【インタビュー】木暮“shake”武彦、安全バンドと語る
1月25日(金)渋谷 duo MUSIC EXCHANGEにて<長沢ヒロトリビュート・ライブ ~安全バンド結成50周年~>が開催されるにあたり、そのライブイベントの実現に向け尽力を重ねてきた木暮“shake”武彦が、そのライブへの意気込みとともに、長沢ヒロと安全バンドへのリスペクトの思いを込めて、瀧口修一(安全バンドマネージャー)へのインタビューを寄稿してくれた。以下は、その全文である。
◆ ◆ ◆
去年の春から準備してきた<長沢ヒロトリビュート・ライブ ~安全バンド結成50周年~>のライヴもいよいよ近づいてきた。今回は日本のロックの歴史における重要なコンポーザー、長沢ヒロさん作の楽曲がたくさんライヴで観られる、特別な夜になると思う。話の始まりはヒロさんの病気のことからで、うれしいばかりではなかったのだけれど、そこから始まって安全バンドの再結成、四人囃子、HEROなど当時の仲間、ROLLYやダイヤモンド☆ ユカイ、子供ばんどのうじきさんなど、影響を受けた世代も集まりお祭りのようになった。安全バンドの楽曲をメインに、長沢ヒロさんの音楽を生で体験できる貴重な機会に是非とも参加してほしいと思う。
安全バンドをはじめ、それまでアンダーグラウンドだった日本のロックバンドが次々とデビューしたのが1975年。安全バンドは、1970年に結成、1977年に解散している。安全バンドの活動は主に1970年代の埼玉県浦和を中心に活動していた「浦和ロックンロールセンター」というコンサートプロモート集団によって支えられていた。自分は10代の頃、プロのバンドも出演するロックンロールセンターのコンサートをいくつも見せてもらって、たくさん刺激を受けた事が今でも音楽をやっている大きな要素のひとつになっていると感じている。
今回のトリビュートライヴを行うにあたって、安全バンドが活躍した時の状況を客観的に見ていたマネージャーである瀧口さん(ロックンロールセンターの中心人物でもある)なら貴重な話がたくさん聞けるはずだと思い、お話を聞くべくインタビューアーを探したが、適任だと思える人間が見当たらず、結局、当時の埼玉ロックシーンの雰囲気を知っている自分がするのがいいのだろうという結論に至り、長沢ヒロさんにも同席してもらって、聞き手としては人生初だがインタビューさせていただいた。
■1967年・浦和ロックンロールセンターの成り立ち
木暮“shake”武彦:安全バンドの母体であるロックンロールセンターはどういうふうに始まったんですか?
瀧口修一:ロックンロールセンターが始まったきっかけというのは、僕と二人の大学生と、もう一人浦和で埼玉ベ平連(ベトナムに平和を!埼玉市民連合)という政治活動をやっているグループがあって、僕は政治的な事はあんまり解らなかったけど高校のときからずっと多くのレコードを聞いてたから「“LOVE&PEACE”で関わっていこうかな」と思っていたんだよ。70年安保というのがあって1969年から反体制運動が盛り上がったんだけど、1970年6月に最期の政治決戦みたいのがあって、当然新左翼は負けて、体制側に押しつぶされちゃう訳だよね。元々あまり政治的な活動は向いてないと思っていたし“楽しくやろうよ”みたいなノリだったから、行くところが無くなった仲間たちと、ジミヘン、ジャニスが相次いで亡くなったときに追悼の何かをやろうと言う事で、10月に浦和市内で<ジミヘン、ジャニス追悼レコードコンサート>をやったわけ。
木暮“shake”武彦:その時代は、そんな風に学生運動からロックに移っていった人は多いんでしょうね。
