【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~ミュージシャン編 Vol.2】四人囃子に参加、そしてプロ・デビューへ
【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~ミュージシャン編 Vol.2】四人囃子に参加、そしてプロ・デビューへ
1975年、23歳の佐久間正英は、日本のプログレ・バンドの最高峰の地位をすでに確立していた四人囃子に加入する。プログレからフュージョンへという時代の流れの中でいくつもの傑作を生み出したが、自身はクラフトワークなどの電子音楽、セックス・ピストルズらのパンクに大きな刺激を受け、その音楽思想はさらに先鋭化。やがて四人囃子は解体し、彼は世界的なニューウェーヴの波の真っ只中へと飛び込んでゆく──。
構成・文●宮本英夫
●「四人囃子は、ずっとサポートだと思っていた」●
──いよいよ四人囃子の話になりますが、佐久間さんが加入したのはどんな経緯だったんですか。
▲『一触即発』
──おや。なぜですか?
▲「空飛ぶ円盤に弟が乗ったよ」
──「サポートメンバー」ならではの気楽な感じがします(笑)。
▲『ゴールデン・ピクニックス』
──四人囃子はその後、メンバー・チェンジをしながら79年まで活動を続けることになります。『ゴールデン・ピクニックス』のあとには、アルバムを3枚作っていますね。
佐久間:『PRINTED JELLY』『包(bao)』『NEO-N』ですね。四人囃子はプログレと言われていたけど、自分たちは遊びの感覚でいろんなことをやってました。
▲『PRINTED JELLY』『包(bao)』『NEO-N』
──一番思い入れのある作品はどれですか?
▲『NEO-N』
──その時点で、やりたいことはやりきったと。
佐久間:あの時の四人囃子でできることはあんな感じだったな、という気はします。四人囃子は、森園がそのままいたならば、また全然違う展開になったと思うんだけど、佐藤ミツルを入れたところで、実際には別のバンドになったんですね。昔を引きずらざるをえない部分はあるけど、違うバンドであることは間違いない。佐藤ミツルのいる四人囃子としては、『NEO-N』までかなと思ってました。
──佐久間さんにとって70年代の四人囃子とは、どんなバンドでしたか?
▲四人囃子
──当時は70年代半ば~後半ですから、アメリカのロックの本流もありつつ、電子楽器を使うグループが出てきたり、それからパンクが出てきたり…。
佐久間:そう、パンクの影響を受けたのも、四人囃子の中ではたぶん僕だけだと思う。ほかのメンバーは、音楽的に全然僕とは違ったんで。デヴィッド・ボウイがやってこともすごく好きだったし、僕の中ではデヴィッド・ボウイからパンクに至る流れの中で、いろいろ知るための実験を四人囃子の中でできたかなと思ってます。機材もわりと融通が効く環境だったんで、アンプを借りたりシンセサイザーを借りたり、常に新しいものを試してました。
連載第三回は、【PART3「ニューウェーヴの時代~プラスチックスで海外へ」】を後日お届けする。1978年、26歳の佐久間正英は、四人囃子のメンバーとして活動を続けながら、先鋭的なパンクバンドとして頭角を現してきた若きバンド、プラスチックスへと加入。パンク+テクノという独特な音楽性の構築を一手に引き受け、ミュージシャンでありながらプロデューサーという独特な地位を築き上げる。イギリス、アメリカ、日本を股にかけたワールドワイドな活動の中で、トーキング・ヘッズ、B-52’s、ラモーンズ、エリック・クラプトンなどとの刺激的な出会いを糧に、プラスチックス解散の81年まできわめて濃密な日々が続いてゆく──。
◆佐久間正英 オフィシャルサイト
◆【月刊BARKS 佐久間正英 前進し続ける音楽家の軌跡~ミュージシャン編 Vol.1】音楽へのめざめ
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