【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~ミュージシャン編 Vol.2】四人囃子に参加、そしてプロ・デビューへ

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【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~ミュージシャン編 Vol.2】四人囃子に参加、そしてプロ・デビューへ

1975年、23歳の佐久間正英は、日本のプログレ・バンドの最高峰の地位をすでに確立していた四人囃子に加入する。プログレからフュージョンへという時代の流れの中でいくつもの傑作を生み出したが、自身はクラフトワークなどの電子音楽、セックス・ピストルズらのパンクに大きな刺激を受け、その音楽思想はさらに先鋭化。やがて四人囃子は解体し、彼は世界的なニューウェーヴの波の真っ只中へと飛び込んでゆく──。

構成・文●宮本英夫

●「四人囃子は、ずっとサポートだと思っていた」●

──いよいよ四人囃子の話になりますが、佐久間さんが加入したのはどんな経緯だったんですか。


▲『一触即発』
佐久間正英(以下、佐久間):すでにメンバーとは知り合いになっていたんですけど、実際にライヴを見たのは、僕が通っていた和光大学の学祭。それはジャックス以来の衝撃でしたね。ドラムの岡井大二は中学の後輩なんだけど、あんなにきれいなシンバルの音を出す奴を見たのは初めてだった。もちろん森園勝敏もすごかったし、ベースの中村真一くんも本当にすごくて、それから一気に仲良くなった。僕らはMythTouchをやってて、大学の広い練習室を一部屋占拠してたんですよ。たぶん手続きの間違いだと思うんだけど、僕が「練習用に部屋を借りたいんですけど」って言って、「はいどうぞ」ってカギをもらって、そのまんま(笑)。そこを四人囃子に貸してあげて、時々リハーサルを見に行ったりしていたんですけど、ちょうど「泳ぐなネッシー」を作りかけている時で、あの複雑な曲をその場でみんながアイディアを出しながらどんどん出来上がっていくのを見て「すごいなー」と思ってた。たぶん四人囃子のレコード・デビュー前だったと思います。それから『一触即発』が出たんで、買って聴いて、「あれれ?」と思ったんですけどね。

──おや。なぜですか?


▲「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」
佐久間:普段のライヴのほうが全然すごいのに、と思ったから。ただ、今聴き返すとあのアルバムはすごいと思いますけどね。メンバーはたぶん19歳、20歳ぐらいで、そんな年の子供があれをやったというのは本当にすごいと思う。だから四人囃子には到底かなわないと思ってたんだけど、そうこうするうちにMythTouchが終わって、まず茂木くんが四人囃子に入った。そしたらベースの中村くんも就職でバンドをやめることになって、僕に声がかかったんです。「荻窪ロフトでライヴがあるから来てくれ」と言われ、1~2回リハーサルをして、ライヴをして。そのライヴは企画もので、四人囃子の曲ではなく、当時流行ってたフュージョンぽい曲のカヴァーだったんですよ。それが終わって、アンコールで突然新曲の「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」をやることになったんだけど、僕は聴いたことがない。「キーは何?」って坂下に聞いたら「E」ってひとこと言われて、始まったら変拍子で、しかも歌のキーがA(笑)。まったくわからないままにやって、「なんて奴らだ」と思いましたね(笑)。で、その曲をシングルにするからレコーディングにつきあってくれと言われて、そのあともライヴをやったんですけど、僕はずっとサポートのつもりだったんです。後楽園球場でやった「ワールド・ロック・フェス」の時に面白い話があって、楽屋口に行って「四人囃子の佐久間です」って言ったら、受付のお兄ちゃんが「名前が入ってません」と。まだ中村真一になってたんですね。「じゃあ入れないんですか?」「名前がないと無理です」「わかりました」と。内心「やったー」ですよ。ライヴしなくて済むぞって(笑)。それで帰って行こうとしたら、マネージャーが追いかけてきて「佐久間! 怒るな!」って。全然怒ってない。楽しく帰ろうとしていたのに(笑)。

──「サポートメンバー」ならではの気楽な感じがします(笑)。


▲『ゴールデン・ピクニックス』
佐久間:その後もずっとサポートだと思ってたんだけど、ソニーから出す『ゴールデン・ピクニックス』の制作に入って…これが恐ろしく時間がかかってものすごく大変だったんだけど、レコーディングが終わった直後かな。ひょんなことで僕がパリに行く機会があって、戻ってきて、雑誌の取材か何かで井の頭公園に行った時に、森園がいなかった。「どうしたの?」って聞いたら「いや、実は…」ということで、森園が脱退するという話をそこで初めて聞いたんだけど、同時に、初めて僕がメンバーだということを知らされた(笑)。だから『ゴールデン・ピクニックス』はまったくメンバーだという意識がなく作ってます。

