【連載】Vol.026「Mike's Boogie Station=音楽にいつも感謝!=」
映画『約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~』 秋からも全国順次公開が続く!プロデューサー&出演者/ブー・ミッチェルへのロング・インタビュー!!
6月17日に公開された映画『約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~』が音楽映画としてなかなか好評。ぴあ初日映画満足度ランキングでは堂々の2位を獲得。
公開時に本作プロデュース&出演のローレンス・ブー・ミッチェルが来日した。ラジオやイベントに出演したほか、雑誌、ウェブなどのインタビューと多忙なスケジュールをこなしつつ、公開2日目(6月18日午後)には、K’s cinema新宿で映画の中心人物であるブーとメンフィス通の湯川れい子さんをお相手に2回のトーク・ショー(MC : Mike)、大いに盛り上がった。
続く夕方にプレ・イベントとしての“Mike’s Soul Collection”を同時期に開催させていただいた代官山蔦谷書店でブーと日本を代表するブルース・ギタリスト、菊田俊介とのトーク・ライヴ(MC ; Mike)。ここにはソウル・サーチン吉岡正晴が飛び入り。またまたメンフィス・ソウルで大いに盛り上がったのだ。
東京を皮切りに、大阪、名古屋、横浜など主要都市で公開された『約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~』は秋以降も各地に登場する。
*新潟 シネ・ウインド 10月7日(土)~ 10月13日(土)
*栃木 宇都宮ヒカリ座 10月28日(土) ~ 11月10日(金)
http://hikariza.news.coocan.jp/
ではでは既に観た方も、これからご覧になる方も、もう一度の方もじっくりお読みいただきたい。ブー・ミッチェル、ロング・インタビューである。
【まずは自己紹介】
私はローレンス・ブー・ミッチェル。Mike-sanと一緒に東京のゴジラ・プラザにいるのだ(爆笑)(註:HTLグレイスリー新宿)。1971年メンフィス生まれ。幸運にも、多くの音楽に囲まれた家庭環境の中で育った。父ウィリー・ミッチェルはとても有名な音楽プロデューサーで、ロイヤル・スタジオのオーナーだった。
音楽がいつも身近にあり、人生の一部であり家族の一部。子供の頃から、音楽にとても興味を持っていたのは当然だったかもしれない。父はアル・グリーンやアン・ピープルズ、オーティス・クレイ、シル・ジョンソンなどハイ・レコードのアーティストたちと多くの成功を収め、私も多くの有名なミュージシャンたちと知り合った。子供の頃、テンプテーションズが家に遊びに来たことがあるし、ドゥービー・ブラザーズ、ジャクソンズ、アイザック・ヘイズらに何度も会った。
【音楽との出会い】
小さい頃から、いろんなジャンルの音楽に触れることが出来た。ソウル・ミュージックはもちろん、ロックも大好きで、特にクイーンやAC/DC!9~10歳の頃は、学校から帰ってくると、リック・ジェームスのアルバム『ストリート・ソングス』、クイーンの「地獄へ道づれ」、 AC/DCのアルバム『バック・イン・ブラック』の中の「狂った夜」などをよく聴いていた。
【楽器との出会い】
10歳の頃からピアノのレッスンに通ったけど、長くは続かなかった。ベートーヴェンやモーツァルトも弾かされたけれど、クラシックにはあまり興味が持てなかった。そこで父が私にピアノを教えることになった。最初に覚えたのはレイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」。その時から完全にピアノの虜になったのだ。高校時代にはトランペットも始めたけど、1年間くらいしか吹かなかった。やっぱりピアノの方が好きだった。
【16歳でラッパー】
80年代の音楽に夢中になってた。ちょうどヒップホップが出始めたころで、当時好きだったのは、シュガーヒル ・ギャングのメッセージ。ラップ革命を目撃。ハービー・ハンコックの「ロックイット」(メロディーを歌う)は好きだったし、その後にハマったのはプラネット・ロック。このあたりを聴いて育った。
1987年、16歳の時ラッパーになっていた。最初にミュージック・ビジネスに関わるようになった時期。92年まで自分のラップ・グループで活動していた。M-Team。Mはミッチェル、メンフィス、ミュージックを表したもの。我々がメンフィスで初めてYouTubeにビデオをアップしたラップ・グループ。ニューヨークでRun-DMCのディレクターの元でビデオを制作。今でもYouTubeで観ることが出来るよ。
