日(日) 開場17:00、開演17:30 会場:大阪・なんばHatch 出演: 畠山美由紀、KOKIA、柴田淳 スペシャルゲスト:大貫妙子 [問]サウンドクリエーター 06-6357-4400 ※チケット発売は1/31(土)~ | | 僕は「愛は、愛をもらった者にしかわからない」という基本原則を認める一方で、「愛なんて知らない」という人に自分の文章表現を通して「もの・こと・音楽・人」に対する愛情を伝えたいと願う者である。
先日もある知人男性から相談を受けたのだが、内容は、別れた女性がストーカーになってつきまとい、夜もまともに眠れないというものだった。僕は「別れる際に、キミが彼女に対する愛を開示しなかったからだ」と戒めた。別れる際には出会ったときの何十倍もの愛を示さなくてはいけないという“作法”を、今の男性の多くは知らない。もちろん僕も、加齢に伴ってそうした作法=HOW TOを解していったゆえ、若い頃はさぞや“無法者”だったことだろう(笑)。
柴田淳のニューシングル「未成年」の一節に<涙の流し方を教えて><愛し方を知らない>という○○の仕方=HOW TOに関するフレーズがあるけれども、未成年なのだから、それは当然である。<こっち向いてくれないから 心を歪めるしかなかったんだ>とも歌われているから、この歌のリリックは未成年の犯罪をも射程に入れていると思われる。未成年も親との精神的決別のときを控えているので、どこかで不安定だ。そして、親との別れに際して親側(もっと大きく言えば人生の先達側)から何らかの愛が開示されないと、作法を知らない若者は、軌道からはみ出た行動に出るのである。
僕の尊敬する人物のひとり~安倍晴明(陰陽師)の物語に、鬼に取り憑かれた女性と琵琶の玄象(げんじょう)の一件を落ち着かせる巻がある。晴明は鬼の本体である犬の牙に自分の左腕を差し出すのだが、犬が食らいついてきた自分の左腕を見ながらうめきひとつ上げずに「あの琵琶はよかったなぁ」と呟くのである。そうすると、犬の鬼(き)は失せる。晴明の差し出した左腕は、愛の具現、愛の開示であろう。未成年も女性も男性も、人は皆“呪(しゅ)”を帯びる可能性があるのだ。「未成年」を聴きながら、僕はそんなことを思った。
文●佐伯 明(音楽文化ライター) | 曲は<ぼくらは…>と始まる。「ぼくは…」ではなく「ぼくら」。不特定の多数が語る「僕」の心情。だから、この曲は果てしなく重く、辛い。締め付けられるような想いが心身を被う。
<気付いて欲しかっただけで 誰も何も 壊すつもりは…>とか<こっち向いてくれないから 心を歪ませるしか…>とか、聞いているだけでむかむかしてくるような不愉快な詩が並ぶ。しかし、多くの未成年の胸の底には、このような言葉にすら言い表せない「混沌と不安定」、そして「やり場のないささくれ立った心情」が沈殿している。きっと、悲しいかな事実なのだろうと感じている。
言葉にして叫ぶことさえままならない未成年。苦しんでいることにすら気付かぬまま明かりを見失い、暗中をさ迷う生き方が「当たり前」として今を生きる。その不幸がどういうことなのか、推し量る基準すら見当たらない。
法は未成年に照準を合わし、社会は未成年に怯え、未成年はさらに自分を見出せなくなる…そんな世の中で、柴田淳がここに放つメッセージを受け入れるべき人間は、紛れもなく「未成年」ではなく「大人」である。作品「未成年」は、世代を育み「人」を育む「大人たる大人」に与えられた自戒の機となって世に響いていくだろう。
未成年に罪はない。罪悪の根源が「子供のまま年を重ねた大人」にあることは自明である。こんな不愉快な「詩」が生まれ、それに鷲づかみされてしまう自分、そんな自分を受け入れている世間…全てにこの曲を伝えなくてはならないのではないか? 文●烏丸哲也(BARKS編集長) |
「愛してほしい」。 そのメッセージを主観的で具体的な表現ではなく、柔らかい綿にくるんで提示した「未成年」。不完全に完成してしまった大人と主人公の“ぼく”は同一線上にあるのに、その時代から後ろを向いてしまった出来損ないの背中を持つ大人は、“ぼく”の声を聞くことができないし見ることもできない。してほしいことはなんら特別なことではなく、ただ抱きしめて声を聞いて、そして愛してほしいだけなのに…。情景描写も肉声もなく、ただ普遍的な言葉が広がる。“ぼく”ですら、女なのか男なのか性別を持たない。属性のない詩世界は、世代の対立などというわかりやすい図式ではなく、心の奥底にあって形にならないゆるやかな悲鳴を感じさせる。 このタイトルと生ピアノ、ストリングスアレンジは、'70年代の森田童子や山崎ハコを彷彿させるが、彼女らにあった私小説的で直截的なメッセージとは離れたところにある。この「未成年」にある透明感は、柴田淳の声質によるものだけでなく、属性なき時代の必然として生まれてくるものなのかもしれない。聞き手の想像力を刺激する曲だ。 文●森本 智(編集部) |
昨今多発している少年犯罪の根底には、希薄な親子関係があると言われているけれども、本作で柴田淳は、そんな<愛していて いつまでも>と愛を渇望する子供たち、未成年の内なる叫びを綴った。 <気付いて欲しかっただけで 誰も何も 壊すつもりはなかった> <ぼくらの魂の悲鳴 聞いて> 吶吶と吐き出される彼ら=未成年の心の闇は理解できなくはない。放置したり偏執的に愛したり、そうした親の行動に問題があるのは当然のこと。だがしかし、他人のせいにしちゃイカンだろうと私は思うのだ。未成年者による犯罪の被害者の身になってみれば、<こっち向いてくれないから 心を歪めるしかなかったんだ>なんて言われても憤りを感じるばかりだろう。加害者なのに被害者みたいな…。親になることの責任の重さを突きつけられた思いがする。 文●望木綾子(編集部) |
あらためて思うのは、いわゆる未成年といわれてイメージする年……12~19歳くらいだろうか、この年代は恐ろしくパワーを内包している生き物なのだということだ。最近のニュースを見、さまざまな小説を読み、そしてこの曲を聴いてみて、そう思った。そしてそんな年代を過ごしてきた私だけれど、そのころは何を思い、何をしていただろう、と思い返してみた。 私は中学時代、バスケット部に所属していた。決して強くないチームだったのに、朝夕のハードな練習は当たり前。夏休みもお盆の2~3日を除けば毎日、風通しの悪くウダるような体育館の中、よくも倒れずに走りつづけていたと思う。その反動か、高校~大学時代は音楽にのめり込んだ。そしてただ聴いているだけで自分のいいように解釈し、自分の世界を作り上げていた気がする。いづれにせよバスケにも音楽にも、理屈なんて必要なかった。私のパワーを吸収し、整理してくれる明確さを必要とし、私にとってバスケや音楽にはそれがあったように思う。
そして(体型も含め?)丸くなった今、あのころの持て余していたパワーの塊は持ちえていないが、私はあのころの自分が忘れられず、一度は音楽とはまったく関係ない仕事に就いたが、また音楽に関わりたくこんな仕事をしている。そして今でもたまにバスケをしている。
文●でもまだ愛はよく分からない30代♀(編集部) | |