──四人囃子はその後、メンバー・チェンジをしながら79年まで活動を続けることになります。『ゴールデン・ピクニックス』のあとには、アルバムを3枚作っていますね。

佐久間:『PRINTED JELLY』『包(bao)』『NEO-N』ですね。四人囃子はプログレと言われていたけど、自分たちは遊びの感覚でいろんなことをやってました。


▲『PRINTED JELLY』『包(bao)』『NEO-N』
●「四人囃子は実験だった。常に新しいものを試していました」●

──一番思い入れのある作品はどれですか?


▲『NEO-N』
佐久間:自分として一番気合が入っていたのは『NEO-N』です。あれは唯一のコンセプト・アルバムで、これで四人囃子はおしまいということを決めて作りました。もうすでにプラスチックスを始めていたので、プラスチックスの島武実と一緒にコンセプトを考えて、近未来を舞台にしたSFっぽいものですね。特にストーリーがあるわけではないんだけど、タイトルが全部「N」で始まる一貫したものだった。あのアルバムの曲はほとんど一晩で書きました。「NOCTO-VISION FOR YOU」を最初に作って、最後の1曲だけスタジオに入ってから作った気がする。

──その時点で、やりたいことはやりきったと。

佐久間:あの時の四人囃子でできることはあんな感じだったな、という気はします。四人囃子は、森園がそのままいたならば、また全然違う展開になったと思うんだけど、佐藤ミツルを入れたところで、実際には別のバンドになったんですね。昔を引きずらざるをえない部分はあるけど、違うバンドであることは間違いない。佐藤ミツルのいる四人囃子としては、『NEO-N』までかなと思ってました。

──佐久間さんにとって70年代の四人囃子とは、どんなバンドでしたか?


▲四人囃子
佐久間:そのあと自分がプロデューサーになる、元になる知識をたくさん得られたのはラッキーだったと思います。音楽的に何をやっても許されるバンドだったんで、スタジオでの作業も実験的なことが多くて、何でも躊躇なく試せたんですよ。あそこまでの経験は、なかなかできないと思いますよ。僕がもともと技術的な部分に興味があったせいもあるし、時代的にもちょうどシンセサイザーが出てきて、レコーディングの方法も進化して、新しいやり方を開発していける時期だったので。シンセサイザーといえば、『ゴールデン・ピクニックス』をレコーディングしている時に、スタジオに誰かが持ってきたレコードを爆音で聴くことが流行ってたんですよ、作業に入る前に。その時誰かがクラフトワークを持って来て、初めて『アウトバーン』を聴いた。だいたいみんなアメリカのロックが好きだったんだけど、僕はただ一人そこでクラフトワークにハマって、すごい衝撃でしたね。あれもラッキーな経験だったと思います。四人囃子のおかげでクラフトワークに出会ったと言ってもいい。そこで聴いた音が、のちに大きな意味を持ってくるんですけどね。

──当時は70年代半ば~後半ですから、アメリカのロックの本流もありつつ、電子楽器を使うグループが出てきたり、それからパンクが出てきたり…。

佐久間:そう、パンクの影響を受けたのも、四人囃子の中ではたぶん僕だけだと思う。ほかのメンバーは、音楽的に全然僕とは違ったんで。デヴィッド・ボウイがやってこともすごく好きだったし、僕の中ではデヴィッド・ボウイからパンクに至る流れの中で、いろいろ知るための実験を四人囃子の中でできたかなと思ってます。機材もわりと融通が効く環境だったんで、アンプを借りたりシンセサイザーを借りたり、常に新しいものを試してました。

連載第三回は、【PART3「ニューウェーヴの時代~プラスチックスで海外へ」】を後日お届けする。1978年、26歳の佐久間正英は、四人囃子のメンバーとして活動を続けながら、先鋭的なパンクバンドとして頭角を現してきた若きバンド、プラスチックスへと加入。パンク+テクノという独特な音楽性の構築を一手に引き受け、ミュージシャンでありながらプロデューサーという独特な地位を築き上げる。イギリス、アメリカ、日本を股にかけたワールドワイドな活動の中で、トーキング・ヘッズ、B-52’s、ラモーンズ、エリック・クラプトンなどとの刺激的な出会いを糧に、プラスチックス解散の81年まできわめて濃密な日々が続いてゆく──。

◆佐久間正英 オフィシャルサイト
◆【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~ミュージシャン編 Vol.1】音楽へのめざめ
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