ニュース・最新情報
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クイーン、アリス・クーパーら、オーストラリア森林火災の救援コンサートに出演
オーストラリアで発生した大規模な森林火災の救済を支援し、2月16日にシドニー、ANZスタジアムで開かれる慈善公演<FIRE FIGHT AUSTRALIA>にクイーン+アダム・ランバート、アリス・クーパーらが出演することが発表された。
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ケイティ・ペリー、プロアクティブの広告塔に
ケイティ・ペリーがニキビケア用品の顔になる。
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UKの偉大なソングライター・トップ10
UKの偉大なソングライターを選ぶ新しい一般投票で、ビートルズのジョン・レノンやポール・マッカートニーを抑え、テイク・ザットのゲイリー・バーロウが1位に選ばれた。
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週刊エンタメ情報・今週の1行ニュース(2008.8.16)
●04年に起きたジャネット・ジャクソンの「胸ポロリ事件」が、ついに辞書にまで登場することになった。
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デルタ・グッドレムの“教会”ライヴにご招待
10月11日にデビュー・アルバム『イノセント・アイズ』をリリースし、日本デビューを果たしたオーストラリアの歌姫、デルタ・グッドレム。
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オーストラリア最高の歌姫デルタ・グッドレムがデビュー
母国オーストラリア、そしてイギリスでも多くの人の心を感動に震わせたオーストラリア最高の歌姫、デルタ・グッドレム。
プロフィール・バイオグラフィ・リンク
1984年11月9日生まれ、シドニー郊外のグレンヘイヴン出身。幼い頃から歌うことが好きで、親戚や近所の人たちを招いてはオリヴィア・ニュートン・ジョン、マライア・キャリー、プリンス、シェールなどの楽曲を披露していた。7歳から本人の希望もあってドラマ・スクールに進学。8歳からピアノを習い始め、ヴォーカル・レッスンも開始。『才能があるかどうかは私にはわからなかったけど、やる気があるのだけはわかったわ。6~7歳で真剣にミュージシャンの道を進もうとしていたの。だから私たちはできるだけのことをしてあげようと思ったの』(デルタの母)『音楽をやりたい、って特に思った瞬間、っていうのはなくて、いつもやりたいと思っていたわ。実際に子供の私が“将来はシンガーになる!”って言っているビデオもあるのよ』(デルタ)
ドラマ・スクール経由でデルタのもとにはTV番組やコマーシャルのオーディションの話が舞い込み、オーディションを受ける日々が。その才能は早くから開花し、7歳からTVコマーシャル、 “Hey Dad!” ”A Country Practice” “Police Rescue”といったドラマに出演するなど、順調にショービズ界でキャリアを積んでいった。しかしデルタの夢は第一に歌だった。そのためTVで稼いだお金は、デモ制作に向けていた。『両親からは“せっかくのお金だから、車を買うかCD制作に使いなさい”って言われて、CD制作に使ったの。変わった子供よね。おかげで今でも車は持っていないのよ』(デルタ)
そしてデルタは12歳で早くも初めての曲を作り、翌年13歳のときに5曲入りデモCDを制作。友人の手を通してデモCDは地元オーストラリアのスーパースター、ジョン・ファーナムのマネージャーのもとに届き、マネージメント契約を果たす。そして15歳で現地オーストラリアのソニー・ミュージックと契約に結びついた。『グレン(マネージャー)がCDを受け取ったその日に電話をくれて、ミーティングをしたの。そのあと彼がソニー・ミュージック用にショーケースを開催してくれて、契約につながったの。』(デルタ)
