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AORという音楽ジャンルが再び脚光を浴びている。王道のロック志向の方々からは軽薄に見られた時期もあったが、最近の動きはソウルやレア・グルーヴといった側面からも捉え直された再評価と言える。そのAORがどういう経過を経て誕生したかは諸説あるが、必ず引き合いに出される "AORの原点" という作品が『Italian Graffiti』で、そのアルバムを生み出したのが Nick De Caro である。 Nick De Caro(本名:Nicholas Joseph De Caro)は'38年6月23日、オハイオ州クリーヴランド生まれ。父親がミュージシャンということもあり、Nick が物心ついた時には、Frank Sinatra、Jo Stafford、The Four Freshmenといった当時のポピュラー・ミュージックが家中に響きわたっていた。楽器は6歳からアコーディオンを始め、その後はギターもマスターしている。学生時代には兄の Frank や友人の Tommy Lipuma と共に Four Freshmen タイプのコーラス・グループを結成していたというから、ヴォーカル・ハーモニーへの造詣は既にこの頃から深かったに違いない。 Tommy Lipuma がリバティ・レコードに入社し、彼に誘われる形で Nick も'64年にリバティのスタッフになる。'65年に Lipuma がA&Mに入社しスタッフ・プロデューサーになると Nick も独立。主にアレンジャーとして活躍し、Chris Montez や Claudine Longet などのA&Mポップス黄金期の形成に貢献した。'69年、アレンジャーとしての手腕が高く評価された Nick は、A&Mから初のリーダー作を発表する。 1stアルバム『Happy Heart』は全体にオーケストレーションを配した趣味の良いイージー・リスニング作品である。プロデュースは Tommy Lipuma と Nick 自身 、ジャケット・デザインは Camouflage Productions の Tom Wilkes(ジャケットの印象的なモデルは若き日の Goldie Hawn )、Hal Blaine を始めとするミュージシャン達、そしてライナーノーツを Claudine Longet が書いている。注目すべきは The Beach Boys の「Caroline, No」と、The Supremes と The Temptations の共演盤がヒットした「I'm Gonna Make You Love Me」の2曲のヴォーカル曲での洗練されたヴォイシングは一聴の価値がある。 70年代に入り Lipuma が新たなレーベル "Blue Thumb"をスタートさせると、Nick もその制作を手伝う事になる。エンジニアのAl Schmitt を含めた3人はジャズやR&Bテイストのアルバム制作を多数こなし、セールスはともかく音楽的な成功を実感する。そして Nick のあるコンセプトを実現させるべく1枚のアルバム制作に取り掛かった。 “Carpenters や The Beach Boys のようなポップ・ミュージックに、ジャズやソウルのような大人っぽいサウンドエッセンスを加える”というコンセプトに基づいて制作された'74年の2nd『Italian Graffiti』は文句なしの名盤だ。Stevie Wonder や Van McCoy などのソウル系から、Joni Mitchell や Randy Newman、Todd Rundgren などのSSW系に加え、当時まだ無名だった Stephen Bishopや Dan Hicks などのニクい選曲。更にスタンダードの「Tea For Two」でこのアルバムの色合いを決定付けた。選曲だけでなく、David T.Walker を始めとするソウル・ジャズ系の参加ミュージシャンも渋いプレイでキメている。 『Italian Graffiti』のコンセプトを更に推し進めた2枚のアルバム George Benson『Breezin'』と Michael Franks『The Art Of Tea』を担当し、その後隆盛を極めるAORの音楽的な性格を決定付けた Nick は、80年代前半までアレンジャー/プロデューサーとして辣腕を振るうことになる。特にストリングス・アレンジャーとしては数え切れないほどのアーティストのレコーディングに参加している。 鳴りを潜めた80年代後半を経て、活動再開の契機となったのが'90年の阿川泰子のスタンダード集『ユア・ソングス』ヘの参加。日本側スタッフの熱心な勧めもありビクターInvitationとアーティスト契約を交わすに至り、'91年にはそのInvitationから山下達郎のカヴァー集『Love Storm』、更にオリジナルの『Private Ocean』を発表する。'91年2月には David T.Walker らをバックに来日コンサートも行っている。そして本国アメリカでも本格的に活動を再開しようと意欲を見せていた矢先の'92年3月、心臓発作で急逝。享年53歳。