瀧口修一:その年の11月に<ロックンロールダンジョン>というタイトルで、埼玉大学で教室をひとつ借りてアンプやドラムを持ち込んで、僕も家からステレオを持って行って、レコードかけたり演奏したい人はどうぞという感じでやってたら、あるとき教室のドアがガラガラっと開いて、見てみると可愛い高校生が顔をのぞかせてる訳ですよ。「ここかなぁ?」ってかんじで。それが大二(岡井大二/四人囃子・Dr)だったの。ベースの中村(中村真一/四人囃子・B)と一緒に来ていて、いろいろ話したんだよ。その時は、森園(森園勝敏/四人囃子・G)は例によって遅刻で(笑)来てなかった。その日は、たまたまベーシストがいたので、「ベースの子もギター弾けるんでしょ」て言ったら、「少しは…」って言うんで、真ちゃん(中村)がギターで「レッドハウス」を演ったわけ。そしたらもう「ショエー!高校生のベーシストの弾くギターでこれ?」みたいな。もう吹っ飛んで「すげぇなぁ」って思って、もったいないからって楽器をみんな外に出して急遽野外コンサートにしちゃったの。浦和ロックンロールセンターの最初のライヴは四人囃子だったんだよ。そしてその年の暮れに玉蔵院っていうお寺で、ブルースクリエイションを呼んで、のちの四人囃子になる森園と大二と中村のバンド「ザ・サンニン」と一緒にやってね。それが浦和ロックンロールセンターの始まりだね。
ロックンロールセンターはコンサートをやるにあたって、最初からフリーコンサートしかやらないって決めて、当日にカンパっていう形で払いたいだけ払ってもらうというコンセプトでやっていたんだ。そういう考えだから基本的にギャラは払えない。「交通費だけは何とか出しますので楽器は持ってきてください」というオファーをしてた。当時はまだPAとかはない時代で、ボーカルアンプは自分たちでいろんなところに連絡して何とかしてたんだよ。それで、次の年には市民会館を借りて一回目のコンサート<無名バンド総決起集会>をやったんだよね。
木暮“shake”武彦:その時代、日本のロックのプロミュージシャンって、どういう感じだったんですか?
瀧口修一:その頃はまだグループサウンズが終わったばっかりで、当時のロックの第一線というと、やっぱりザ・フラワーズがフラワー・トラベリン・バンドになったのが一番のビッグだったね。あとは村八分。ゴールデンカップスはその頃は活動してなかったな。
木暮“shake”武彦:じゃあ、もうその頃(1970年)に、日本のかっこいいロックバンドはいた訳ですね。
長沢ヒロ:そうだね、出始めの。だから、変わり目の時代だと思うんだよね。
■安全バンドのマネージャーになった経緯
木暮“shake”武彦:長沢ヒロさんとはどういうふうに知り合ったんですか?
瀧口修一:仲間の山本君が立教大学の学園祭のエムのコンサートを観に行ったんだよ。その時に安全バンドも出てたんだよね。すごく興奮して「エムもすごかったけど、もっとすごいバンドが出てましたよ。安全バンドっていうんだけどドラムがすごいんだよこれが」ってみんなに話したんだよね。その後、知り合いを通じて会いに行った。それから、彼らが練習していた東洋大学の軽音楽部によく遊びに行くようになったんだよね。20~30畳あるような板張りの結構広い部屋だったなあ。軽音楽部の楽器を使って授業にも出ないで昼間ずっと練習してるわけ。みんなは授業に出てるから、昼間は空いてたんだよね。
木暮“shake”武彦:安全バンドのマネージャーには、いつからなったんですか?
瀧口修一:いつの間にかだね。その頃はまだ月に何本かライブハウスに出ているくらいだった。ロックンロールセンターのコンサートには、事あるごとに出てたけどね。<ライト級タイトルマッチ>とか言って四人囃子と安全バンドのジョイントコンサートをやったり、駒場のサッカー場でやったりしてて、僕の家の電話番号を学園祭の連絡先にしてたりした。そうこうしてたら問い合わせが来るようになったんだよね。
木暮“shake”武彦:きっかけはどういうものだったんですか?
瀧口修一:あの頃の告知は、唯一ニューミュージックマガジンでね、ぴあができた頃だったかなあ。それ位しかなかったのよ。ニューミュージックマガジンにとにかく浦和ロックンロールセンターと僕の名前と電話番号を告知して、僕が車を持っていたから、楽器を積んでぎゅうぎゅうに4人乗ってね。
木暮“shake”武彦:機材車ですか?
長沢ヒロ:普通のセダン。
木暮“shake”武彦:セダン?
瀧口修一:4ドアのコロナ。のちにカリーナ。
木暮“shake”武彦:でも、それじゃドラムは積めなかったでしょう?
瀧口修一:積んだね。
長沢ヒロ:積んだ。
木暮“shake”武彦:えっ?メンバーも乗って?
