Mystikalのことを目立たないヤツだと責めるものはいないだろう。このザラザラした声のラッパーはあまりにもハードにマイクを振り回すので、他ならぬソウルのゴッドファーザー、James Brownになぞらえられるほどなのだ。 だが、Soul Trainのサウンドステージを降りたばかりのMystikalは、いつも以上に元気いっぱい(それが可能であるならば)だったのである。取り巻きが背後でおしゃべりしている中、彼は番組の収録中にマイクを落としたことについて笑いながら、「俺にはやるべきことがある! 行くべき場所もある!」と芝居気たっぷりに叫んだのだった。 もちろんそのとおりだ。最近どうして彼がこんなにも上機嫌なのかは理解できる。No Limit Recordsの戦士としてMaster Pとともに2枚のアルバムをリリースしたのち、古巣のJive Recordsに戻って発表した『Let's Get Ready』がチャートで初登場No.1を達成したばかりなのだ。 だがニューオリンズ出身の生意気なMCは、Madonnaや98 Degreesといった重量級アーティストをノックアウトしてトップの地位についたにもかかわらず、驚くべき告白をしてみせた。「このポジションは前からずっと予約済みだったのさ。常にトップを狙える位置にいたけど、自分にはそれでも充分だった。でも完全に満足していたわけじゃない。別に切望していたというほどでもないけど、結果は出たってことだね」 「チャートでのポジションには常に注意を払っていて、上のほうを見上げては“あんなところまで行く必要はないけど、本当に上位を狙いたいんだろうか? 自分にはふさわしくないポジションなんじゃないだろうか”ってつぶやいていたものさ」 Mystikalは成功に無縁というわけではなかった。彼はNo Limitでついに成功をつかんだし、同レーベルでの他のアルバムもすべてラップチャートでトップに輝いている。だが、今や彼は別のレべルでの成功を手にしており、それを充分に享受しているのだ。 「となりの芝生は青いもんだよ」と彼は大声で笑いながら叫んだ。「木に頭をぶつけて今死んでしまってもいいと思えるくらいだよ。神様は見ているのさ、子供が成功する姿をね!」 「だけど皮肉なのは、最初は全然やりたくなかった曲から火がついたってことだよ」それは、やはりチャートのトップに踊り出たファーストシングル「Shake Ya Ass」のことだろう。Neptune(映画『Any Given Sunday』のサウンドトラックでもMystikalと仕事をした)のプロデュースによるその曲について、当初Mystikalは首を縦に振らなかったという。 「俺らしい曲じゃなかった」とMystikal。「“Ready To Rumble”みたいなもっとハードなヤツで飛び出したかったんだ。でもけっこうイカシた曲ではあったから、大勢のリスナーをつかめると思ったのさ。ファンのための曲を作ることもアーティストとしての責任なんだよ。いつも自分の感情や信念ばかりにこだわっているわけにもいかないだろう」 この哲学は“自分らしいやり方でやれ”という信条でMaster Pが築いた帝国、No Limitでの経験から導かれたものだ。それにMystikalは今でも同レーベルとの絆を絶ち切ったわけではない。No LimitのベテランスタッフであるMedicine Menが『Let's Get Ready』でのプロダクションの大半を担当したのである。 「以前にうまくいった公式を使ったんだ。変えるつもりは全然なかったよ。今でも通用するものだからね」とMystikalは説明する。「それに少し追加するだけでよかったのさ。ちょっとしたスパイスをね」 それではなぜMaster Pと袂を分かったのだろう? Mystikalによれば契約が終了していたことは確かだが、No Limitを離れるのは彼の考えではなかったという。「あれはPが俺のためにしてくれた決断だった。俺のキャリアはJiveに戻ったほうがうまくいくところに来ていた、というのが彼の感触だったんだろう。もうNo Limitとは契約が終わっていることさえ気付いていなかったよ」 そうしてMystikalは、自身のキャリアをスタートさせたレーベルへと復帰することになった。だが彼のJiveでのデビュー作『The Mind Of Mystikal』はゴールドにさえ達しておらず、No Limitに移籍した後で「仕事をちゃんとやってくれない」と声高に批判していたのである。