【インタビュー】デビュー20周年のザ・ダークネス、ジャスティンが明かす成功の裏側とリアルな現実

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デビュー当時のザ・ダークネス。左端がジャスティン・ホーキンス。pic:Scarlet Page

10月18日、『パーミッション・トゥ・ランド……アゲイン』と題されたザ・ダークネスのアルバムが発売を迎えた。これは2003年に世に出た彼らのデビュー・アルバム『パーミッション・トゥ・ランド』の発売20周年を記念して登場した同作の新装版で、豊富なボーナス音源が追加収録されているのみならず、日本盤にはこのバンドのフロントマンであるジャスティン・ホーキンスからのメッセージ・カードが特別に封入されていたりもする。

2003年当時、ザ・ダークネスは母国イギリスで「ロックの救世主の降臨か?」といった期待感と「突然変異的な時代錯誤バンドなのでは?」といった好奇の視線を同時に集めながらもシングル・ヒットを連発し、このデビュー・アルバム自体もチャートの首位を独走する記録的大ヒット作となり、その熱は世界各国へと波及することになった。以降、メンバー・チェンジや解散、再結成を経てきた彼らは、今なお英国を代表するロック・バンドのひとつとして活躍を続けている。

そして今回はこの記念作について、ジャスティンがたっぷりと語ってくれた。しかもこの取材終了から数日後、2024年1月に一夜限りの東京公演が実現することも正式に決定。読むうえで予備知識を必要する内容ではないはずなので、ザ・ダークネスに思い入れを持つ人たちばかりではなく、彼らの音楽に触れたことのない人たちにも是非このインタビューに目を通してみて欲しい。なお、今回の記事に伴う彼らの写真はいずれもデビュー当時のもの。メンバーの顔ぶれもこのままではなく、現在はクイーンのロジャー・テイラーを父に持つルーファス・タイガーがドラマーを務めていることも念のため付け加えておく。



──今回は、発売20周年を迎えた『パーミッション・トゥ・ランド』についていろいろと訊かせてください。あの作品が世に出てからこれだけの時間が流れていることについて、率直なところどう感じていますか?

ジャスティン・ホーキンス:不思議な気分だよ。20年もの月日が過ぎていることに自分でも気付かないくらいだし、そのことを人から聞かされて、そこで初めて「マジで?」と思わされるんだ(笑)。俺はこれまで、10年ごとに新しいタトゥーを入れたり、人生が変わったり、すべてをひっくり返して一からやり直したりしてきた。だから今となっては、あれは3つ前の生涯での出来事のようにも思えてしまうんだ(笑)。あのアルバムで歌っていた人間を今現在の自分と同一人物だとすら認識していない。それくらい前のことのように感じられるんだ。だけどあのアルバムの誕生を改めて祝えるのは楽しいことだね。あれが世に出た時、ほとんどのファンはまだかなり若かった。彼らがこの手のロックを初めて知ることになった切っ掛けが俺たちだったのかもしれない。そして年齢を重ねてきた今の彼らの口から「ザ・ダークネスのおかげでホワイトスネイクやエアロスミスを知ったんです」みたいな言葉を聞くことが結構ある。つまり彼らからすれば、自分たちが生まれる前から世の中にあったクラシック・ロックを、俺たちを通じて知ったということ。多くの人たちにとって俺たちは、この手の音楽の世界への入口になっていたんだと思う。その発売から20年経った今も、みんながこうしてあのアルバムの誕生を祝ってくれるなんて、なんだか面白いよ。いまだに入口について祝ってくれているわけで(笑)。

──『パーミッション・トゥ・ランド』がイギリスで実際に発売されたのは2003年7月7日のことで、その後、UKアルバム・チャートの首位を独走する記録的な大ヒットになりました。アルバムの登場以前からいくつかの先行シングルがヒットしていたわけですが、あなたが成功を予感したのはどのタイミングでのことでしたか?

ジャスティン・ホーキンス:予感なんてあったかな?なにしろあのアルバムのレコーディングを始めた当時、俺たちには何もなかったからね。メジャー契約さえ決まっていなかった。つまりアルバムよりも前に出た2枚のシングルは、インディーズからのリリースだったんだ。レコード会社との素晴らしい関係が始まったのはアルバムが世に出てからのことだ。当時はアルバム制作にも、いまどき以上に費用がかかった。スタジオ代ももっと高かったし、スタジオを使うこと自体が大変だった。たまたまスタジオを所有している友人がいて、あの頃の俺たちは、彼がそのメインの部屋を使っていない時だけ、そこでドラムとかを録音しているようなありさまだった。だから自分たちのパフォーマンスをレコーディングするのにすごく時間もかかったんだ。誰かからサポートしてもらえていたわけでもなければ資金援助もなかったから、まさに悪戦苦闘していた。だから当時は、この先ずっとこうやってもがき続けていくことになるんだろうな、と想像していた。仮にどこかのレコード会社と契約できたとしても、すべてはそこから始まることになるわけだから、その段階では「成功したぞ」なんて思えるはずもない。そういう現実を俺たちは知っていたんだ。

──夢見がちな感じではなかった、ということですね?