瀧口修一:そう。ベースのスピーカーだけ積めなかったな。ギターアンプはツインリバーブで、ベースアンプのヘッドとドラムをトランクに積んでね。当時はまだボーカルアンプは運んでなかったから、メンバーと僕が乗ってぐるぐるまわったんだよね。
長沢ヒロ:うん。
瀧口修一:当時、日比谷野音でコンサートやるっていう商業的な興行がはじまって、いわゆるプロモーターみたいなのが出始めた頃で、野音だけじゃなくて日本青年館とか中野サンプラザとかホールでもやるようになってきた。学園祭の出演の依頼をされる事も結構あって、安全バンドの他にもいくつかのバンドを並べていくわけ。例えば四人囃子とか頭脳警察とか。
木暮“shake”武彦:安全バンドはまだデビュー前ですよね?日本のバンドがいっぱいデビューするのが1975年とかですから、そういうバンドもデビュー前に一緒にコンサートをやってたんですか?
瀧口修一:そうだね。四人囃子は特に一緒にやることが多かったけど、ほかには一緒にデビューしたウエストロードとかサウス・トゥ・サウスとか。
木暮“shake”武彦:ウエストロードとか、京都から来ても赤字にならなかったんでしょうか。
瀧口修一:ウエストロードはマネージャーがしっかりしてて、関西人的なのりできっちり請求してたよ。彼等もハイエース1台に楽器と一緒に乗り込んで、泊まる所は友達の所とかね。新宿にマガジンナンバーハーフという30人位しか入れないちっちゃいライブハウスがあって、そこで1回1000円とか2000円の入場料だった。それなりにお客さんも入っていたから、こじんまりしてただけどなんとかなってたみたい。
木暮“shake”武彦:ちょっと飯食えるぐらいな。
瀧口修一:そうそう。でも僕等よりはきっちり稼いでたね。稼いでたって言うほどじゃないけど。安全バンドはマネージャーが下手だったからねえ。ギャラよりも出演の機会みたいなのを優先してて。
木暮“shake”武彦:東京は近いですから、経費はあまりかからないし。
瀧口修一:メンバーもまだ学生で親がかりだったからね。交通費も出さなかったものな。
長沢ヒロ:うん。
瀧口修一:渋谷ジャンジャンでやってもギャラが3000円だったからね。まだ満員にできるようなバンドじゃなかったのよ。
木暮“shake”武彦:そういう頃でも、レコードデビューは目指していたんですか?それとも単にやりたいからやっていただけですか?
瀧口修一:いや、レコードはすっと出すつもりでいたよね。
長沢ヒロ:そうだね。
瀧口修一:だけど、その時はまだレコード会社は食いついて来なかった。安全バンドは単純な3人組ハードロックバンドじゃなくて、長沢が多才だったからどんどん成長・変化していっちゃうので、ファンがついてこれなかったんだよね。だから、そのタイミングがどんどん後ろへずれていく。四人囃子は結構先に出ちゃったりしてたんだけどね。
■福島ワンステップフェスティバル
木暮“shake”武彦:僕にとって伝説的で大きな関心事なんですが、1974年の福島の<ワンステップ・フェスティバル>ですが、ラインナップを見るとのちに売れたベストなバンドが全部出てる感じがするんですが、安全バンドも出ていますね。
瀧口修一:とにかくオノ・ヨーコを日本に呼んで郡山でやるっていう話が持ち上がったんだけど、実行部隊がいなかった訳よ。内田裕也さん、石坂さん(東芝EMI洋楽担当)のレベルでプロデュース的な話はできても、実際それを郡山で落とし込んで具体化するという実行部隊がいなくてね。当時外タレの招聘はUDOがちゃんとした仕事をしてたんだけども、UDO以外はそこのレベルに達していなかった訳だよね。それで、実際には四人囃子のマネージャーの大二のお兄さん、それから頭脳警察のマネージャーの横川さん、ウエストロードの竹岡君とかフラワー・トラベリン・バンドのマネージャーの松本さん、ジュリエットのマネージャーの栗田さんとかっていうマネージャー連中の横の繋がりみたいなので、協力してやったんだよ。最初は2日間でオノ・ヨーコとリタ・クーリッジが来るので、8月の3日だったか4日だったか、2日間やると。そこに前座として、安全バンド、ウエストロード、四人囃子といった僕達のバンドが出るっていう事にしたんだ。
協力してくれているマネージャーたちのバンドと、さらに目玉になるバンドを呼ぼうっていう事で、クリエイションとかいくつかのバンドも声をかけようとしていなんだよ。2日間で10バンド位のコンサートをやろうという事で、準備を進めていたところ5月位になってヨーコがその日には来れなくなったっていうわけ。スケジュールが1週間延びると。けれどリタ・クーリッジとクリス・クリストファーソンは予定通り。それで、2回に分けてやるしかないってことになって、それで進めようとしたんだけど、どうせだったら週末だけじゃなくて通しでやることを提案したんだよ。会場も借りちゃってるわけだし基礎舞台も機材もセットアップされてるわけだから。それで、いろいろなバンドに「ギャラは出ないけど、こういうフェスティバルをやるんで出演しませんか?」「沢田も出るんで、ミカさんも」って具合で。
木暮“shake”武彦:そうだ。そう言えば沢田研二も出ていた。
瀧口修一:そう、キャロルも出たし。
木暮“shake”武彦:そういう人たちもギャラは無しで?
