【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話055「生成AI時代、ミュージシャンは不要?音楽家はどうなる?」

2025.12.27 11:20

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2025年もあとちょっと。2025年は音楽生成AI技術が飛躍を遂げた。今や生成AIをちょろっと触るだけで、僕でも私でも誰でも音楽を生み出せる。旋律・和声・リズム・音色・構成…そのすべてが破綻のない一定以上の完成度で、あっという間に。しかも無料で。そしてそれはすぐさま「ミュージシャンは不要?」「音楽家は何をすべきか」という問いを生んでしまった。

皆さんはどう思うだろうか。

見逃してはいけないポイントは、「音楽を作れること」と「音楽をエンターテイメントとして成立させること」は同義ではないという点だ。生成AIは、膨大な過去の音楽の統計的集合から最適解に近い音を高速に構築する。もちろんそこには魅力的な技巧も整合性もあるけれど、「なぜその音が、今、この場所で鳴るのか」という必然性を内包しているわけではない。

ミュージシャンとは、まさにその必然性を担う存在であろうというのが、私の見解だ。

ポピュラー・ミュージックは、音そのものだけで完結するエンターテイメントではない。作り手の「身体」「時間」「迷い」「失敗」「選択の痕跡」「覚悟」…生き様と美意識の重なり合いが、共感の熱量を生む。ライブであれ音源であれ「誰が、どんな思想で鳴らしている音なのか」という世界観が、オーディエンスの体験の質を大きく変えてしまう。ライブのMCひとつで風向きが一気に変わるのもそれだ。

そもそもアーティストと呼ばれる人たちは、必ずしも演奏技術や作曲能力の高さだけで評価を測られるものではない。むしろより重要になるのは「何を選び、何を捨てるか」という判断の精度と「それをどう表現するか」というアティテュードだ。急速に進化を遂げる生成音楽の海の中で、どの音を自分の言葉としてチョイスするのか。AIが提示した選択肢に対して違和感と共感を示し、精査の中から個人の美意識・倫理観・時代性を表出させる。振り返ってみれば、1980年代、ドラムを叩けなくても高品質なドラムサウンドを自在に手にすることができるようになった。ベースが弾けなくとも極上なグルーブを生み出すこともできるようになった。ミュージシャンはテクノロジーの恩恵を最大限に享受しながら、技術革新の上で新たな音楽を表現してきたという事実がある。アーティストにとってAIはただのテクノロジーにすぎない。

生成AIの進化は「音楽制作の民主化」を爆速で実現させたが、それは「作れること」自体の価値を相対化させたことを意味する。おそらくミュージシャンという存在は「音を生む人」から「意味を立ち上げる人」へと役割を移していくのだろう。音楽が溢れる時代において、何を鳴らさないかを決めること。沈黙や余白を含めて自分の表現として提示する。その行為の切磋琢磨が、これからのエンターテイメントにおけるミュージシャンの核心になっていく。

そしてミュージシャンに不可欠な素養は、音楽を通じて他者と関係を結ぶ能力だ。ライブ空間で起こる一回性、観客との緊張関係、沈黙の扱い方。そして言葉による補助線、作品の背景を語る行為。音楽家は、音だけで完結しないコミュニケーションを設計する存在だ。エンターテイナーというより、場をつくる人間に近い。演奏技術や作曲能力を礎にしながら、「世界をどう見ているか」「自分はどこに立っているのか」を言語化し、音楽に意味を与えることがアーティストの本質となる。

生成AIはミュージシャンを再定義させた。リスナーは「音楽を受け取る側」として快楽や感動を享受する。ミュージシャンは「音楽を引き受けプロデュースする側」として、その結果に責任を持つ。一般リスナーとミュージシャンとの決定的な差は、技術の有無ではなく姿勢と覚悟の違いだ。

「音楽制作」は誰にでも開かれたけれど、「アーティストであること」は依然として誰にでも開かれているわけではないと、私は思う。

文◎烏丸哲也(BARKS)

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