16歳の時にシングル “I Don’t Care” をリリース。クリスティーナ・アギレラの「ジーニー・イン・ア・ボトル」で一躍有名となったオーストラリア出身のソングライター、スティーヴ・キップナーのポップな楽曲は、バラードを得意とするデルタの指向とはあわず、ヒットにはならなかった。『確かに失敗には終わったし、そのことに不満を持ったりもしたけど、(”I Don’t Care”をリリースしたのは)後悔していないわ。おかげで私は“ピアノの前でバラードを歌うことが好き”ってことを再確認できたし、それが(バラードで、デビュー曲の)「ボーン・トゥ・トライ」につながったんだもの』(デルタ)
“私はシンガー・ソングライターになりたい”ということを強く意識したデルタは、アルバムのソングライティングにあたり、自分のルーツに戻り、ピアノで楽曲作りをすることになった。『他の人がどう思うかじゃなくて、私は私の音楽を作るべきだと思ったの。8歳の頃からピアノを弾いて曲を作って、デモCDの5曲も全部バラードだった。それが私のルーツなんだから、そういう曲を作るのが良いって気づいたの』(デルタ)
自身のソングライティングに加え、元テイク・ザットのゲーリー・バーロウやエリオット・ケネディ(セリーヌ・ディ音などを手がける)などを加えて完成した、ピアノを中心に組み立てられた傑作アルバム『イノセント・アイズ』がこうして完成する。
しかしアルバム制作と並行して、2002年にはドラマ『ネイバーズ』にニナ・タッカー役として出演が決定。そのため昼間はドラマ撮影、夜はアルバムのレコーディングで、1日2時間しか寝られないこともざらだったとか。しかしデビュー前にして既にデルタはお茶の間に知られる存在となり、また番組の中でシングル「ボーン・トゥ・トライ」を披露することにもつながり、その美しい歌声はTVを通して世界中の人に届けられた。『でもね、いつも“歌うときの声が大きすぎる”って音響さんに怒られちゃうの』(デルタ)
確かな歌唱力、ポジティヴなメッセージ、壮大なバラード・・・新たなスター到来を告げたデビュー曲「ボーン・トゥ・トライ」は2002年11月にリリースされるや、オーストラリアのセールス・チャート1位に輝き、その後3ヶ月近くトップ5をキープする特大ヒットに。続くシングル「ロスト・ウィズアウト・ユー」も当然1位を獲得、満を持して2003年3月にリリースされたデビュー・アルバム『イノセント・アイズ』も1位と、オーストラリアの新たなスーパースターとしての道を歩み始めた。このアルバムは、海外からTrue North(テイク・ザットのゲイリー・バーロウを中心とするプロダクション・チーム)やリック・ウェイク(ジェニファー・ロペスやマライア・キャリーの作品でお馴染み)、地元からはデヴィッド・ニコラス(イン・エクセスやジョージをプロデュース)等々トップ・サウンドメーカーたちの協力の下に制作されたが、彼女自身も全面的に曲作りに関わり、ヴォーカルとソングライティング双方で高い評価を得た。
同年6月にリリースされたサード・シングル「イノセント・アイズ」もチャート1位になり、向かうところ敵無しのデルタを、大きな不幸が襲った。7月、デルタはホジキン病(リンパ組織を構成している細胞ががん化して起こる病気)と診断され、ニュースが公表されるや否や、衝撃が走った。
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『不幸中の幸いで、早い時期に病気が発覚しました。世の中には私よりもひどい症状に苦しむ人たちがたくさんいます。私は病気を治せばまた生きることができるから、今は何よりもまずこの病と闘って、良くなろうと思います。』(デルタ)
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明るく、強く病に立ち向かうデルタの姿勢は世界中のファンからの涙を誘った。
ARIA Music Awards 史上最多ノミネート!