【セッション】
最初にレコーディング・セッションでお金を稼いだのは17歳の時。父が子供たちにシンセサイザーとドラムマシーンを買ってくれた。ある日、ロイヤル・スタジオのトイレの脇の小さな部屋で楽器を弾いて遊んでいた。父がちょうどアル・グリーンのゴスペル・アルバムを制作しているところだった。アルがトイレに行った際に、私たちがシンセサイザーで遊んでいるのを耳にした。そこでアルが、「ヘイ、ウィリー、この子たちを俺のアルバムで弾かせてやってくれないか」と言い出した(笑)。いきなり彼のアルバムでキーボードを弾くことになって、それが何とグラミー賞を獲得(笑)。『I Get Joy』。(註:収録曲「As Long As We’re Together」でアルはThe 32nd Annual Grammy AwardsのBest Soul Gospel Performance, Male or Femaleを受賞。このナンバーのクレジットをチェックするとキーボードに“Lawrence Mitchell”と記されている)。その日のセッションで確かユニオン規定に沿って250ドルぐらい稼いだ。凄い金持ちになったと思った(笑)。なにせ17歳だから。
【父 ウィリー・ミッチェル】
父は私に音楽を強制しなかったが、音楽に興味があることを示すと、いろんなことを教えてくれた。それは私にとってとても素晴らしいことだった。何故なら、やらなければいけないのではなくて、やりたいことをやっているという意識があったからだ。
ラッパーとして独り立ちした頃の93年、家族がビール・ストリートにクラブをオープン。ウィリー・ミッチェルズ・リズム・アンド・ブルース・クラブ。そこでDJ、エンジニアとして忙しく動き回った。ライヴの音響を学んだ。スタジオの音響とは全く違う世界。毎晩のようにいろんなアーティストが出演してくれた。マイケル・マクドナルド、モンテル・ジョーダン、テンプテーションズのアリ・ウッドソンといったビッグ・アーティストもパフォーマンス。
*インタビューちょっぴり休憩~Boo & Mikeがテンプスの「トリート・ハー・ライク・ア・レディー」をコーラス(冷や汗)。
アリは本当に素晴らしいシンガーでした。彼は90年代にミュージカルでメンフィスによく来ていて、クラブにも頻繁に顔を出した。あとウォーレン・ジヴォンら沢山のアーティストたちが訪れてくれた。98年に閉店するまで、自分が中心になって動いた。
【音楽ビジネス】
クラブ閉店後はスタジオに専念。ラッパーではなく、マネージャーとしての活動により比重が大きくなった。コピーライトや契約など、ミュージック・ビジネスに興味を持っていたので、ちょうど良い機会だった。それまでロイヤル・スタジオにはロゴというものがなかった。父に進言して初めてロゴも作った。そうやって音楽ビジネスに関わっていき、その間にレコーディング・エンジニアとしても活動していった。
【プロデュース】
2002年だったと記憶しているけれど、アル・グリーンが父に連絡してきて、「ソウル・アルバムを作りたいと!」と。私も共同プロデューサーとして参加、バンドを集めたり、資金を調達したりし、プロデューサーとして本格的に仕事をした。とても良いアルバム『I Can’t Stop』が完成、グラミーにもノミネートされた。その後、プロデューシングやエンジニアリングなどのクリエイティヴな方向に進んだ。そして04年にロイヤル・スタジオのトップ・エンジニアに…。
【マイクロフォン・ナンバー・ナイン】
ロイヤル・スタジオのマイクロフォン・ナンバー・ナインは素晴らしいマイクだ。いつもそのマイクの噂は聞いていたし、アル・グリーンの歌などを聞き返してみて、ほかのマイクとは違うことがよく分る。確かマイクロフォン・ナンバー・ナインはアル・グリーンの全てのヒット曲で使われているんじゃないかな。「レッツ・ステイ・トゥギャザー」「テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー」などで。RCA 77 DXはRCAのリボンマイクで1950年代のもの。同じ種類のマイクを5つ所有しているが、それでもナンバー・ナインは音が違う。他のどれよりも優れた音を生み出す。ヴィンテージの古い製品の素晴らしいところだ。ハンドメイドのマイクや楽器は全て音が違う。今ではコンピューターが全てを作っているが、当時のものは違う。ナンバー・ナインはいつも自分を驚かせてくれる。
【スティーヴ・ジョーダン & キース・リチャーズ】
(インタビューも含め何度も会ったことのあるこのふたりについてはいろいろ突っ込みを入れてしまった…冷や汗)
