――まずは、前作『Keep On Fighting』を2003年に発表して以降、今回の新作アルバム『Comeon Stand up!』を完成させるに至る経緯からお伺いします。やはり2004年の7万5千人を動員した鹿児島・桜島でのオールナイト・ライヴが起点になっているように思うんですが…。
長渕:そうね、桜島(ライヴ)は正直言って、音楽の世界だけじゃなく、企業も経済も社会も含めて、いろんな分野の頑張っている多くの人たち、頑張ろうとしている人たちに、大きなそして強烈な衝撃を与えたなと思う。だから、やって良かったなって思う。正解だったとも思う。
――確かに、長渕さんの音楽活動においてはもちろんですが、音楽シーンにおいても、もっといえば一般社会においても、大きなアクセントになった出来事だった気がします。
長渕:桜島(ライヴ)をやった一つの大きな衝動というのは、両親や故郷に対する感謝の気持ち…。もうその時は親父の具合も悪くなって、かなり弱ってきていましたから、間もなく(親父も死ぬん)だなってことも自分でも感じていた。で、母ちゃんは既に6年前に亡くなってる、そんなことをぼんやり考えたら、無性に愛しくなってね、鹿児島が。自分の故郷が。
なんて言うんだろう、故郷のいろんな風景や、今はもう死んでしまったけど、父ちゃんや母ちゃんがいて、姉ちゃんもいて、となりの雑貨屋のおじさんなんかもいたりして、そんな中で僕はあの地で生まれたんだなあ、育てられたんだなあってことに対して、感謝したいって気持ちがものすごく出てきた。
20代の時はさ、こんなクソ田舎、冗談じゃねえよっていって出てきたんだけど、故郷を切り捨てて一生懸命に頑張って東京に根をおろし、しかも母親が亡くなり、父親も居なくなりそうな状況に直面した時に、故郷というものがたまらなく愛しくなって、いつしか感謝の気持ちに変わり、しまいには恩返しをしたいって気持ちが湧いてきたんだ。
俺みたいな男にもそんな気持ちがあったのかって思ったけどもさ。もう何のブレもなく、よしっ、鹿児島でだれもやらなかったコンサートをやって、恩返しをしよう、と。そんな気持ちでやったのよ。それを周りがどう捉えたかはわからないけども、それなりに恩返しはできたんじゃないかって思ってる。
――以前、“桜島ライヴは死ぬ気で完全燃焼する、その先のことは終わってみないと何もわからない”と発言していました。実際、あのライヴをやり切ったことで掴んだもの、終えたことで見えてきたものはどんなことでしたか?
長渕:命の燃焼度というのはものすごくてね、想像をはるかに超えるものだった。だから、あのライヴを終えてからはしばらくは、何をするつもりもなかったんだけど、角川さんとのつき合いもあったし、YAMATOのツアーもやったし、いろんな話が舞い込んできたこともあって、休むに休めなかったんだよね。しばらくボーっとしたかったんだけど。
――あの伝説のライヴ以降ここまでの間に、今話に出た角川(春樹監督)さんとの映画『男たちの大和/YAMATO』を介したコラボレーションがあり、お父様の逝去、50歳の誕生日、鹿児島への旅…と、いろんな出来事がありましたが、今回の新作に向かうモチベーションとしていちばん大きかったのは何でしたでしょう?
長渕:やっぱり親父の死。その死んだ父ちゃんに対して、何か歌を書きたいなという気持ちがすごくあったんだと思うね。
どちらかというと俺は親父にもお袋にも優しくしてこなかったかなって思ってたんで、せめて親父には何かしてあげたかったんですよ。まあ父を葬れたということ自体、自分の親に対しての、育ててくれた感謝の気持ちでもあるんだけどね。しっかりと親父と手を握ってね、もういいよ、母ちゃんのところに行っていいよって言ったら、親父は息を引き取るんじゃなく、息を飲んで他界していった。
そこからだね、歌が書きたくなったのは。
そこでクソーっていう…、悲しみや怒りやいろんな感情が入り交じったものがものすごく込み上げてきた。親父と別れてから。それでいたたまれなくて、ある日、駒沢公園の路肩に車を止めて20分くらい泣きじゃくった。もう号泣。なんだろう、この気持ちはって思ってね。それが今度のアルバムへのひとつの発火点というか、歌が書きたいという大きな衝動になっていることは紛れもない事実だよ。父ちゃん先に行っててくれ、俺もそのうち行くから、って。本当にそう伝えて別れたから。
で、暫くは悶々としてたんだけど、日に日に強くなる、歌を書きたいという衝動に駆られて、鹿児島に旅立った。父ちゃんと母ちゃんが10代の頃から60歳くらいまでの、親父が警察官として定年退職するまでの、鹿児島での実人生を辿る旅をしようと思って。それで鹿児島のホテルの一室をアトリエにして、曲を書きためていった。1ヵ月半以上にわたって…。
取材・文●轡田 昇
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