【ライヴレポート】バンドネオンの小松亮太が、ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノス・アイレスのマリア」を全曲演奏
小松亮太と彼が率いる東京タンゴ・デクテット(10人編成コンボ)による、アストル・ピアソラのタンゴ・オペリータ「ブエノス・アイレスのマリア」の全曲演奏。小松ファン、ピアソラ・ファン、タンゴ・ファン等の熱い期待を集めたこのコンサートは、もともと2年前の3月19日に行われるはずだったのだが、直前に起こった東日本大震災により中止となった。ファン以上に無念だったのは、入念に準備を進めていた小松たち演奏陣だったはずだ。しかし、結果的には、良かったのかもしれない。2年数ヶ月を経て改めて実現された今回のコンサートでは、主役のマリア役を、なんと、この曲を初演したアメリータ・バルタールが務めたのだから。
アメリータ・バルタールは、「ピアソラ作品の最高の歌い手」の一人として、タンゴ・ファンの間ではよく知られてきた。元々はフォルクローレを歌っていたアメリータがピアソラに出会ったのは1968年。当時スランプに陥っていたピアソラが、起死回生をかけて作った大曲「ブエノス・アイレスのマリア」の初演のための主人公役として白羽の矢を立てたのがアメリータだった。初演後にピアソラの妻となったアメリータは、74年の離別後もずっとピアソラ作品を歌い続け(ヒット曲「ロコへのバラード」などは日本でもおなじみ)、70歳を超えた今日も第一線で活躍している。そんなディーヴァが40数年ぶりに、しかも日本で、全曲演奏に参加するというのだから、ファンの期待の高さもむべなるなか。
詩人オラシオ・フェレールの歌詞(歌と語り)にピアソラが曲をつけたこのタンゴ・オペリータ(90分弱にも及ぶ、全16場の小オペラ風組曲)は、二人の歌手と一人の語り手を要する。今回、アメリータ以外に歌手として参加したのは、ベネスエーラ人歌手レオナルド・グラナドス、語り手はアルゼンチン人タンゴ歌手ギジェルモ・フェルナンデス。共に、世界的に活躍してきた人気歌手で、過去、各地で上演されてきた「ブエノス・アイレスのマリア」コンサートにもしばしば参加してきた。これ以上は望むべくもないといった感じの陣容である。
そういった、観客と演奏陣の熱すぎる思いと期待が交錯する中で始まった演奏は、出だしこそ、リズムの切れなどにやや硬さを感じさせたものの、曲が進むにつれてパッションと深みがほどよく調和してゆき、高度にシンフォニックなアンサンブルからピアソラならではのエロティシズムがドクドクと溢れ出してくる。とりわけ、後半の鬼気迫るスパークぶりはすごかった。歌と語りと演奏が複雑に交響するドラマティックな第12場「精神分析医のアリア」、インスト曲の第14場「アレグロ・タンガービレ」におけるアンサンブルの加速感、そして、ピアソラ歌手としての燃える業のようなものすら感じさせた第15場「受胎告知のミロンガ」におけるアメリータの絶唱。ピアソラ・スタイルで立膝のまま鮮やかにバンドネオンを操る小松亮太はもちろんのこと、ギターの鬼怒無月やピアノの黒田亜樹など東京タンゴ・デクテットの演奏からも、2年越しの執念とも言うべき強い思いが波動としてビンビン伝わってくる。
歌や語りはもちろんスペイン語だが、日本語訳がステージ上のモニターに映し出されるので、何を歌って(語って)いるのかはわかる。とはいっても、フェレールの歌詞自体が、そもそも極めてポエティックかつシュールなものであり、字幕を追っても、意味や整合性はよく理解できない。はっきりとわかるのは、主人公「マリア」がタンゴを暗喩するものであり、マリア=タンゴがいかに誕生し、どのような人生を送ってきたのかを描いた作品、ということぐらいだが、しかしそれで十分だろう。まるでボルヘス的ラビリンスに迷い込んだかのように魔術的な跳躍、旋回を繰り返すフェレールの言葉と、ピアソラの知的かつエモーショナルなサウンドが絡まりあう中、どこを切っても鮮血のごとく噴き出してくるのは、タンゴという混血都市音楽にまつわる苦悩と歓喜だ。そして、その苦悩と歓喜は、ヨーロッパと南米、理知と野性、ノスタルジーと野心に引き裂かれて宙吊りになったまま、常に激しくアイデンティティを求め続けてきたアルゼンチン人の性(さが)でもあるように思われる。そういう意味では、この作品はタンゴ及びアルゼンチン(人)に向けてのピアソラによる渾身のオマージュと言っていいのだろう。
奇しくも、小松のレコード・デビュー15周年記念にもなったこのコンサートは、8月末には2枚組ライヴ盤としてリリースされるという。現場に立ち会えなかった多くのタンゴ・ファン、ピアソラ・ファン、小松ファンにとっては、なんともありがたいことだ。しかし、地球の裏側の日本という国で、かくも驚くべきコンサートが実現し、レコード化されることを一番喜んでいるのは、もちろん天国のピアソラ本人だろう。
2013年7月3日
文●松山晋也/MATSUYAMA Shinya(音楽評論家)
撮影●西田航
◆小松亮太 オフィシャルサイト
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