スキーの町からロックの町へ【検証】フジロックが20年愛され続ける理由 ~地元苗場編~
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■ 続いて欲しいと言っているだけではフジロックは続かない
■“あなた”が来続けてくれることが必要
──30年前はスキーの町、今はロックの町。20年後はどういう町になっていると思いますか?
金澤龍太:120軒あった宿が60軒に減り、限界集落になっていくのをどう食い止めるか、というのが正直なところ。景観、ボードウォーク(車いすでの自然散策を可能にする手作りの木道)、フジロックの森等の文化を蓄積していかない限り、先はない。プリンスホテルなどがなければ、昔の炭焼きに戻ってまたぎで食っていくような状況ですよ。だからこそ、若い人たちが知恵を出して文化を構築していかなければならない。そのきっかけにフジロックがあると思います。
──苗場を羨ましく思う地方都市はたくさんあると思いますよ。
師田輝彦:スキーだけの苗場を、フジロックが全国区にしてくれたことに一番感謝しています。年間800万人ものスキー客が来ていた過去もありましたが、「関東から一番近くて手軽に行ける苗場」だったのに、関越自動車道が開通したことや新たなスキー場ができたことで「わざわざ行かなければいけない苗場」になってしまったんです。電車も高速道路も通っていないし、最寄りのICから車で30分もかかる。でも、この環境だからこその感動があるんです。フジロッカーズの皆さんは「フジロックに帰ってきた」ではなく「苗場に帰ってきた」と表現してくれるんですよね。第二の故郷のように感じてくださることがとても嬉しいです。
──輝彦さんのお父さん(町会議員)の一言が今につながったんですね。
師田輝彦:初めてフジロックが来ると聞いたときから、父も自分も大賛成でした。僕は、当時は都内のイベント美術会社に勤務していましたが、苗場に戻ってきたんです。でも、ここ苗場の中でも「自分はフジロックは関係ない、自分の商売さえできていればそれでいい」という人もいますし、ボードウォークのプロジェクトを知らない人もいるんですね。僕らの役目は、地域としてのチームワークや空気作り、敷居を低くしてもっと参加しやすくすることなど、自分たちの世代でやれることがたくさんあると思っています。
──新井さんもUターン組なんですよね?
師田輝彦:帰ってくると聞いて僕が巻き込んだんです(笑)。
新井一州:3年前に戻ってきました。苗場に残っていた同年代も少ないので、正直帰ってくるのも微妙だったんですけど、気付いたら凄いことに関わっていました(笑)。確かに、苗場を羨ましがる人もたくさんいると思いますが、それに気付いていない人もここにはいっぱいいるんです。自分たちの世代になって、どうしていこうかと考えた時、やめることは簡単だけど、これからだって何でもできると思うんです。音楽は世界に発信できるものだから、その舞台になっている苗場という環境にいることは魅力です。それを生かすも殺すも自分達次第。ここで止まることはないと思っています。
──「フジロックの森」という活動は、苗場観光協会によるものですか?
