ニュース・最新情報
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カラヤン、全7タイトルのブルーレイ『カラヤンの遺産』発売決定
ヘルベルト・フォン・カラヤンの晩年のライブ映像を中心として収録した全7タイトルのブルーレイディスク『カラヤンの遺産 1982‐1988』が、7月10日に発売される。
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カラヤン、356枚組の『録音大全集』
ヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕110年を前に、完全限定356枚組のボックス・セット『カラヤン録音大全集~The Complete Recordings on DG & DECCA』が発売される。
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カラヤン、25年目の命日に究極のベスト盤
2014年7月16日(水)、カラヤン25年目の命日に、アニバーサリー・イヤーの決定盤といえる究極のベスト盤『THIS IS KARAJAN』が発売となる。
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カラヤン、初のファン投票スタート
2014年に没後25周年を迎えたカラヤンの来日時の秘蔵写真が公開されている。
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全100曲、トータル約9時間51分。ヘルベルト・フォン・カラヤンの配信限定ベストアルバム
指揮者 ヘルベルト・フォン・カラヤン。
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CD82枚組の弩級ボックス『カラヤン1970年代BOX』、発売
大好評を得た「カラヤン60年代BOX」に続く、BOX第2弾『カラヤン1970年代BOX』が発売になった。
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偉大な芸術家の姿とその魅力の秘密、『素顔のカラヤン【DVD】』
DVD作品『素顔のカラヤン』が6月19日に発売となった。
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ベルリン・フィルから日本のリスナーへ感謝のメッセージ
サイモン・ラトル指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームスの交響曲全集が日本発売となった。
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2008年は、カラヤン生誕100周年メモリアル・イヤー
その卓越した音楽性とカリスマ性で20世紀クラシック界に君臨した大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン。
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一家に一枚、新たなクラシック・コンピ
シリーズトータル180万セットを突破する大ヒットシリーズ『ベスト・クラシック100』のEMI CLASSICSレーベルより、新たなクラシック・コンピ・シリーズが登場する。
プロフィール・バイオグラフィ・リンク
20世紀を象徴する不世出の大指揮者。1908年4月5日ザルツブルクに生まれる。4歳からピアノを学び始め、1913年に慈善演奏会で最初の演奏を行い、“神童”と話題となる。1916年生地のモーツァルテウム音楽院に入学、フランツ・レトヴィンカ、フランツ・ザウアー、ベルンハルト・バウムガルトナーに師事。1926年同音楽院を卒業後、ウィーン音楽アカデミーに入学。バウムガルトナーの勧めで指揮法も学び、指揮科を卒業した。
1926年1月22日、ザルツブルクのモーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビュー、R.シュトラウスの「ドン・ファン」やチャイコフスキーの交響曲第5番などのプログラムでセンセーショナルな成功を収めた。3月2日にはウルム市立歌劇場におけるモーツァルトの「フィガロの結婚」でオペラ・デビューも果たし、1934年3月まで同歌劇場の指揮者を務めた。
1933年8月、ザルツブルク音楽祭に初出演、翌年8月にザルツブルクでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮、1937年6月にはブルーノ・ワルターの望みもあってウィーン国立歌劇場にデビュー、演目はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」だった。1938年4月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮、圧倒的成功を収めて、以後50年あまり続くベルリン・フィルとの栄光の第一歩をスタートさせた。同年9月、ベルリン国立歌劇場にデビュー。翌月に指揮した「トリスタンとイゾルデ」で、“奇跡のカラヤン”と評されるほどの空前の成功を収め、それをきっかけに同年12月ベルリン国立歌劇場管弦楽団と初録音(ドイツ・フラモフォン)。曲目はモーツァルトの「魔笛」序曲だった。