瀧口修一:みんな無し。
木暮“shake”武彦:全部ノーギャラで出たというのはすごいですね。
瀧口修一:うん、ギャラを払ったのは外タレだけですね。ただ沢田んとこは特効で煙玉を使いたいと言ってきてね。まぁ花火だよね。大仕掛けをやりたいってことで、その経費とスタッフの交通費とかで何十万かかかったけどね。
木暮“shake”武彦:でも1974年といったら、ソロとしても売れてた時期ですね。「危険な二人」とかの頃なんじゃないですかねえ。
瀧口修一:もうバリバリ。インディアンの羽根飾りかぶってさ…。
木暮“shake”武彦:1974年に8日間のイベントがあって、そこに集まった人たちが触発されて翌年から各地でコンサートが始まったりしたときいて、エポックメイキングな事だったんだなぁって思ってました。
瀧口修一:今にして思えばね。
木暮“shake”武彦:入場者数ってどれぐらいあったんですか?
瀧口修一:どんどん後から話が膨らむけど、実際は多くて数千人だよね。
木暮“shake”武彦:トータルで?
瀧口修一:いや1日あたり。平日の少ない日は数百人だよね。実際は誰も把握してないんだよ。だってチケットだってどうやって売ったらいいかわからないから、全国のレコード店をリストにして、50枚ずつくらい勝手に送っちゃうんだから。それで「売れた分だけ後で送って下さい」って電話かけた。
木暮“shake”武彦:勝手に?説明して了承してもらって、じゃなくて?
瀧口修一:いや、送ってから電話掛けた。
木暮“shake”武彦:え、本当に?
瀧口修一:着きましたか?みたいな。回収なんか満足にしてないんだよ。だからチケット持っててもお金払ってない人がいっぱいいたな。それで主催の佐藤さんの3階建てのビルが無くなっちゃったもんね。
木暮“shake”武彦:赤字でビルが無くなっちゃった?
瀧口修一:無くなると思うよ。あれだったら。
木暮“shake”武彦:偉大な人ですよね。それによってその後の日本のロックがあんな風に盛り上がったのだし。
瀧口修一:彼には悪いけど、本当はそんなつもりじゃなかったんだよね。日本のロックがどうこうとかじゃなくて、始めは「街に緑と音楽を」っていうすごく牧歌的な環境運動みたいな感じだったんだよ。
木暮“shake”武彦:安全バンドはどういう感じで出たんですか?
長沢ヒロ:昼間だったよね。
瀧口修一:時間はね。同じ日に四人囃子とか日本で一番いいバンドが出てた。
木暮“shake”武彦:じゃあ、いい日にそれなりにお客さんも入っている状況で?
瀧口修一:わりといっぱい来たよね。
木暮“shake”武彦:ワンステップのCDを聴くと、すごくいい演奏ですよね。コーラスもバッチリ決まっていて。
瀧口修一:うん。あらためて聴くとね。
長沢ヒロ:3人でやってたからね。まだ。
木暮“shake”武彦:あの録音は貴重な記録ですね。まだ自分がロックに目覚める前に、福島にオノヨーコも来て日本中の素晴らしいバンドが集まったとか、後から知って興奮しました。
瀧口修一:今にして思えば、あのコンサートが大がかりになった事が日本のロックにとってすごく大きな意義になったと思えるけど、やっているときはただ楽しいというだけの延長線上だからね。みんなギャラもないタダ働きで「騙された」って可哀想だったけどね。みんなぶーぶー言ってたよ。ただ、結果これに出ていたバンドはあとになってそれなりに活躍したし、日本の音楽シーンが変わって音楽業界全体がロックに注目したよね。
木暮“shake”武彦:僕は1975年に入ってからエレキギター弾くようになって、ロックをちゃんと聴くようになった。日本にもすごくいっぱいいいバンドがあって、夏にはフェスが日本中にあって…ワンステップの影響は本当に大きいですね。
◆デビュー ~『アルバムA』
木暮“shake”武彦:安全バンドのデビューは、1975年春ですが、契約はどのようになされたのですか?
