短期集中連載:増田勇一のDEAD END回想録(2)『GHOST OF ROMANCE』
▲DEAD ENDのメジャー・デビュー・アルバム、『GHOST OF ROMANCE』。 |
▲左側はアメリカ盤のジャケット。日本盤は見開きのダブル・ジャケットだったが、こちらはシングル。そして右上はアルバム発売当時のプレスキット。キャッチコピーは「日本じゅう酔えるだけ、毒をもれ!」。中ページでは若かりし頃の筆者も駄文を書かせていただいております。 |
▲当時の欧米メディアでの記事など。筆者のスクラップより。左下が『KERRANG!』誌のアルバム評だ。 |
▲当時のレア・アイテムのひとつ。アルバム未収録曲のソノシート! |
▲『ロッキンf』誌1987年10月号。実にトータル44ページもの大特集が組まれている。 |
当時はまだCDよりもアナログ盤が優勢だった時代。LPには全8曲が、CDには「DECOY」を加えた全9曲が収録されていた。この「DECOY」のみCOOL JOEの作曲によるもので、「PHANTOM NATION」と「THE GODSEND」、「DEAD MAN’S ROCK」の3曲がMORRIE、それら以外の計5曲をYOUが提供。作詞は当然ながらすべてMORRIE自身が手掛けているが、初代ギタリストのTAKAHIROが事実上のメイン・ソングライターを務めていた『DEAD LINE』とは作品自体の趣が異なっていて当然だったわけである。そして実際、この作品において顕著なのが楽曲の多様化であり、ハード・ロック然とした部分での説得力向上と言っていいだろう。
4つの個性の集合体。そうした形容をされるロック・バンドはTHE BEATLESやLED ZEPPELINを例に持ち出すまでもなく数多いが、DEAD ENDほど極端な個性の混在しているバンドは少なくとも当時の日本においては珍しい存在だったし、そうした性質はMINATOの加入によりいっそう強まったといえる。そして、そうしたバンドの“あり方”が、具体的な音楽性以上に後続たちに影響を与えることになったと僕は考えている。
グラム・ロックの写真集から飛び出してきたようなべーシストと、マイケル・シェンカーを敬愛してやまないメロディ至上主義の叙情派ギタリスト。それだけでも普通は同じバンドに共存しにくいところだが、さらに新加入のドラマーは当時のいわゆる“ジャパメタ”の世界には珍しい短髪で、70年代の英国産ハード/プログレッシヴ・ロックを探求する最年少メンバーときている。そうしたメンバーたちを従えて歌うフロントマンもまた、単なるゴシックでもメタルでもパンクでもない空気を漂わせていたりするわけで、まさに“カテゴライズ不能”であることがDEAD ENDの生まれながらの体質だったともいえる。
そうした性質に対して興味深い反応を示したのが、国外のメディアだった。この『GHOST OF ROMANCE』は1987年12月にメタル・ブレイド・レコーズを通じて全米でリリースされている。MEGADETHや多くのデス・メタル系バンドとの仕事で知られるランディ・バーンズによるリミックスを経て発売に至った当時のアメリカ盤のジャケットには、「ライジング・サンの国から登場した“ニュー・ウェイヴ・オブ・ジャパニーズ・ヘヴィ・メタル”を象徴するバンドが全米にカミカゼを巻き起こす」といったニュアンスのキャッチ・コピーが印刷されたステッカーが貼られている。そして当時の現地メディアには「典型的なメタルとは一線を画するもので、カテゴライズし難い」といったアルバム評が目についていたが、当時からヘヴィ・メタル専門誌として有力だった英国の『KERRANG!』誌では、「H.R.ギーガー調のアートワークからはデス・メタルを想像したが、実際にはアメリカ産メタルの影響下にあるMOTLEY CRUE的なバンド」などと評されている。的外れもいいところだ。ちなみに同誌での評価自体は5点満点の4点。僕なりに勝手に解釈させてもらえば、要するに「クオリティは認めるが、自分たちの知っている音楽の範疇のなかでは正確に形容することができない」というのが評者の本音だったのではないだろうか。それから20年以上を経てこの雑誌の表紙をDIR EN GREYが飾っていたりする事実は時代の流れを感じさせるし、彼らもまた米国の某誌で「QUEENとMETALLICAとIGGY POPの合体」などと評されていた事実は、当時のDEAD ENDの受け止められ方とどこか似ている気がする。
『GHOST OF ROMANCE』のアメリカでの反響については、ロック系ラジオ局でそれなりの頻度でオン・エアされていた記録が残っており、その種のチャートに名を連ねていた事実もあるが、いわゆる全米アルバム・チャートにランクされたわけではない。が、もちろんここ日本におけるDEAD ENDに対する認識は、それまでの“インディーズの大物”から“次代を担うべきバンド”といったものに変わりつつあった。ライヴ・バンドとしての主戦場もライヴハウスからホールへと変わり、雑誌の表紙なども飾るようになっていた。
が、当時、MORRIEがこのアルバムについて語るときに“過渡期”という言葉を用いていたことが僕は忘れられない。実際、彼自身の歌唱法もヴォイス・トレーニングなどを経ながら変わりつつあった時期であり、音楽性ともども「脱皮の途中段階」にあったと感じざるを得ない部分もある。もちろんそれは、現在の僕が、この作品の次に世に出ることになったメジャー第2作、『SHAMBARA』の存在をあらかじめ認識しているからでもあるわけだが。
最後に余談中の余談を。このアルバムが発売された1987年9月、もうひとつ、僕の音楽人生を変えてしまうような作品がリリースされた。察しのいい方はもうおわかりだろうが、GUNS N' ROSESの『APPETITE FOR DESTRUCTION』のことである。そして当時の日本は、いわゆるバンド・ブームまっさかり。そんな時代、だったのである。
増田勇一
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DEAD END
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