病にも関わらず、デルタのパワーが衰えることはなかった。9月に発売された続く4作目のシングル「ノット・ミー、ノット・アイ」も1位となり、同月発表のオーストラリア版グラミー賞ともいえる、ARIA Music Awardではなんと史上最多8部門10ノミネート!しかも最高売り上げシングル部門ノミネート5曲のうち3曲をデルタの楽曲が占める、という新記録を樹立!その年の顔となったデルタだが、体調もあり、授賞式出演が危ぶまれていた。しかし医者の許しもあり、出演が決定、とのニュースにオーストラリア中が沸き立った。それはデルタ自身にとっても嬉しい出来事だった。『ARIAに出席できるなんて、私の長年の夢がかなったわ!ちょっと興奮気味で本当にうきうきしているんだけど、緊張もするわね。何よりもいろんなミュージシャンにあえるのが楽しみ!』
そして10月21日、授賞式。結果はなんとデルタが8部門中、史上最多の7部門を受賞!逃したのは最優秀アルバム部門のみ、という結果に!オーストラリアの新しいスターとしての存在を確固たるものにした(それまでの記録は1999年、ナタリー・インブルーリアの6部門受賞)。授賞式中、歌うことのできないデルタに代わり、元サベージ・ガーデンのダレン・ヘイズがデルタの「ロスト・ウィズアウト・ユー」をピアノ伴奏のみで熱唱。『それまですごく(泣かないように)頑張っていたんだけど、ダレンの歌を聴いたらもう限界だったわ。』
デルタの涙の授賞式は、なんとこのアウォード放送史上最高の視聴率、42.8%を叩き出した!
ドラマ・スクール経由でデルタのもとにはTV番組やコマーシャルのオーディションの話が舞い込み、オーディションを受ける日々が。その才能は早くから開花し、7歳からTVコマーシャル、 “Hey Dad!” ”A Country Practice” “Police Rescue”といったドラマに出演するなど、順調にショービズ界でキャリアを積んでいった。しかしデルタの夢は第一に歌だった。そのためTVで稼いだお金は、デモ制作に向けていた。『両親からは“せっかくのお金だから、車を買うかCD制作に使いなさい”って言われて、CD制作に使ったの。変わった子供よね。おかげで今でも車は持っていないのよ』(デルタ)
そしてデルタは12歳で早くも初めての曲を作り、翌年13歳のときに5曲入りデモCDを制作。友人の手を通してデモCDは地元オーストラリアのスーパースター、ジョン・ファーナムのマネージャーのもとに届き、マネージメント契約を果たす。そして15歳で現地オーストラリアのソニー・ミュージックと契約に結びついた。『グレン(マネージャー)がCDを受け取ったその日に電話をくれて、ミーティングをしたの。そのあと彼がソニー・ミュージック用にショーケースを開催してくれて、契約につながったの。』(デルタ)
16歳の時にシングル “I Don’t Care” をリリース。クリスティーナ・アギレラの「ジーニー・イン・ア・ボトル」で一躍有名となったオーストラリア出身のソングライター、スティーヴ・キップナーのポップな楽曲は、バラードを得意とするデルタの指向とはあわず、ヒットにはならなかった。『確かに失敗には終わったし、そのことに不満を持ったりもしたけど、(”I Don’t Care”をリリースしたのは)後悔していないわ。おかげで私は“ピアノの前でバラードを歌うことが好き”ってことを再確認できたし、それが(バラードで、デビュー曲の)「ボーン・トゥ・トライ」につながったんだもの』(デルタ)
“私はシンガー・ソングライターになりたい”ということを強く意識したデルタは、アルバムのソングライティングにあたり、自分のルーツに戻り、ピアノで楽曲作りをすることになった。『他の人がどう思うかじゃなくて、私は私の音楽を作るべきだと思ったの。8歳の頃からピアノを弾いて曲を作って、デモCDの5曲も全部バラードだった。それが私のルーツなんだから、そういう曲を作るのが良いって気づいたの』(デルタ)
自身のソングライティングに加え、元テイク・ザットのゲーリー・バーロウやエリオット・ケネディ(セリーヌ・ディ音などを手がける)などを加えて完成した、ピアノを中心に組み立てられた傑作アルバム『イノセント・アイズ』がこうして完成する。
