音楽を作ってきた30年の集大成『CHASM』、再び直撃!
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音楽を作ってきた30年の集大成=アルバム『CHASM』
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「ぼくたちは、ひとり」。『音楽図鑑』(’93年)リリース時のコピーは今でも鮮烈だ。アルバムが、一人の人間のソロとして驚くべきマルチ・フォーカスな作品だったからこそ、このコピーは坂本龍一という音楽家の内にせめぎ合う“個”を浮き彫りにしてみせた。’80年代の坂本の仕事には一種のアイデンティティ・クライシス、その危うい揺らぎが(音楽的な揺らぎとして)刻印されていて、ポップ・ミュージックという土壌でしかなしえない魅力を持っていた。あるいは、こうも言えるだろう。初期のソロはYMOという母体からのシェルター=避難所でもあり、それは細野晴臣との間にあった葛藤、パワーゲームの産物でもあったと。 本作『CHASM』には、その細野もスケッチ・ショウとして数曲で素材やプログラミングを提供し、半野喜弘とのhoonなどで実験的に試されてきたラップトップ・ミュージックが全面開花している。「日記のような作品になった」という本作についての坂本の発言は『Vespertine』のビョークを思わせる。マイクロスコーピックな音があくまで日常の一部として鳴っているという点でも。 舌たらずなタイ語の女声ラップがエレクトロなトラックに乗った「Steppin’ Into Asia」を思い起こさせずにはいられないラップ・チューン「undercooled」をはじめ、本作のそこかしこでアジア的な伸びやかな旋律が復活していることにまず驚く。デビュー作『千のナイフ』で東洋的響きと最新のテクノロジー(と言っても、当時はシンセサイザーやリズム・ボックスだったのだが)をフュージョン=昇華させるというアイディアは、その後の彼の音楽に繰り返し表れるライト・モティーフとなる。’90年の『Beauty』でワールド・ミュージックと格闘して決着が着いたのか、それ以降、坂本は表面的にはそのアイディアから遠ざかっていた。同時期にN.Y.に移住したことも影響しているだろう。 本人にとっても予想外のヒットだったという「Energy Flow」以来のジョビンに傾倒したピアニズムが、カールステン・ニコライ(alva noto名義での坂本との共作も記憶に新しい)や池田亮司の微分電子音と絡む「Ngo/bitmix」と「World Citizen/re-cycled」には、絶妙な時代との距離感が。一方、コンピュータ・ウィルスが暴走したかのような激烈なノイジー・ヒップホップ「coro」やタイの僧侶のチャントがダビーに反復される「+pantonal」は、アーリー・テクノに大きな影響を与えた『B-2 Unit』(「Riot In Lagos」!)が脳裏に浮かぶレフトフィールドな曲。長く親密なコラボレーションを継続してきた盟友デヴィッド・シルヴィアンのビタースイートな声が印象的な「World Citizen」には坂本らしいナイーヴかつキャッチーなメロディが健在だ。 なお『CHASM』=キャズムとは、ハイテク商品が少数派から多数派に広がる際に必ず生じる“溝”のこと。いわばテクノロジーの“バカの壁”か? そこに坂本は自身のポップ観を重ねているのだろう。何はともあれ、余計なバイアスをかけることなく、坂本の“個”に素直に耳を傾けられる久々の作品だ。 「ぼくたちは、ひとり」。その言葉を今また噛み締めたくなる。 文●富樫信也
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