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イングリット・フジ子・ヘミング(Ingrid Fujiko Hemming)は日本人ピアニスト、大月投網子とロシア系スウェーデン人建築家、ジョスタ・ジョルジ・ヘミングを両親にベルリンで生まれる。5才の時、両親と帰国。父は開戦の気配の濃い日本から離れ、以来母の手ひとつで東京に育ち、6才から母の手ほどきでピアノを始める。小学校3年生で生でラジオに出演、天才少女と騒がれる。

その後、ロシア人ピアニスト、レオニード・クロイツアー氏に師事。青山学院高等部在学中の17才でコンサート・デビューを果たす。父が日本を去ったあともスウェーデン国籍のままだったが、スウェーデンに住んだことがないため18才でスウェーデン国籍を失う。

東京音楽学校(現・東京芸術大学)在学中には毎日コンクール入賞、文化放送音楽賞など多数受賞。同学校卒業から本格的な演奏活動に入り、渡辺暁雄指揮:日本フィルなど数多くの国内オーケストラと共演。たまたま来日中のサンソン・フランソワは日比谷でのフジ子のショパン、リストの演奏を聴き絶賛したという。

その後、ドイツへの留学を試みるもパスポートが取れず、無国籍のフジ子は避難民として30才でドイツ留学を果たす。ベルリン国立音楽学校を優秀な成績で卒業してからはヨーロッパに在住し、演奏家としてのキャリアを積む。ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥーラ・スコダに師事。この間、“リストとショパンを弾くために生まれてきたピアニスト”と称される。

20世紀最大の作曲家・指揮者の一人と言われるブルーノ・マデルナにウィーンでその才能を認められて、彼のソリストとして契約したことは、フジ子が最も誇りにしていることのひとつである。ちなみにこの契約に際しては、フジ子の演奏に感銘を受けたレナード・バーンスタインからの支持と援助があった。ヨーロッパ各地での演奏会、オーケストラとの共演の模様は日本をはじめオーストリア、ドイツ、スウェーデン等のテレビで放送された。

順調な人生を狂わせる不幸がフジ子を襲う。
リサイタル直前に風邪が原因で両耳が全く聞こえなくなり、その後の演奏会はすべてキャンセルを余儀なくされ、次第に音楽界から忘れ去られていった。2年間ほど全く聞こえなかった耳は、現在、左だけが40%回復している。

1995年、母親の死去を機に30年余りの外国生活に終止符を打ち、帰国。「もう人前で弾くことはない」と決意していたが、平凡なピアノ教師の生活に甘んじることができずに「人生をもう一度取り戻したい」という意欲がわく。1998年4月、再起の舞台に母校の芸大の旧ホール(上野奏楽堂)を選んだ。10月に続き、1999年4月に奏楽堂での公演を行っている。

1999年2月11日にはフジ子のピアニストとしての軌跡を描いたNHKのドキュメント番組、ETV特集「フジ子~あるピアニストの軌跡~」が放映され大反響を巻き起こした。「フジ子の演奏をもう一度聴きたい」という高校生から80才以上の1,000を超える視聴者の要望に応え、3月2日、4月9日と急きょ異例の再放送が決定した。その後、同年8月23日、2001年2月12日とこれまでに5回オン・エアされた。

1999年8月4日には4回目の奏楽堂でのリサイタル、8月25日にはデビューCD「奇蹟のカンパネラ」を発売。

「奇蹟のカンパネラ」は日本ゴールドディスク大賞 クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。その後、2000年4月に発売したライヴCD「永久(とわ)への響き」は18万枚、同年8月に発売した「憂愁のノクターン」は33万枚とクラシックとしては異例の大ヒットを記録した。

母校東京芸術大学の旧ホール、上野奏楽堂での4回の自主リサイタルを行った後、1999年10月15日、東京オペラシティで再起をかけた本格的リサイタルを行い見事大成功をおさめた。これを機にコンサート活動を始めるが、どの公演もチケットは発売と同時に完売。フジ子・ブームが一過性のものではないことを証明している。

※以上、オフィシャルより

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