しかしアルバム制作と並行して、2002年にはドラマ『ネイバーズ』にニナ・タッカー役として出演が決定。そのため昼間はドラマ撮影、夜はアルバムのレコーディングで、1日2時間しか寝られないこともざらだったとか。しかしデビュー前にして既にデルタはお茶の間に知られる存在となり、また番組の中でシングル「ボーン・トゥ・トライ」を披露することにもつながり、その美しい歌声はTVを通して世界中の人に届けられた。『でもね、いつも“歌うときの声が大きすぎる”って音響さんに怒られちゃうの』(デルタ)
確かな歌唱力、ポジティヴなメッセージ、壮大なバラード・・・新たなスター到来を告げたデビュー曲「ボーン・トゥ・トライ」は2002年11月にリリースされるや、オーストラリアのセールス・チャート1位に輝き、その後3ヶ月近くトップ5をキープする特大ヒットに。続くシングル「ロスト・ウィズアウト・ユー」も当然1位を獲得、満を持して2003年3月にリリースされたデビュー・アルバム『イノセント・アイズ』も1位と、オーストラリアの新たなスーパースターとしての道を歩み始めた。このアルバムは、海外からTrue North(テイク・ザットのゲイリー・バーロウを中心とするプロダクション・チーム)やリック・ウェイク(ジェニファー・ロペスやマライア・キャリーの作品でお馴染み)、地元からはデヴィッド・ニコラス(イン・エクセスやジョージをプロデュース)等々トップ・サウンドメーカーたちの協力の下に制作されたが、彼女自身も全面的に曲作りに関わり、ヴォーカルとソングライティング双方で高い評価を得た。
同年6月にリリースされたサード・シングル「イノセント・アイズ」もチャート1位になり、向かうところ敵無しのデルタを、大きな不幸が襲った。7月、デルタはホジキン病(リンパ組織を構成している細胞ががん化して起こる病気)と診断され、ニュースが公表されるや否や、衝撃が走った。
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『不幸中の幸いで、早い時期に病気が発覚しました。世の中には私よりもひどい症状に苦しむ人たちがたくさんいます。私は病気を治せばまた生きることができるから、今は何よりもまずこの病と闘って、良くなろうと思います。』(デルタ)
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明るく、強く病に立ち向かうデルタの姿勢は世界中のファンからの涙を誘った。
ARIA Music Awards 史上最多ノミネート!
病にも関わらず、デルタのパワーが衰えることはなかった。9月に発売された続く4作目のシングル「ノット・ミー、ノット・アイ」も1位となり、同月発表のオーストラリア版グラミー賞ともいえる、ARIA Music Awardではなんと史上最多8部門10ノミネート!しかも最高売り上げシングル部門ノミネート5曲のうち3曲をデルタの楽曲が占める、という新記録を樹立!その年の顔となったデルタだが、体調もあり、授賞式出演が危ぶまれていた。しかし医者の許しもあり、出演が決定、とのニュースにオーストラリア中が沸き立った。それはデルタ自身にとっても嬉しい出来事だった。『ARIAに出席できるなんて、私の長年の夢がかなったわ!ちょっと興奮気味で本当にうきうきしているんだけど、緊張もするわね。何よりもいろんなミュージシャンにあえるのが楽しみ!』
そして10月21日、授賞式。結果はなんとデルタが8部門中、史上最多の7部門を受賞!逃したのは最優秀アルバム部門のみ、という結果に!オーストラリアの新しいスターとしての存在を確固たるものにした(それまでの記録は1999年、ナタリー・インブルーリアの6部門受賞)。授賞式中、歌うことのできないデルタに代わり、元サベージ・ガーデンのダレン・ヘイズがデルタの「ロスト・ウィズアウト・ユー」をピアノ伴奏のみで熱唱。『それまですごく(泣かないように)頑張っていたんだけど、ダレンの歌を聴いたらもう限界だったわ。』
デルタの涙の授賞式は、なんとこのアウォード放送史上最高の視聴率、42.8%を叩き出した!
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