第2次世界大戦中はベルリンを中心に活躍、1945年のドイツ無条件降伏によって2年間ほどは指揮活動を禁止されたが、47年10月、公的な指揮活動の許可を得て正式に復帰を果たした。1948年、英EMIの名プロデューサー、ウォルター・レッグが創設したフィルハーモニア管弦楽団に迎えられ、1960年まで同オーケストラと大量の録音を行い、世界的な知名度を得た。
1948年12月、ミラノ・スカラ座のドイツ・オペラ部門の総監督に就任。51年夏、バイロイト音楽祭にデビュー、オペラ活動も本格化させた。1954年4月、単身で初来日してNHK交響楽団を指揮(以後1988年までに通算11回来日)、55年4月、フルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィルの芸術監督、常任指揮者に就任、翌年終身指揮者となり無くなる直前までその任にあった。
1956年6月にウィーン国立歌劇場の芸術監督(1964年8月まで)、10月にはザルツブルク音楽祭の芸術総監督に就任(60年9月まで)、1957年11月、ベルリン・フィルと初来日した(88年までに通算9回)。ちなみに、カラヤンとベルリン・フィルの海外公演は、1955年2月のアメリカ・カナダ公演に始まり、翌年再びアメリカ公演を敢行(アメリカでは82年までに計105回の公演)、以後、韓国・中国を含む世界各地にツアーを行った。1959年ウィーン・フィルと世界ツアー、日本には10月~11月に来訪、これが同オーケストラとのただ1会の日本公演であった。1964年にはドイツ・グラモフォンと専属録音契約を結んだ。
1967年、ワーグナーの楽劇の上演を最大の目的とするザルツブルク復活祭音楽祭、72年にはザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を創設して、自ら芸術監督に就任、1969年~71年にはパリ管弦楽団芸術監督も兼任、ベルリンとザルツブルクにおける精力的な活動に加えて、77年5月にはウィーン国立歌劇場に復帰して、「カラヤン美学」と讃えられた比類ない芸術を確立した。この1960年代から70年代終わり頃までが、「帝王」と畏敬されたカラヤンの最盛期ともされる。この時代に、特筆大書すべき功績が数多いが、何より重要なのは、オペラは経営者・指揮者・演出家・歌手・オーケストラから成る総合芸術である、という理想を実践すべく、自らが統括者になったことである。
カラヤンは生涯にわたって、最先端のテクノロジーを誰よりも積極的に取り入れた。1938年から89年までの傑出したレコーディング・キャリアを通じて、500タイトルにも及ぶディスクを残して、国際的なスター指揮者の名声を不動のものとした。また、1970年代末からデジタル録音をいち早く認めて、ワーグナーの「パルジファル」を初めてデジタル録音した(完成された第1作は、モーツァルトの「魔笛」)。また1981年4月ザルツブルク復活祭音楽祭において、ドイツ・フラモフォン、フィリップス、ソニーとともに「コンパクト・ディスク・オーディオ・システム」を初めて全世界に披露した。
さらにカラヤンは、ビジュアル・メディアと音楽的な表現を高める新しい録音技術を自在に用いることにも非常に長けていた。1965年3月に映画フィルム・プロダクション「コスモテル社」をスイスに設立、フランスの映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーソーの協力を得て、コンサートとオペラの撮影のプロデュースを始めたのを皮切りに、82年には自身の完全なレパートリーをヴィデオ・ディスク、あるいは新しいビジュアル・メディアでプロデュースするために「テレモンディアル社」を創立、“瞬間に消滅する音による芸術”をより忠実に、そして永遠に再現することに、並々ならぬ情熱を注いだことも、偉業と讃えられよう。
1988年4月、カラヤンはザルツブルク復活祭音楽祭でプッチーニの「トスカ」を指揮、終演後の舞台上で、カラヤンの80歳の誕生日を祝ってベルリン・フィルによって「ハッピー・バースデー」が演奏されたが、その後のベルリン・フィルのコンサートは病気を理由にキャンセル。その直後にベルリン・フィルとの最後の日本公演、1989年2月にはウィーン・フィルとニューヨークでも公演。4月23日にはウィーン楽友協会大ホールでウィーン・フィルを指揮した(これが生涯最後の演奏会となった)。翌日、ベルリン・フィルの芸術監督・終身指揮者の辞任を表明。それから3ヶ月後の7月16日、ザルツブルク近郊アニフ村の自宅で心不全のため急逝、81年と3ヶ月の栄光の生涯を閉じた。
1926年1月22日、ザルツブルクのモーツァルテウム管弦楽団を指揮してデビュー、R.シュトラウスの「ドン・ファン」やチャイコフスキーの交響曲第5番などのプログラムでセンセーショナルな成功を収めた。3月2日にはウルム市立歌劇場におけるモーツァルトの「フィガロの結婚」でオペラ・デビューも果たし、1934年3月まで同歌劇場の指揮者を務めた。
