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2003年、彼は7,000人の参加者と共にTV番組のオーディションを受ける無名の若者に過ぎなかった。それが今では、数百万もの人々が、彼の名前を、顔を、歌声を知る。FOXテレビの視聴者参加型音楽オーディション番組『American Idol』での成功と、続くシングルのヒットによって、今やクレイ・エイケンは、全米だけでなく世界中に熱狂的なファンを持っている。

ノース・カロライナ州シャーロットで、FOX傘下のローカル局が主催する『American Idol』の地方予選を受けた時、彼は全く問題外の存在だった。優勝すれば、アトランタの二次予選を無条件で受けられたのだが、彼は選ばれなかった。だが、友人に説得されて、それでもアトランタ行きを決めたのだった。

その決断は正解だった。そもそもクレイが受けようとしていたのは、CBSの視聴者参加番組『The Amazing Race』(11組のペアが世界一周に挑戦する)だった。「記入済みの申し込み用紙を持って、ルームメイトのエイミーと一緒に受けるつもりだった。このチームがダメだった時のために、もう一人準備してたんだけど、その彼女が言ったんだ。“いいえ、あなたは『American Idol』を受けるべきよ”って。彼女がうるさく言い募るものだから、“わかった、黙ってくれるなら言う通りにするよ”って答えたんだ。」

最初は『American Idol』のプロデューサー面接だった。クレイはヒートウェーヴの ”Always and Forever” を歌うつもりだった。が、口を開くと、出てきたのは『Perfect Strangers』(80年代後半~90年代前半に放映されたABCのTV番組)のテーマソングだった。プロデューサーはクレイにもう一度チャンスを与え、彼は無事 ”Always and Forever” を歌い終えると、二次審査に進んだ。そこでエグゼクティヴ・プロデューサーの一人、ナイジェル・リスゴーの面接を受けた。リスゴーは言った。「求めているのは個性的な人材だ。」

「それを聞いてビビったよ」とクレイは笑う。「僕には個性なんてなかったから。」リスゴーは、彼を“天性の歌声の持ち主”と評し、次のラウンドでは審査員の一人、ポーラ・アブドゥルに向かってダイレクトに歌いかけるよう指南した。

だが翌日、当のポーラは審査を欠席していた。クレイは、サイモン・カウェルとランディ・ジャクソンの前で歌ったが、もう合格の望みはないと諦めていた。「ただ、“行って楽しくやってくるよ”とだけ言ったんだ。合格なんてありえないと思ってた。なら楽しまなきゃ損だって思ったんだ。」サイモンは、「彼はポップ・スターには見えないが、声は素晴らしい」と言った。ランディはハリウッド行きにOKを出し、サイモンも同意した。

カリフォルニアで、クレイは上位32人に残ったものの、8人ずつのグループ審査は通過できなかった。しかし、ワイルド・カードで敗者復活のチャンスを与えられた彼は、エルトン・ジョンの ”Don’t Let The Sun Go Down On Me” をセンセーショナルに歌い上げ、電話投票で最多票を獲得、上位12名の審査に進んだ。

数週間にわたって、参加者たちが次々ふるい落とされていく中、クレイは “Somewhere Out There”、”Build Me Up Buttercup”、”Solitaire”、”Mack the Knife” といった多彩な曲で視聴者のハートを掴んでいった。そして、選考は決勝の二名に絞られた。クレイ・エイケンとルーベン・スタッダードだ。2,500万を超える投票総数で、二人の差はわずか13万票。スタッダードが勝者となり、エイケンは惜しくも次点だった。彼は、19 Entertainment社創立社長のサイモン・フラーとじきじきに契約を交わした。UK版『Pop Idol』、アメリカ版『American Idol』の企画制作会社、19 TVのオーナーである。エイケンのデビュー・シングル “This Is The Night”/”Bridge Over Troubled Water” は、RCAより6月10日にリリースされた。

