ニュース・最新情報
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『リバイバル69 ~伝説のロックフェス~』、ビートルズ解散直前の胸中をジョン・レノンが語る特報映像&ポスタービジュアル解禁
ビートルズ終焉ののろしになったとも言われ、<ウッドストック>と並び称されるロック史を大転換させた伝説の音楽フェスティバルの“真実”を描く傑作ドキュメンタリー『リバイバル69 ~伝説のロックフェス~』が、2023年10月6日(金)より、ヒューマントラストシネマ渋谷、角川シネマ有楽町ほか全国公開となる。
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ミック・ジャガー「リトル・リチャードから学んだ」
ザ・ローリング・ストーンズのメンバーが、リトル・リチャードの死を惜しみ、追悼の言葉を寄せた。
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ボブ・ディランとポール・マッカートニー、リトル・リチャードを追悼
ボブ・ディランとポール・マッカートニーが、5月9日に亡くなったロックンロールのパイオニア、リトル・リチャードへ弔辞を捧げた。
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ロックンロールのパイオニア、リトル・リチャードが死去
ロックンロールの先駆者の1人で、ザ・ビートルズ、エルトン・ジョンら多くのミュージシャンに影響を与えたシンガーのリトル・リチャードが、5月9日、87歳で亡くなった。
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リトル・リチャードが歌手引退を宣言
リトル・リチャードが歌手活動から引退するようだ。
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ミュージシャン、ボ・ディドリーの死を哀悼
月曜日(6月2日)、チャック・ベリーやリトル・リチャードと並び“ロックンロールの生みの親”と称されたボ・ディドリーが心不全のため亡くなった。
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トゥパック、ラスベガスにて蝋人形に
多数の著名人の蝋人形を展示していることで知られるマダム・タッソー蝋人形館にて、新たにトゥパックの蝋人形が展示されると、PRNewswireが報じている。
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故ウィルソン・ピケットの葬儀が行なわれる
1月19日に心臓発作にて亡くなったベテランR&Bシンガー、ウィルソン・ピケットの葬儀がケンタッキー州にて執り行われたと、AP通信などが報じている。
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UK『音楽の殿堂』、殿堂入りアーティストが決定
11月11日、UK版『音楽の殿堂』セレモニーがロンドンのハックニー・エンパイアで開催され、殿堂入りするアーティストがその栄誉が称えられた。
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リトル・リチャード、亡くなった師に感謝
ロックンロールの祖ともいうべきリトル・リチャードが先週、師と仰ぐメリヴィン・C.“パーシー”・ウェルチの葬儀に出席し、追悼を行なったと2月17日付のUSA TODAY紙が伝えている。
プロフィール・バイオグラフィ・リンク
Little Richard (本名 Richard Wayne Penniman)は、'32年12月5日ジョージア州メイコンで生まれた。近所の教会でピアノと歌を学び、幼い頃から街頭やバスのターミナルで歌っていた。'51年、Buster Brown's Band のボーカリスト&ピアニストとして地元のクラブに出演するようになる。"Little"という愛称はこの頃付けられた。'52年、ニュー・オーリンズのローカル・ブルース・シンガー Bill Wright と出会い、2つの点で強い影響を受ける。1つはそのブルース・フィーリング溢れるボーカル・スタイル、もう1つは15センチの高さに及ぶポマードべったりのヘアに、ケバケバしいメーキャップや衣装といった、ステージ上のスタイルである。
同年 Wright の薦めでアトランタのタレント・コンテストに出場し優勝した Richard は、RCAレーベルからデビューを飾る。4枚のシングルを制作し、ヒットには至らなかったものの、高音部を叩きつけるような独特のピアノ奏法はすでに完成されていた。'53年から'54年にかけて彼はヒューストンの Peacock Records でもレコーディングしているがここでも目は出ない。が、しかし翌年ロスのSpecialty Records のオーナー、Art Rupe のもとに数曲のブルース・ナンバーを録音したデモを送ったことから事態は好転する。Art は Richard と契約を承諾し、9月14日 Specialty での初レコーディングがニュー・オーリンズで行なわれた。
その時に録音された「Tutti-Frutti」は'55年12月にR&Bチャートで2位を記録、翌'56年2月までにはポップス・チャートでもブレイクを果たす。次の「Long Tall Sally」もR&Bチャートで8週連続1位という大ヒットになったが、ラジオ局では白人のカバーを優先させるなどの事態も起こった。更に第3弾「Rip It Up / Ready Teddy」も両面ヒットになるなど快進撃は続く。以降'58年までに「Keep A Knockin'」「Good Golly Miss Molly」「Lucille」など、R&R のスタンダードを次から次へと発表していった。
'58年1月、アラバマ州ハンツヴィルにある黒人牧師のための大学で講演。その席上で Richard は「過去2年間に1億ドル近い金を稼いだが、エンターテインメントの仕事からはもう離れる」と宣言をした。理由は飛行機事故に遭遇しかかった時に神の啓示を受けたからと説明している。その日以来信仰の道に進んでしまい、R&R を”悪魔の音楽“と呼び「R&R が死んだ」と言われる当時の一連の動きの一翼を担ってしまう。しかし今思えばこうした Richard の言動は、R&B が R&R を経てソウルへと移行し始める象徴であったとも言える。
ゴスペル・シンガーとしてわずかな成功の後、'62年にSam Cooke とのパッケージ・ツアー、更に1年後の the Rolling Stones とのヨーロッパ・ツアーで、エンターテインメントの世界に復帰。以来「アイ・アム・ザ・キング・オブ・ロックン・ロール!」と叫びながら派手なライブ・パフォーマンスを続け、'86年にはロックの殿堂入りを果たしている。