『パーミッション・トゥ・ランド』

ジャスティン・ホーキンス:そう。なにしろあのアルバムが出た時点で、俺はすでに28歳だったし、もはや若者ではなかったしね。中には18歳とか19歳でデビューするやつらもいるし、そういう人たちはサクセス・ストーリーを歩み始めたような気分になるのかもしれないけど、俺たちの場合はとにかく悪戦苦闘の期間があまりにも長かったから、成功を予感することもなければ、成功というのがどういう意味なのかすら分からずにいたんだ。詰まるところ「自分たちの音楽を評価してくれるオーディエンスを見つけて、その人たちに向けてプレイすること」が成功だと俺は思っている。もちろんそこでアルバムが何百万枚も売れたりすれば、いっそうクールなことではある。だけどあの当時の俺たちには、そんなふうには考えられなかったよ。

──当事者に訊くのもおかしな話かもしれませんが、あのアルバムのヒットの要因はどこにあったと考えますか?当時は特にクラシック・ロック的な音楽が流行の兆しをみせていたわけでもありません。ただ「ザ・ダークネスのようなバンドが他にいなかった」というのはひとつの要因だったように思うんですが、いかがでしょう?

ジャスティン・ホーキンス:2002年当時、俺たちはかなりの本数のライヴを演っていた。このバンドが認知されるようになった理由は、まさにそこにある。ワイルドハーツと一緒にツアーに出たことがあったけど、音楽的な相性が良かったのか、前座の俺たちは彼らのオーディエンスにはなかなか受けが良かった。で、そのツアー中のどこかでデフ・レパードの関係者が俺たちのステージを観ていて、どうやら「こいつらはデフ・レパードと相性が良さそうだ」と感じたらしい。そして俺たちは2003年の初頭から彼らと一緒にツアーに出ることになった。すると、その後もディープ・パープル、レーナード・スキナード、アリス・クーパー、そしてザ・ローリング・ストーンズといったビッグ・ネームのサポートの話が次々と舞い込んでくるようになってね。当時の俺たちがやろうとしてたことと何かしら似通った部分のあることを、とうの昔に演っていたレジェンド・バンドたちと、同じステージに立つようになったわけだよ(笑)。しかも幸運なことに、俺たちはそうしたバンドのオーディエンスにも気に入ってもらえた。だから変な話、当時の俺たちが同胞意識をおぼえていたのは年配のバンドばかりで、同じ世代にはそうした対象がいなかった。いわゆるクラシック・ロックの支持層は大勢いたはずだけど、当時のチャートにそういう作品は名を連ねていなかった。そしてある意味、デフ・レパードとのツアーからすべてが始まった。彼らのファンは俺たちを観て「おっ、これは新しい音楽だけど俺たち好みじゃないか」と興奮し、それを子供たちに伝えた。そうやって口コミのようにして名前が広まっていったんだと思う。そんなことが起き得たのは、何より俺たちがめちゃくちゃライヴをやっていたからこそでもある。ただ、その音楽スタイルがあまりにも流行遅れだったから、レコード会社のやつらはそこに価値を見出せなかったんだろうね。マーケティングを重んじる人たちに欲しがられるようなバンドではなかったということだよ。ただ、それでも精力的にライヴ活動していたからこその勢いのおかげで、そういった業界人たちも、俺たちの音楽を聴くことは避けて通れなくなったんだ。そういった流れを経ていたから、アルバムが完成した時点では、リスクはなかったんだよ。あれがヒットすることは明らかだった。結果的に先行シングルのような形になった「グロウイング・オン・ミー」はUKチャートで11位になったけど、あれはインディーズ作品としては異例のヒットだった。アルバムが売れてからシングルカットされてヒットしたわけじゃなかったしね。だからあのシングルの時点で、自分たちは正しい方向に進めているんだってことが理解できていたんだ。


──なるほど。確かあなたは1975年生まれでしたよね?ということは、デビュー当時のあなた方がよく比較されたクイーンの作品でいえば『オペラ座の夜』と同い年。あなたが幼い頃にあのアルバムをリアルタイムで聴けていなかったのと同様に、『パーミッション・トゥ・ランド』を大人になってから知った世代も今やたくさんいるわけです。そうした若い読者にもこのアルバムの魅力を伝えたいんですが、あなた自身はこのアルバムの良さをどのように説明しますか?