金澤龍太:湯沢町/新潟県/SMASH/苗場観光協会/町内会/中越パルプが出資してフジロック協議会を立ち上げました。間伐材をパルプ材にして作るフジロック・ペーパーの創出が主体です。
──フェスエコ(フジロック公式フリーマガジン『Festival Echo』)やフライヤーで使われている紙のことですよね。
金澤龍太:はい。2015年は割り箸を作って苗場食堂でも使いました。5本セットにしてお土産として販売したら即完売してしまったので、今年は5000本の割り箸を販売します。これも間伐材を用いたエコ活動です。
師田輝彦:代々木でおこなわれているアースデイ東京でも「フジロックの森」ブースを出して、豪雪による倒木を用いたワークショップを行いました。お客さんに実際に木に触れて切っていただき、フジロックの森の焼き印を入れてオリジナル・コースターを作るんですけど大人気で。
金澤龍太:整備事業のみならず、フジロックの森をみなさんに楽しんでいただきたい。ボードウォークの沿道にアートを置いたり。今ではごんちゃんストーンを70個置いていますよ。
──目が描かれた大きな石ですよね。
金澤健太:フジロックのステージ制作チームからは「ジャマだ」と思われている気もしますが(笑)。
──ボードウォークも「フジロックの森」の一環ですね。
金澤龍太:ボードウォークの板には、いろんなアーティストのサインを貰ってね、(忌野)清志郎さんやOASISのサインが入った板を実際に張ったんですけど、すぐ文字が消えちゃった。あれはもったいなかったなぁ(笑)。ボードウォークの板をフジロックの皆さんが買って協力してくれたおかげで、今もそのプロジェクトが続いているんです。苗場食堂がスタートしたのも、そのお返しに日高さんから「苗場食堂やれ」と言われたのがきっかけなんです。2002年ですね。
──「苗場食堂」はフジロックの象徴的な食事処ですね。
金澤健太:地元のボランティアで運営していまして、1シフト10人、全部で130人が働いています。
金澤龍太:苗場食堂で累積された売上は、若い世代が新しいイベントや地域の活動をしていくことに役立てられたらいいと考えてるんです。食事のメニューは、白飯、卵ご飯、タケノコ、岩魚の塩焼き、山菜…と数を絞って、でも最高のものを提供するというこだわりです。お米は日本一である魚沼大沢のコシヒカリを使います。
──併設されている桟敷ステージも登場時は衝撃でした。
金澤龍太:日高さんはあそこにステージを作るつもりだったらしいんですけど、僕がその前に食堂用に桟敷を作っちゃったんです。そこを貸してくれと言うので、どうぞどうぞ、と(笑)。
──赤犬、SAKEROCK、ディアフーフなどが出演してきた名物ステージになっていますね。では最後に、地元の方からのメッセージをおねがいできますか?
金澤龍太:フジロックは宇宙都市。来たらびっくりしますよ!ゲートの前には無料で入れるパレス・オブ・ワンダーもありますし、一度経験しないと損します。フジロックを続けていきたいのは私たちも同じなんです。でも、続いて欲しいと言っているだけでは続かない。あなたが来続けてくれることが必要。これから20年、50年続くためには、地元が協力しようが何をしようが、オーディエンスの方々のサポートなしでは続かない。僕らも主催者の負担を軽減できるように頑張るから、オーディエンスの皆さんも一緒になってフジロックを繋いでいきましょう。
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実はインタビュー中、「フジロックと苗場の行末」についての発言に熱くなった金澤龍太氏&健太氏が、軽快に親子喧嘩を始めた。もちろんそれは言うまでもなく、フジロックを真剣に考えるあまりの出来事。フジロック側は「オーディエンスには3世代で来て欲しい」と謳っているが、フジロックに関わる地元民もまた、世代を超えて熱い思いを交差させている。
フジロックはスキー客の減少で危機的状態だった町の起死回生に一役買い、18年の歳月経た現在、苗場にはなくてはならないものへと変化した。<音楽フェス>は、この苗場との関係のように地域と正しく深く連携すると、まさに“祭り”のように人々にとってなくてはならない年中行事として親しまれ、多くの人に共有され脈々と次世代に受け継がれていく。この現象は、日本に新しい価値観を与えた<フジロックフェスティバル>の偉大なる功績のひとつである。
<フジロックフェスティバル>は文化だ。そして、音楽ファンである私達がひとりひとりのエネルギーを持ちあい、自らの意志で受け継いでいくべき祭りでもある。「続いて欲しいと言っているだけでは続かない」という、あまりにもリアルな金澤龍太氏の言葉こそ、地元の人々が放つ大切なメッセージだろう。
音楽ファンが18年にわたって毎夏「帰ってきた」と口をそろえて親しみを唱える苗場の魅力を、未体験者は、是非体感してみて欲しい。
取材・文=早乙女“ドラミ”ゆうこ、BARKS編集部
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