スティーヴに初めて会ったのは88年…。私がまだ若い頃、彼は大好きなふたつのTV番組で専属ドラマーを務めていた。Late Night with David LettermanとSaturday Night Live。よく友達と「あのドラマー見たかい?黒人でドレッドの髪をしているぜ」と話題にしていた。
88年、父がキース・リチャーズのレコーディング中にスティーヴがやって来た。「オー・マイ・ガッド。デヴィッド・レターマンのドラマーじゃないか!!」。彼と父はすぐに打ち解け、ソウル・メイトになった。キース・リチャーズの最初のソロ・アルバム『トーク・イズ・チープ』はスティーヴ・ジョーダンがプロデューサー。彼らとの出会いに大きく触発され、音楽により集中し、ロイヤル・スタジオの伝統を守っていく決意が固まった。素晴らしい経験だった。
そしてキース・リチャーズのレイテスト・ソロ・アルバムにも関わった。もちろんスティーヴ・ジョーダンもだ。アルバム・タイトルは『クロスアイド・ハート』。このアルバムにはオーティス・レディング飛行機事故で唯一生き残ったバーケーズのベン・コーリーが参加した最後の作品集でもある。彼はオーティス・レディングの自家用機が湖に墜落した際に、泳げないにもかかわらず無事だった。父がキースの最初のアルバムを録音、私が最新アルバムを録音。ということでキース・リチャーズとのワークスは特別な思いがあり、とても光栄に思うレコーディングだった。
(そこで、レコーディングとは別に2年前にキースがメンフィスを訪問したことを尋ねてみた)
そうそう、そうだった。スタジオ・ワーク以外にもいろいろとプロジェクトに参加、13年からはMemphis Music Hall of Fame(メンフィス音楽の殿堂)のプロデュースにも関わっている。15年には、スコティ・ムーアが殿堂入りを果たした。キース・リチャーズが代理人として授賞式に参列、トロフィーを受け取った。素晴らしいことだ。
(いつだったかのマイ・インタビューでキースはスコティは父親のようでもあり、パイオニアだと語っていた)
そうそう、まさにその通り。大好きなキース・リチャーズの言葉に「皆はエルヴィスみたいになりたがるけど、俺はスコティみたいになりたい!」というのがある(笑)。
【父親との別れ…】
10年に父が亡くなった。私がスタジオを切り盛りしなければいけなくなった。彼なしにスタジオを運営していくのは簡単ではない。レコーディング中、音に問題が生じた時は、以前なら「パパちょっとトラブル」と言うだけで彼がやってきて、ほんの少し何かを触るだけで、全ての音が元に戻った。どうやってそんなことができたの?と驚いてしまう。まるでマジック。彼が自分を助けてくれなくなる日が来たらどうしよう、と常に不安がありました。亡くなった最初の年は、本当に大変だった。スタジオとともに生き抜くために、いろんなことを学ぶ必要があった。人々はウィリー・ミッチェルのスタジオの音を求めてくる、それを作り上げるプレッシャーも凄かった。彼の残した功績に私は到底及ばない。その功績は偉大すぎる。彼の残したものに敬意を払って、同時に自分自身の足跡を残していかなければならないのだ。
【約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~】
父が亡くなった後、ノース・ミシシッピ・オールスターズのコーディ・ディキンソンがコンタクトしてきた。それは映画のプロジェクト『約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~』。コーディはとてもエキサイトしながら、「素晴らしいドキュメンタリーの映画にしたいから協力して欲しい」と言ってきたんだ。そこで私が「誰がバンドやアーティストとして出演し、誰が彼らをプロデュースするの?」と聞いたんだ。するとコーディは「君にプロデュースをやって欲しい」と。それは特別な瞬間だった。私を信頼して大きなプロジェクトを任せてくれたことに驚き、そして嬉しかった。これは父が亡くなって初めての大きなプロジェクト。コーディが僕を信頼してくれたことに大きく感謝だ。父が亡くなった後、「ウィリーは素晴らしかった。でも息子のブーはどうなんだろう」と疑問の声が挙がっているのを知っていたので、自分を証明しなければならない。プロデューサーとしてもエンジニアとしても。だから『約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~』のプロジェクトは私のキャリアの中でとても画期的な出来事になったんだ。オーティス・クレイやウィリアム・ベル、スヌープ・ドッグ、テレンス・ハワード、ボビー・ラッシュといった人たちをプロデュースするなんて、まるで天国の扉が開いて、祝福の雨が私に降り注いだようなもの。自分のキャリアの中でも特別に素晴らしい瞬間となりとても大きな自信になった。