1978年11月30日、ノース・カロライナ州ローリーで生まれたクレイは、3歳の時には早くも音楽的才能を現わしていた。母親のフェイは、地元のシアーズで働いていた。「お店に行くと、みんなが1ドルくれて、僕はカーペットのサンプルの上に立って歌ったものさ」と彼は回想する。「本当に歌がうまかったわけじゃなくて、ただ好きだったから。子供の中にはシャイな子っているけど、僕は決してシャイではなかったね。」5歳にして、彼はハイスクールの冬のダンスパーティで ”Islands in the Stream” を歌い、学生たちのマスコット的存在になった。「みんなが僕を見て笑うから、言ったんだ。“ママ、みんなが僕のこと笑ってるよ”って。そしたら母は答えた。“いいえ、あなたのこと可愛いと思ってるのよ”って。」

彼は、兄、弟、妹と一緒に、母親が好きなオールディーズやカントリーの専門局を聴きながら育った。7歳の時、クーポン券に1セント硬貨を貼り付けて、アルバム12枚が貰えるレコード・クラブに応募した。母親のフェイは、彼にクリスタル・ゲイルのLPを与え、彼は自室に置かれたフィッシャー・プライスの安プレイヤーで、初めて買ったシングル、マリー・オズモンド&ダン・シールズの “Meet Me in Montana” などと共にそれを聴いた。

音楽と歌への情熱に導かれるまま、彼は地元ローリーの少年合唱団に加わった。7年生に進級する頃には、学校の合唱団にも所属した。それでも飽き足りず、ハイスクールでは学生ミュージカルに参加、1年生ながら “Leader of the Pack” などの作品で次々と役を得た。在学中に”Oklahoma!” や ”The Music Man” などに出演したほか、ある夏には “The Sound of Music” のディナーショーに参加、のちに “Malcolm in the Middle” に出演するFrankie Munizと共演した。

カレッジに進んだクレイは、音楽の勉強も、歌手としてのキャリアも追わないと決めていた。「不安定な暮らしに耐える根性はないし、残りの人生をずっと誰かに見出されるのを待ってドアを叩き続けるのは嫌だったんだ」と彼。「特殊教育を学ぼうと決めて、自閉症児の教育に生きがいを見出した。人生のプランを決めたんだ。6年教えて、その後ウィリアム&メアリー・カレッジに進んで修士号を取るつもりだった。」彼の予定では、50歳の時にはハイスクールの校長になっているはずだった。

自閉症を持つ17歳の学生を1年受け持った後、クレイはノース・カロライナ州シャーロットのブーベル家に派遣され、息子マイクのケアをすることになった。マイクの母親、ダイアンこそが、クレイに『American Idol』第2シーズンのオーディションを受けるよう勧めた人物だった。

デビュー・アルバム『メジャー・オブ・ア・マン』はLA、マイアミ、ロンドンで、エグゼクティヴ・プロデューサーのクライヴ・デイヴィスをはじめ、スティーヴ・マック、クリフ・マグネス、デズモンド・チャイルド、スティーヴ・モラレス、リック・ノウェルズといったプロデューサー、ソングライター達を迎え入れ制作された。2003年夏は『American Idols Live!』ツアーで全米でツアーを行い、その天性の歌声を全米のファンの前で披露した。

セールスとエアプレイの数字が明らかになると、クレイのシングル “This Is The Night” はビルボード・ホット100初登場第一位という歴史的デビューを飾った。リリース第一週に392,000枚以上を売り上げ、エルトン・ジョンの “Candle in the Wind 1997” 以来の週間セールス記録を樹立した。また、ポール・サイモンのカバー曲 “Bridge Over Troubled Water”(明日に架ける橋)で、ビルボード・アダルト・コンテンポラリー・チャートにもランク・インを果たした。全米で10/14リリースとなったデビュー・アルバムは見事ビルボード・アルバム・チャート初登場1位を獲得。第一週目のセールスは613,000枚でブリトニー・スピアーズの1週目のセールスをも凌ぐ驚異的デビューを果たした。