ジャスティン・ホーキンス:あれはとても興味深いアルバムなんだ。「アイ・ビリーヴ・イン・ア・シング・コールド・ラヴ」と「ラヴ・イズ・オンリー・ア・フィーリング」の2曲はまさに贅を尽くして作られているけど、それ以外の曲たちは昔ながらのブギウギ・ロックンロールばかりのアルバムだからね。超ハイエナジーで、ビッグなギター、そして強力なメロディ。メジャー・キーの曲もあるから、あまりブルージーではないけど、クラシック・ロックの分野に属していることは間違いない。あとから聴き返してみていつも驚かされるのは、このアルバムに込められたエナジーのすごさだ。綺麗にバランスが整えられていないんだよ。クラシック・ロックのアルバムというのはプロデュース過剰になるとエッジが完全に損なわれてしまうものだけど、このアルバムの場合は逆にエッジだらけで、まさに崖っぷちな感じがするんだ(笑)。このバンドには卓越したプレイヤーはいないけど、あの第1作はアティテュードに富んでいる。まさにエキサイトした4人の男たちが、プレイの仕方を知らない音楽を思いっきりやっている感じなんだ(笑)。僕たちの誰ひとりとして素晴らしいプレイヤーではないけど、あの1stアルバムから気合いがビンビンに伝わってくる。まさしくエキサイトした4人の男が、プレイの仕方を知らない音楽をプレイしている感じだよね(笑)。

──自虐的な言い方にも聞こえますけど、それくらい爆発力がありますよね。ザ・ダークネスを初めて聴いた時、大概の人は、ファルセットを多用したあなたのヴォーカル・スタイルにも驚かされたものです。このスタイルはどんなふうにして確立されたものなんでしょうか?

ジャスティン・ホーキンス:ふふっ。俺としては、常に自分のことをギタリストだと認識していた。ザ・ダークネスを始める以前にいたバンドでも、シンセサイザーを弾くこともあったとはいえ基本的には単なるギタリストだったしね。実はザ・ダークネスにも最初は別のシンガーがいたんだけど、彼はオーディエンスと絡むのが苦手だった。だからその当時も、曲と曲の間に観客に向けて話をするのは俺の役目だったんだ。なんか不思議な感じだったけど(笑)。そしてとうとう俺たちは彼をクビにして、その後2年間にわたって後任のシンガーを探していたんだけど適任者が見つからず、結果的に「わかった、俺がやるよ」と言う羽目になったんだ。ハイトーンで歌えることは以前から自分でもわかっていたし、ギターを弾きながらバッキング・ヴォーカルを務めることは普通にあったからね。ただ、変えないとならなかったのはパフォーマンスのアティテュードだった。ギタリストの場合はバンドに目を配りながら、ステージ上を歩き回って好きなように振る舞える。だけどシンガーってことになると、オーディエンスは集中してこっちを見てるわけだよ。だから俺は、みんなの注目の的になるための訓練をしないとならなかった(笑)。

──あなたは天性のフロントマンのようにも思えるだけに、興味深い発言です。ところで、ザ・ストラッツのシンガーであるルーク・スピラーについてはご存知ですよね?

ジャスティン・ホーキンス:ああ、もちろん知ってるよ。

──以前、彼に音楽遍歴について尋ねた際、子供の頃にあなた方の音楽を聴いてロックに目ざめ、それを切っ掛けにクイーンやAC/DCの音楽にも親しむようになったと認めていました。そんなふうに新たなロック・ファン層を開拓してきたこともザ・ダークネスの功績のひとつだと思います。