瀧口修一:四人囃子と契約していたインターソングっていう所に山本さんという人がいて、その人がフィクサーとしてつないでくれてね。徳間音工が新しくレーベル(バーボンレーベル)をつくって日本のロックバンドのレコードを出すということで、安全バンドを気に入って契約することになったんだよ。やっぱりオリジナリティに着目したんだろうね。ウエストロードとサウス・トゥ・サウスもそこでやるっていう話になっていた。
木暮“shake”武彦:瀧口さんは、ギャラはいくらくださいとか言ったんですか?
瀧口修一:全然。全部向こうにお任せで、山本さんが「100万円位もらえればいいか?」って聞くから、「えーそんなに貰えるんですかー」とか言ってね。それは「著作権のアドバンスとなんとかに2%、その1万枚分払いが…」とか、なんだかんだで100万円位になるからみたいな話でさ。100万円なんて目も眩むような金額で確か3枚の契約をしたんだよね。2枚しか出してないけどね。
木暮“shake”武彦:ヒロさんは契約が決まったって聞いて嬉しかったんですよね?
長沢ヒロ:ああそうだね、やっと出せるっていう
木暮“shake”武彦:1975年にデビューなので、多分レコーディングは1974年の秋くらいからとかやっているんじゃないかと思うんですけど。
瀧口修一:うんと、そうかな。寒いときレコーディングしたんだよね。
長沢ヒロ:そうだね。
木暮“shake”武彦:レコーディングの時、メンバーのみなさんはどんな感じでしたか?
瀧口修一:みんな初めての割にはしっかりそれぞれやってた。ライヴでずっとやってきた曲だから、そのままのびのび楽しんで演奏してたな。ちょうど毛利スタジオが改装して当時の最先端のスタジオだったんだよ。最新の16トラックでエンジニアもディレクターもそこは初めてで新鮮な感じだったね。
木暮“shake”武彦:アルバムの冒頭からいきなり逆回転で始まったり、テープの早回しやいろんなギミックも入っていますが、そういうのはヒロさんのアイデアですか?
瀧口修一:そうだね。全部長沢。メンバーのみんなに絶対的な信頼があった。
木暮“shake”武彦:印象的な出来事はありますか?
瀧口修一:「月まで飛んで」のバックでコーラスを録る時、長沢がロックンロールセンターの仲間に歌ってほしいと言って、高校生とか大学生とか10人ぐらい集めて、その中のひとりの家だった川口の鋳物工場で練習したね。それで、当日スタジオにみんなで行ったらディレクターが怒ってね。長沢的には素人っぽい良さを出したかったんだと思うけど、もっとちゃんとした人が来るのかと思っていたらしい。もうやめる勢いになっちゃって。その時すでに4万円/1時間のスタジオを120時間ぐらい使ってたから500万円ぐらいかかってて、決裂したら俺がなんとかしないといけないのかなんて考えていた。それでもいいやと思ったけど。結局、文句は言ったけど入れてくれて、できたものは悪くないと思ったよ。
木暮“shake”武彦:当時、自分は高校生だったので、最初はラジオで流れた2~3曲を録音して、買ったのは「13階の女」のシングルでした。同時は洋楽を聴きたかったから安全バンドのアルバムを聴いたのはずいぶん後になってからですが、あの当時勢いのあるハードなロックバンドで、音楽性が高くてポップなセンスもあるバンドは他にないですね。デビューの頃の写真はいつも3人で三角形に並んでいる写真だったから、僕の印象はずっと3人のバンドでした。ライヴは5人だったんですか?