【最近のレコーディング・ワークス】
最近リリースされたばかりのノース・ミシシッピ・オールスターズの新作『プレイヤー・フォー・ピース』はビルボード誌ブルース・チャート1位に輝いた。凄い。
ロバート・クレイ&ハイ・リズムのアルバム『ROBERT CRAY & HI RHYTHM』も録音、これはスティーヴ・ジョーダンがプロデューサーで、これまたブルース・チャート1位に輝いた。
ちょっと前にはメリッサ・エスリッジのアルバム「Memphis Rock And Soul」も録音、これもチャート1位になった。今は私とロイヤル・スタジオ、さらにメンフィスのミュージック・シーンにとって、とてもエキサイティングな時だ。ここまで成功を収めることが出来ては本当に嬉しい。
【約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~】②
このプロジェクトは父が亡くなってすぐに始まった。
この人とこの人を組み合わせてみたらどうだろう、と試行錯誤を繰り返し、最終的に選ばれた人たちが素晴らしかったのが、このプロジェクトが成功した理由のひとつだと思う。まずボビー・ラッシュが参加することになり、そこに有名なメンフィスのラッパーを当ててみた。だがそれは上手くいかなかった。そこで妹に「フレイザー・ボーイを知っている?」と聞いたら、彼女は「もちろん知っているわよ」。「彼はオスカーを受賞しているよね?」と聞くと、「受賞しているわよ」。彼に電話をかけたら快く引き受けてくれた。その後、全てのセッションがとても上手くはこび、まるで天が全てを操るように我々の味方をしてくれた。何か問題が起きても良い方向に変わっていった。
この映画でのマイ・ベストはオーティス・クレイとリル・ピーナッツのセッション。リル・ピーナッツは、メンフィスでは既にTVコマーシャルですでに有名人。車や家具のコマーシャルに出演。姉に「この子はすごいぞ。なんとか入れたい」と言うと、「彼の母親を知っているわ」 (笑)。オーティス本人は、直前まで10歳のラッパーと一緒にやるなんて知らなかった(笑)。セッションの日に、ピーナッツ本人がオーティスに 「ハロー、ミスター・オーティス・クレイ。僕がリル・ピーナッツです」と自己紹介した。オーティスは目の前の子供を見て、とても驚いた表情で「君がピーナッツなのか」と言った(大笑)。ピーナッツはこの映画の一番のスターになった。本当に素晴らしい瞬間でした。その間カメラがずっと回っていて、マイクも常にオンの状態でした。トイレに行っている間もね。ごめんなさい (笑)。
とにかく素晴らしいプロジェクトになった。その後メンフィスでフリー・コンサートが計画され、この映画出演者の多くがステージに立つことになった。ボビー・ブルー・ブランド、オーティス・クレイ、ウィリアム・ベル。彼らがスタジオでリハしている時、ボビー・ブランドが、エネルギーに溢れたリル・ピーナッツを見つけた。「この小さな子供は一体誰だ?」 (笑)。本当に多くの魔法のような瞬間があった。スタジオでプロデューサー、エンジニアとしてこの魔法の瞬間に立ち会うことができたのは、とても祝福されたことだ。全てはオーガニック、計算されたものは何もなかった。全てが自然に起こったこと。多くのアーティストが家にいるような心地よい空間の中で仕事できたことも良かったのだ。そんな環境の中だからこそ、彼らはカメラが回っていることを意識しなくてすんだのだ。ロイヤル・スタジオでは、家にいるような心地よい気分で撮影が出来たのだ。
最初のセッションは、ウィリアム・ベルとスタックス・アカデミーの生徒たち。スタックスは75年に倒産、ウィリアム・ベルが2000年代の初めにスタックス博物館とアカデミーの創設に尽力して、アカデミーのプログラムも作った。そこで映画監督のマーティン・ショアに、ウィリアム・ベルとアカデミーの生徒たちを共演させてみてはどうかと、話を持ちかけた。マーティンはスヌープ・ドッグと友達なので、スヌープをこの映画に起用しようと言ってきた。最初のアイディアは、B.B.キングとスヌープ・ドックの共演。BBからは快い返事がもらえなかった。BBからの返事を待っている間に、マーティンがスヌープに、ウィリアム・ベルのレコーディングの話をした。するとスヌープが「ナニッ、ウィリアム・ベルだって!彼は俺が一番好きなソウル・シンガーだ」。スヌープがウィリアム・ベルを知っていることが驚きでした。それはスヌープ・ドッグがどういうミュージシャンなのかを物語っているのだ。彼はブルースやソウル・ミュージックの生徒であり、よく勉強している。彼はウィリアムが誰なのかを本当によく知っていた。ほとんどのラッパーたちはリズム・アンド・ブルースのことはよく知らない。スヌープが「ウィリアム・ベルと一緒にレコーディングをしたい」、次の瞬間、私はスヌープ・ドッグとウィリアム・ベルをレコーディングしていた(笑)。本当に凄いことだ。そして映画に出演しているリズム・セクションは、皆アル・グリーンのアルバムや、ハイ・レコードの有名アルバムの殆どに参加している。さらに有名な俳優テレンス・ハワードの参加も決まった。ハイ・リズムと共演して、テレンスは触発され映画のナレーションを務めることにもなったのだ。