1933年8月、ザルツブルク音楽祭に初出演、翌年8月にザルツブルクでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮、1937年6月にはブルーノ・ワルターの望みもあってウィーン国立歌劇場にデビュー、演目はワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」だった。1938年4月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を初めて指揮、圧倒的成功を収めて、以後50年あまり続くベルリン・フィルとの栄光の第一歩をスタートさせた。同年9月、ベルリン国立歌劇場にデビュー。翌月に指揮した「トリスタンとイゾルデ」で、“奇跡のカラヤン”と評されるほどの空前の成功を収め、それをきっかけに同年12月ベルリン国立歌劇場管弦楽団と初録音(ドイツ・フラモフォン)。曲目はモーツァルトの「魔笛」序曲だった。
第2次世界大戦中はベルリンを中心に活躍、1945年のドイツ無条件降伏によって2年間ほどは指揮活動を禁止されたが、47年10月、公的な指揮活動の許可を得て正式に復帰を果たした。1948年、英EMIの名プロデューサー、ウォルター・レッグが創設したフィルハーモニア管弦楽団に迎えられ、1960年まで同オーケストラと大量の録音を行い、世界的な知名度を得た。
1948年12月、ミラノ・スカラ座のドイツ・オペラ部門の総監督に就任。51年夏、バイロイト音楽祭にデビュー、オペラ活動も本格化させた。1954年4月、単身で初来日してNHK交響楽団を指揮(以後1988年までに通算11回来日)、55年4月、フルトヴェングラーの後任としてベルリン・フィルの芸術監督、常任指揮者に就任、翌年終身指揮者となり無くなる直前までその任にあった。
1956年6月にウィーン国立歌劇場の芸術監督(1964年8月まで)、10月にはザルツブルク音楽祭の芸術総監督に就任(60年9月まで)、1957年11月、ベルリン・フィルと初来日した(88年までに通算9回)。ちなみに、カラヤンとベルリン・フィルの海外公演は、1955年2月のアメリカ・カナダ公演に始まり、翌年再びアメリカ公演を敢行(アメリカでは82年までに計105回の公演)、以後、韓国・中国を含む世界各地にツアーを行った。1959年ウィーン・フィルと世界ツアー、日本には10月~11月に来訪、これが同オーケストラとのただ1会の日本公演であった。1964年にはドイツ・グラモフォンと専属録音契約を結んだ。
1967年、ワーグナーの楽劇の上演を最大の目的とするザルツブルク復活祭音楽祭、72年にはザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を創設して、自ら芸術監督に就任、1969年~71年にはパリ管弦楽団芸術監督も兼任、ベルリンとザルツブルクにおける精力的な活動に加えて、77年5月にはウィーン国立歌劇場に復帰して、「カラヤン美学」と讃えられた比類ない芸術を確立した。この1960年代から70年代終わり頃までが、「帝王」と畏敬されたカラヤンの最盛期ともされる。この時代に、特筆大書すべき功績が数多いが、何より重要なのは、オペラは経営者・指揮者・演出家・歌手・オーケストラから成る総合芸術である、という理想を実践すべく、自らが統括者になったことである。
カラヤンは生涯にわたって、最先端のテクノロジーを誰よりも積極的に取り入れた。1938年から89年までの傑出したレコーディング・キャリアを通じて、500タイトルにも及ぶディスクを残して、国際的なスター指揮者の名声を不動のものとした。また、1970年代末からデジタル録音をいち早く認めて、ワーグナーの「パルジファル」を初めてデジタル録音した(完成された第1作は、モーツァルトの「魔笛」)。また1981年4月ザルツブルク復活祭音楽祭において、ドイツ・フラモフォン、フィリップス、ソニーとともに「コンパクト・ディスク・オーディオ・システム」を初めて全世界に披露した。
さらにカラヤンは、ビジュアル・メディアと音楽的な表現を高める新しい録音技術を自在に用いることにも非常に長けていた。1965年3月に映画フィルム・プロダクション「コスモテル社」をスイスに設立、フランスの映画監督アンリ=ジョルジュ・クルーソーの協力を得て、コンサートとオペラの撮影のプロデュースを始めたのを皮切りに、82年には自身の完全なレパートリーをヴィデオ・ディスク、あるいは新しいビジュアル・メディアでプロデュースするために「テレモンディアル社」を創立、“瞬間に消滅する音による芸術”をより忠実に、そして永遠に再現することに、並々ならぬ情熱を注いだことも、偉業と讃えられよう。
1988年4月、カラヤンはザルツブルク復活祭音楽祭でプッチーニの「トスカ」を指揮、終演後の舞台上で、カラヤンの80歳の誕生日を祝ってベルリン・フィルによって「ハッピー・バースデー」が演奏されたが、その後のベルリン・フィルのコンサートは病気を理由にキャンセル。その直後にベルリン・フィルとの最後の日本公演、1989年2月にはウィーン・フィルとニューヨークでも公演。4月23日にはウィーン楽友協会大ホールでウィーン・フィルを指揮した(これが生涯最後の演奏会となった)。翌日、ベルリン・フィルの芸術監督・終身指揮者の辞任を表明。それから3ヶ月後の7月16日、ザルツブルク近郊アニフ村の自宅で心不全のため急逝、81年と3ヶ月の栄光の生涯を閉じた。