瀧口修一:うん、まだ中村哲(Sax/Key)も友ちゃん(相沢友邦 G)もサブメンバーみたいな扱い。
長沢ヒロ:最初はね。
◆プロとしての活動~解散
木暮“shake”武彦:デビューしてすぐの夏に<ワールド・ロック・フェスティバル>(名古屋・京都・東京・札幌・仙台で開催)にも出てますよね?国内のバンドとニューヨーク・ドールズとジェフ・ベックも出てた。
瀧口修一:うん。僕がステージマネージャーやっていたんだ。本当はメインの後楽園球場に出してくれって最後まで頑張ったんだけど、ダメだった。その代りその年に文化放送が後楽園でイベントをやったときには安全バンドを呼んでくれてね。
木暮“shake”武彦:後楽園で別のイベントがあったんですか?
瀧口修一:うん。そのときに安全バンドが「13階の女です」ってタイトルコールしたら、ウワーって歓声があがってね…すごく涙が出た。
木暮“shake”武彦:ブレイクしそうな雰囲気があったんですね。デビュー後にどういう活動の変化があったんですか?
瀧口修一:いくつかエポックはあるけどね。まずはデビューしてすぐに相沢の脱退。外国人の彼女が出来ちゃったのよ。それでアメリカに行っちゃったみたい。大ショックだよな。これからってときに。
木暮“shake”武彦:ロックバンドとして、リードギタリストがいなくなるというのは危機ですよね?
瀧口修一:うーん。だから逆境で長沢は伸びたんだね、きっと。2ndアルバムの完成度はなかなかのもんだよね。
長沢ヒロ:まあ結構、やれるだけやったかなって感じはあったけどね。
木暮“shake”武彦:それもあって2ndアルバムの音はガラッと変わったんですね。音の変化に驚きました。
瀧口修一:キーボードもギターもサブメンバーじゃなくて、正式メンバーの4人バンドってなったんだよね。それで、その後にレインボーの初日本ツアーでの前座をやって自信を持った。
木暮“shake”武彦:安全バンドは全公演やったんですか?
瀧口修一:東京、名古屋、大阪、広島、福岡。全部満員だからね。30分くれて卓も僕に渡してくれて。
木暮“shake”武彦:じゃあ、瀧口さんがミキシングを?
瀧口修一:エンジニアがやれって言うんだもん。
木暮“shake”武彦:外タレの前座の音響をエンジニアでもないマネージャーがやるなんてすごい時代ですね。
瀧口修一:まいったよ。でもモニターが凄かったよね。当時の日本にはPAなんてまだないようなものだから、音量とかバランスの良さにショックを受けた。レインボーとのツアーで盛り上がって翌春にスージー・クワトロのツアー同行48本の話が来て、これで行けるって思ってたらドラムが「火曜と木曜は布教があるので出られません」みたいな話になってね。さすがにじゅんぺいに代わるドラムはありえないってことで、長沢が力尽きちゃったんだよ。僕も切れちゃったけどね。
長沢ヒロ:彼の代わるになるドラムっていうのはいないかなっていう。それまでのサウンドは一旦やめるしかないかなって思ったんだよね。
瀧口修一:安全バンドとしてはお互いにもう無理だねって思ったんだよね。お互いに詰めて話し合ったというより、空中分解っぽい終わり方だったような気がするなあ。
木暮“shake”武彦:ヒロさんとしては、安全バンドとは違うものをやりたい思いもあったんですか?
長沢ヒロ:うん。っていうか「バンドは続けたい」っていう気持ちはあったからね。やりたいものがたまってたから、そこまで培って来たものは一旦もういいかなと。
木暮“shake”武彦:瀧口さんはマネージャーとしてはそこまでですか?
瀧口修一:始めから安全バンドっていうのがあって僕は関わったわけだし、バンドは遥かに大きい存在だったから、ある意味追随して行けばよかったのよ。バンドが暴走していくように僕が仕向ければ、相当に勢いはつけられるかも知れなかったけどね。僕は音楽は作れないから長沢を引っ張る事はできない訳で、あくまで長沢が暴走を始めたら僕もついて行くんだけど、なかなか始まらなかったんだよ。でも僕は僕で一生懸命で「生ギター一本でもやるんだったら一緒にやるよ」って話はしたんだけど、響かなかったみたい。バンドじゃなければダメだったのかな。
長沢ヒロ:その頃はそうだろう。
木暮“shake”武彦:それでヒロさんはHEROを作り瀧口さんはコンディショングリーン(沖縄出身のハードロックバンド)のマネージャーになったんですね。
瀧口修一:安全バンドのメンバー…特に長沢に対しては、ずっともの凄い罪悪感を引きずっててね。
木暮“shake”武彦:そうなんですか?