最初の方のセッションはバーケーズとエイト・ボール&MJG。映画には収録されなかったけど、楽曲はとても素晴らしい(註:「ゼイ・ウォナ・ビー・ライク・ミー」、映画のオリジナル・サウンドトラックCDに収録。歌詞にローリング・ストーンズが登場なのだ)。エイト・ボール&MJGは、メンフィスの中心的なラップ・グループ。彼らがラップ始めたのは、私がラッパーとしてスタートを切った時期と同じだ。
(ここで、新生バーケーズが71年に赤坂MUGENにハコバンドとして来日した時の様子をBoo-sanにお教えした。インタビューもした…)
バーケーズは私の叔父さん達のような存在。またハイ・リズム・セクション、ホッジス・ブラザースのチャールズ・ホッジスは、本当の叔父さんのよう。幼い頃からずっと一緒だった。実際のところチャールズ叔父さんって呼んでいた。リロイ、ティーニーらも僕の叔父さん達だ。ホッジス兄弟は私の結婚式にも来てくれた。ピアニストのアーチー・ターナーも来てくれた。ちなみにアーチー叔父さんは、母の兄妹なので、本当の叔父さんだ(笑)。叔父さん達は、私が作るアルバムの殆どに参加してくれている。
(ここで映画パンフレット用に今年4月にBlue Note TOKYO楽屋でインタビューさせてもらった際のブッカー・T.ジョーンズのBoo-san評を紹介した。「息子のブー、ローレンス“ブー”ミッチェルも素晴らしい人物。プロデューサーとして良い仕事をしている彼は歴史をしっかり継承している。これが音楽を愛する者の真の姿だ!」(BTJ)
オー・マイ・ガッド!ブッカー・T、は本当に素晴らしいミュージシャンで&プロデューサー。世間は彼を「グリーン・オニオン」として知っているけど、ビル・ウィザースを世に送り出したことは余り…、「消えゆく太陽」はブッカー・T,のプロデュースなのだ。アル・ジャクソン・ジュニアがビル・ウィザースのナンバーでドラムを叩いている。そして70年代、ブッカー・T.はリタ・クーリッジの妹のプリシラと結婚していてアルバムも発表。リタは、私が子供の頃家によく遊びに来て、従兄弟のベビーシッターをやっていた(笑)。母や叔母さん、祖母ととても仲が良かった。ロイヤル・スタジオでレコーディングしたことはなかったと思うけど、家族とはとても仲良しだった。
(リタには何度か電話インタビューしたことがある、大昔のこと)
【TAKE ME TO THE RIVER続編】
『約束の地、メンフィス~テイク・ミー・トゥー・ザ・リバー~』は次の作品も作れると思う。この映画に全ての人を入れることが出来なかったからだ。カーラ・トーマス、スティーヴ・クロッパー、ドン・ブライアントはスケジュールの関係で参加出来なかった。スティーヴ、現在はナッシュビルに住んでいる。彼のセッションではハイ・リズムやホーン・セクション、さらにシンガーも入れなければいけないので、全員のスケジュール調整が必要になってくる。
それとは別に新たなプロジェクトが始まったところ。
ニューオーリンズ。同地はメンフィスによく似ている。古い街で、ジャズ発祥の地であり、独自の音楽のアイデンティティーを持っている。伝説的な有名ミュージシャン、例えばミーターズやネヴィル・ブラザーズが現在も元気に活動している。実際、ネヴィル・ブラザーズとセッションをして、メンバー全員のインタビューも行った。 これからじっくりとニューオーリンズ・ワークスに取り組んでいく、期待して欲しい。
(そして最後にニューオーリンズ在住のマイ・ミュージック・パル、アイヴァン・ネヴィルや山岸潤史の話題でインタビューは終了)
ブッカー・T.ジョーンズの言葉ではないが、ローレンス・ブー・ミッチェルはまさに歴史をしっかり継承。そこから新しい文化を生み出していく若きプロデューサー。彼のプロデュースでレコーディングは勿論ロイヤル・スタジオ、そんな日本人アーティストを探している今日この頃だ…。
写真:CURIOUSCOPE、Laurence Boo Mitchell、K.SATO and from Mike’s Collection
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