こちらも20年前当時の写真。ジャスティンの衣装の奇抜さも注目を集めた。pic:Patrick Ford

ジャスティン・ホーキンス:ルークがこのバンドに影響を受けたってことをオープンに言ってくれているのは、すごく嬉しいことだ。そんなふうに覚悟のある人って、あまりいないからね。そういえばウォーク・ザ・ムーンというアメリカのバンドがいて、彼らには「シャット・アップ・アンド・ダンス」という曲があるんだけど、その曲のとあるセクションの元ネタは俺たちの「グロウイング・オン・ミー」だと彼らは言ってたな(笑)。そんなふうにこの1stアルバムに触発されたことを公言するバンドが出てくると、俺はワクワクさせられるよ。こういう時、冗談めかして「自分が歳を取った気分になるぜ」とか言う人もいるけど、それは本心じゃないと思うな。自分の作ったものが誰かに影響を与え、インスパイアしたという事実は、ただただ素敵なことなんだ。だから俺はとてもハッピーな気分だよ。もちろん自分がすっかり歳を取っていることはわかってるけどさ(笑)。ただ、変な話、俺たちの成功を機にこの種のギター音楽のムーヴメントが起こったりすれば俺としては嬉しかったはずだけど、現実にはそうはならなかった。俺たちはあくまで、浮いた存在だった。あんなことになるなんてメンバーは誰も思っていなかったし、成功を期待してもいなかった。ローストフト出身で、地元のパブで演奏していた俺たちみたいなバンドのデビュー作が、あの年にいちばん売れるアルバムになるなんで思ってもみなかった。あの当時に「これは売れるぞ」なんて予見する人がいたら、きっと笑われていたはずだ。それくらい、あれは多くの人にとってショッキングなことだった。そしてあのアルバムが売れまくった後、世の中では通常のサービスが再開されたんだ。つまり音楽シーンはそれ以前の状態に戻ったってことだよ(笑)。その後、ザ・ストラッツみたいなバンドが活躍できるようになるまでに何年もかかった。だけど、たとえばマネスキンの服装にザ・ダークネスからの影響が微塵もないんだとしたら、俺はひどく驚くだろうな(笑)。

──ええ。まったく影響がないなんてことは絶対ないはずです。

ジャスティン・ホーキンス:だよね(笑)。それは嬉しいことだし、素晴らしいと思う。というわけで、かつて俺たちが世に与えた衝撃が形になって見えるようになるまでには、結構時間がかかったんだ(笑)。いまどきのことに当てはめて言うと、たとえばイマジン・ドラゴンズみたいな音楽が流行って成功すると、みんなそういうアルバムを作りたがる。だけど俺たちがバカ売れした時は、誰もそれをフォローしようとはしなかった。俺たちが作ったアルバムは世間にも業界にも衝撃を与えたはずだけど、誰も「あいつらみたいなアルバムを作ろう」とは思わなかったわけだよ(笑)。ただ、それは正しい選択でもある。ザ・ダークネスはすでにいるわけで、同じバンドは必要ないし、そんなの無意味なことだからね。もしも俺たちがもっと一般的なサウンドのバンドだったなら、きっとシーンの一端を担うことになっていただろうけど、俺たちは「予想外のことをした特異なバンド」だったんだと思う。

──興味深い解析、ありがとうございます。さて、10月からは北米、11月からは欧州でツアーが行なわれるようですが、その先に来日公演を期待したいところです。

ジャスティン・ホーキンス:まだ現時点では発表されていないのかもしれないけど、2024年には日本に行きたいと思っているよ。かなり久しぶりだね。2011年以来になるのかな。俺たちは再結成を経てからも日本に行き、メタル・フェスに出たんだ。

──ええ。単独での来日公演は2006年以来ということになりますが、2011年には<LOUD PARK>に出演していますよね。

ジャスティン・ホーキンス:それだ。日本がすごく恋しいよ。いつだって日本で経験することについては、ワクワクさせられっぱなしなんだ。こんなに長いこと行かずにいるなんて悲しいことだけど、またそっちに行けるのを楽しみにしているよ。日本に行くのは俺たちにとってとても大事なことだからね。そして、その後はツアーを一時停止して、次のアルバムの制作に取り掛かる予定なんだ。

──来日公演も次のアルバムも楽しみにしています。最後に『パーミッション・トゥ・ランド』をずっと愛し続けてきた人たち、そして、これから初めてこのアルバムを聴くことになる人たちに向けてメッセージをいただけますか?

ジャスティン・ホーキンス:日本のファン、サポーターのみんな、あのアルバムは俺の人生を変えたんだ。そして日本を訪れたことで、俺は目覚めた。あれは素晴らしい経験だった。バンドを始めると、みんな日本に行くと何が起こるかについて話をするようになるものなんだ。オーディエンスがどんな感じなのかを想像して、思い描いてみるのさ。初めてそっちに行った時の経験は最高だったし、なおかつとんでもないものだった。素晴らしい時を過ごせたし、だからこそ、また君たちの国に行きたいとずっと思ってきたんだ。こんなに長いこと行っていないというのに、君たちが辛抱強く待ち続けてくれていたことに心から感謝するよ。それから、このアルバムをまだ聴いたことのない人たちは…是非これから聴いてくれ(笑)。そして、かつてあのアルバムにあれほどのエナジーを注ぎ込んでいたバンドが、20年を経てどんな風になっているか、想像を膨らませてみて欲しい(笑)。みんなのことをとても愛してる。2024年、日本で会おう。

取材・文◎増田勇一

<The Darkness PERMISSION TO LAND 20 TOUR in Japan>

2024年1月23日(火)
東京・渋谷Spotify O-EAST
[問]H.I.P. 03-3475-9999 / www.hipjpn.co.jp

◆ザ・ダークネス・レーベルサイト
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