瀧口修一:そう。ずっとそうだったの。だけど去年の夏に地元の人たちが安全バンドを聴きたいって言うんで、じゅんぺいがセッティングして秋田でライブをやったのね。その時にじゅんぺいとふたりでその話をしたわけ。そしたら「いや瀧口はよくやった」って言ってくれて、なんか許されたような気がして、人生が少し楽になった。そういうのがあったな。
木暮“shake”武彦:今回のコンサートにもいろんな思いが重なりますね。
瀧口修一:長沢が元気なうちに集まれる機会が作れるといいと思った。長沢も大変だとは思うけど、すごく前向きに向かおうとしてくれていて良かった。
◆ ◆ ◆
あとがき
1970年代当時はロックが今のようにテレビのCMで流れることもなく、ロックは洋楽も含めて日本の社会的には本当にマイナーな存在でした。でも、当時高校生だった自分にとって、安全バンドをはじめ、カルメンマキ&OZ、四人囃子やクリエイションも、みんな昭和のしみったれた景色の中で本当に輝いていた。そして、音楽ビジネスもPAのない状況の中から、今に続く日本のロックの道を切り拓いてくれたことに感謝しています。おかげで自分達の時代(1980年代)には状況は随分変わって、レッド・ウォーリアーズでデビューする頃はちょうどロックというジャンルが歌謡曲よりも売れるようになったという瞬間でした。そんなことは1970年代には考えられなかったことで、それによって数字で見れば自分達の時代の方がビジネス的な成功があったとは思いますが、安全バンドの『アルバムA』を聴いて思うのは、やっぱりいつになっても1970年代の人たちにはかなわないということ。楽曲、演奏も本当に素晴らしいのですが、学生運動が終わり、ロックが生まれる必然性があった時代の中で、20代前半のヒロさんたちが発していた物、今も音楽を通して訴えかけてくるものは、のちの世代のロックとは全く違う。高度成長期の社会に完全に背を向けて、自分たちは自由な世界に向かって行くのだという純粋なロックの原点としての衝動。それは少しは自由になった今の世の中に大きく影響していると思います。この先時代がどう変わったとしても、その輝きは変わりません。
長沢ヒロさんと安全バンドに愛と感謝を込めて。
木暮”shake”武彦
<長沢ヒロトリビュート・ライブ ~安全バンド結成50周年~>
@渋谷 duo MUSIC EXCHANGE
開場/開演:18:00 / 18:30
前売料金:5,500円(ドリンク代別)
当日料金:6,000円(ドリンク代別)
・チケットぴあ:0570-02-9999【P コード:132-488】
・ローソンチケット:0570-084-003【L コード:71298】
・イープラス:http://eplus.jp/
[問]03-5114-7444(ネクストロード 平日 14:00 ~ 18:00)
【出演】安全バンド:長沢ヒロ(Vo,B)伊藤じゅんぺい(Dr)相沢友邦(G)
・岡井大二(Dr) [四人囃子]
・坂下秀実(Key)[四人囃子]
・恒田義見(Perc)[ハルヲフォン]
・西野恵(和太鼓)[COHAN
・ROLLY(G, Vo)
・うじきつよし(G,Vo)[子供ばんど]
・ダイアモンド☆ユカイ(Vo)[レッド・ウォーリアーズ]
・木暮"shake"武彦(G)[レッド・ウォーリアーズ]
・イリア(G)[ジューシィ・フルーツ]
・高橋まこと(Dr)[ex.HERO,BOOWY]
・ホッピー神山(Key)[ex.HERO, PINK]
・三国義貴(Key)
・牧野哲人(G)[ex.HERO]
・伊藤真視(Dr)[ex.HERO]
・森永淳哉(G)[ex.パッセンジャーズ]
・高橋喜一(B)[サブラベルズ]
安全バンド『終わりなき日々/新宿警察のテーマ 』
2019年1月30日発売
CREP5740 ¥1,800 +税
安全バンド『アルバムA +1』
TKCA-72484 ¥1,714 +税
安全バンド『あんぜんばんどのふしぎなたび +2』
TKCA-72485] ¥1,714 +税
安全バンドBOX SET『1972 - 1976 LIVE ANTHOLOGY』(4CD)
2019年2月7日発売
FJSP361 ¥5,100 + 税
長沢ヒロ『1978 - 1994 LIVE ANTHOLOGY』(3CD+DVD)
2019年2月7日発売
FJSP365 ¥6,030 + 税
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