過去の経緯が繰り返される心配はなかったのだろうか? 「Pと仕事をした後だったから、まるで“いったい君たちにどんな違ったことができるんだ?”って感じだったね」とMystikal。「だけど実際のところ、Jiveは前よりずっと士気の高い会社だってわかったよ。Pのところよりも大きくて、賢くて、優れていると思っている会社はたくさんあったけど、Pは連中よりも売っていたし、知性や戦略の面でも上手だった」 「その点に関していえば、JiveはPに対抗できるだけの何かを持っていたのさ」と彼は付け加えた。「そのおかげで俺は連戦連勝の状況に立てたんだよ」 もちろんJiveはBackstreet Boysや'N Syncといった、センセーショナルなティーンポップを頂点へ送り込む力量に関しては証明済みである。さらにMystikalは、こうした若いレーベルメイトとのコラボレーションの可能性を完全に排除しているわけではない。 「こんなふうに考えてくれ。俺はどんなことでもたいていはこなせるタイプのアーティストだ。俺がやりたいと決断すれば、趣味良くやってみせるだろう」とMystikalは自慢気に話す。また噂とは違って、再びMaster Pと仕事をすることもありえると付け加えている。 「Master PのアルバムでMystikalを聞くことができるだろう。そして俺が彼を必要とすれば、Mystikalの作品でMaster Pを聞くことができるだろう」と彼は力強く主張した。「俺達2人は何か他のものになるしかないくらい、優れた作品をたくさん作ってしまった。思えば遠くまできたものさ」 クレセントシティに育ち、暇さえあればライミングをやっていた、かつてのMichel Tylerにも同じことが言えるだろう。彼を現在の成功に至る道へと向かわせたのが、湾岸戦争時代の陸軍における人生を変えてしまうような経験だったとは驚きである。 Mystikalはペットのさそりを集めた思い出以上のものを中東から持ち帰ったようだ。規律違反で捕まったり、防御柵で任務に就く間に彼はついに「じっと座り込んですべての余ったエネルギーをライムに注ぎ込むチャンスを得た」のである。 その「Not That N-gga」という曲を、「書き留めて、リハーサルして、戦場を離れたらすぐにお披露目できる」ようにした。そして湾岸戦争での8カ月の兵役を終えるとMystikalは故郷に戻り、その歌を自分の切り札にするためのプランを練り始めた。 MystikalはDJ Preciseに入門し、彼のおかげでニューオリーンズでRun-DMCのオープニングを務めることになった。PreciseはBig Boy Recordsというインディーズのレーベルで仕事をしており、「連中はレーベルを次のレべルへと引き上げてくれるアーティストを探していたんだ。それで俺はスタジオに行って、あたりを見回した。帰るつもりなんてなかったね」と彼は笑いながら言う。 「Not That N-gga」は'94年のBig Boyからのデビュー作『The Mind Of Mystikal』に収録され、後にはJiveからもリイシューされている。だがMystikalのキャリアをたち上げてくれたこの曲には、苦い思い出が込められている。そのトラックには彼の姉妹、Michelleによるゲストヴォーカルがフィーチャーされているが、彼女は後にボーイフレンド(これも奇妙な偶然だが、彼はNeville Brothersの一員の孫である)によって殺害されてしまったのだ。 Master Pによれば彼自身も兄弟のKevinが殺されるという体験があり、そうした悲劇を共有していることがMystikalとの絆を強めてくれたという。MystikalはもはやNo Limitには所属していないにもかかわらず、今でもMaster Pと定期的に話をしているそうだ。彼自身だけでなく他のアーティストもレーベルを離れてしまったが、Mystikalはかつてのボスに対してあまり落ち込まないようにアドバイスしているという。 「実際のところ数日前にもPとしたけど、彼の口から“またやり直せるくらい調子がいい”という言葉が聞けたよ」とMystikal。「最後に彼がそんなふうに話すのを聞いてから1年後にはForbesに登場していたっけ!」 彼自身のことに関しては、ポップス界の頂点から眺める景色を気に入っており、しばらくは降りたくない気分だという。「たとえ困難な時期が来たとしても」、急に真顔になったMystikalは言った。「きっとキープして見せるさ」 |