【インタビュー】現役大学生 津軽三味線奏者・中村滉己、「音で人の心を動かしたい」
6月2日、東京・Hakuju Hallで行われた中村滉己の津軽三味線リサイタル<桜梅桃季>に行ってきた。
日本の伝統文化や和のものが好きではあるが特に津軽三味線に詳しいわけではない……という筆者だが、つい行ってみたくなったのは、彼の公演なら楽しめそうと思ったからだ。
◆撮り下ろし写真
いや、もっと正直にいうと、コロムビアからデビューするというニュースが届いたときに、そのルックスが目を引いて彼のことが気になったからだ。経歴を調べてみると、大伯父が津軽民謡の名人、母は民謡民舞全国大会で内閣総理大臣賞受賞、本人も幼少期から津軽三味線を習い14歳で津軽三味線の大会で史上最年少日本一の快挙を成し遂げる……という津軽三味線・民謡界のサラブレットだった。いまどきの大学生らしいルックスで、この経歴と実力。YouTubeやSNSでのキャラクターを見ていても非常にとっつきやすく、一気に彼のことが気になってしまった。
とはいえ津軽三味線のコンサートって? お作法は? 服装は? どんなふうに楽しめばいい? そんな不安も抱えつつ見たコンサートは、津軽三味線に詳しくなくても圧倒される演奏力、中村滉己自身によるわかりやすい解説、飽きさせない工夫が凝らされた内容と、非常に楽しめるものだった。
「津軽三味線ってこんなにかっこいいんだ」「津軽三味線のコンサートって普通に楽しめるんだ」と驚いた筆者は、その場で取材を申し込み。11月に東京・草月ホールにて開催される<津軽三味線・リサイタル「風華秋色」>にぜひ多くの人に足を運んで欲しいと思い、8月某日、中村滉己へのインタビューを敢行した。津軽三味線のこと、民謡のこと、彼自身のことを素人目線ながら根掘り葉掘り聞いた本稿が、新たに「中村滉己」に興味を持つ人を生むきっかけになってくれたら嬉しい。
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■僕はこのスタイルで貫こうかなと思ってます
■ちゃんと伝統も継承しながら
──BARKS初登場になりますので、まずは自己紹介をお願いします。
中村滉己:愛知県名古屋市生まれで、 2003年生まれ、今年ちょうど20歳になる年です。2022年の4月に、大学の進学のため上京してきまして、 今は関東を中心に、全国各地で演奏活動をさせていただいています。津軽三味線だけじゃなくて、今は歌の方にも積極的に取り組んでいまして、 三味線と歌の融合した、自分ならではの分野というか、ジャンルを確立できるように頑張っているところです。
──もともと愛知にいた時点で、津軽三味線の腕前はお墨付きだったわけですよね。デビューするために上京したわけではないんですか?
中村滉己:いや、そういうわけではないんですよ。もともと1人暮らししたいというのもあったし、上京してちょっとひとつレベルが上の段階のところで戦っていきたいなってのはあったんですけど。でも、こっちに来てなかったらこういうお話(デビュー)もいただけてなかったかもしれないんで、そこはご縁かなと思っています。
──中村さんは、名門の民謡一家のご出身で、1歳で初舞台。2歳から三味線に触れ、小学生でコンクールの賞を総なめ。14歳で史上最年少 日本一の栄養を獲得するという立派な経歴をお持ちです。こんな才能に恵まれているなら、もはやデビューせずとも津軽三味線の大御所になるというルートが見えていると思うんですけど。(参考:https://www.kokinakamura.jp/profile
)
中村滉己:そういうのも考えなくはないんですけど、やっぱり新しいフィールドに飛び出していきたいなっていう気持ちが勝ちましたね。うちの祖父が家元をやってるんですけど、2代目を継げとかも一切言わなかったですし、むしろ自分で自分の好きな音楽やりなさい、その方が今後絶対いいからと言ってくれて。三味線って結構、狭い分野って言えば狭い分野なんですよ。 なのでそこにいるよりも、自分でいろんな分野に挑戦していった方がいいと思うよ、みたいな感じでみんなが後押ししてくれてたので、いまこうして自由にやらせてもらっています。
──お祖父様のようなルートが、三味線界でいう、目指すべき王道のルートになるんでしょうか。
中村滉己:昭和の頃からそういうルートが多いですね。師匠のもとについて、その道で芸を極めていく。だから、音楽というよりかは、どっちかっていうと芸なんですよ。僕らの中でも“芸道何周年”とかって言い方が、主流ですし。
──でも中村さんは、そっちじゃない方に。
中村滉己:ま、レールと言えばレールだったので、 若いうちにちょっと道をそれて、いろんなところにチャレンジしたいなと思っていましたね。
──とはいえ、全く別の楽器をやるではなく、津軽三味線という楽器を使っているということは、そもそも津軽三味線がお好きということですよね?
中村滉己:そうですね。とはいえ好きになったきっかけとかは、正直覚えていないというか、なくて。生まれたときから身近にあって、自分も勝手に弾き始めていたので(笑)。
──逆に、民謡や津軽三味線に反発心が生まれるようなことはなかったんでしょうか。
中村滉己:いや、それがなかったんですよね。嫌だなと思うことも、プレッシャーも感じなかったですし。 反発心もなく、むしろやりたいっていう意欲が高かったんで。家族から強制されたこともないし、三味線やれって言われたこともないし。「大会とか出ると決めたなら頑張りなさい」、それくらいですね。僕のコンサートも、「もし行けたらチケット買っとくわ〜」くらいのノリです(笑)。
──14歳の頃に、史上最年少で日本一を取られているわけじゃないですか。その頃までは、いまのように「いろんなことにチャレンジしたい」というスタイルではなく、三味線という芸を極めることに主軸を置いていたのですか?
中村滉己:あぁ、その気持ちはいまもずっと変わってなくて。いろんなことをやりたいとは思っていますけど、三味線を極めたい思いはずっとありますよ。日本一取ったときも、絶対最年少で取るっていう目標があったので。
──どれくらい練習していたんですか?
中村滉己:6歳とか7歳、小学校のときは1日7〜8時間練習して、14歳ごろからは30分〜1時間くらいですかね。三味線って、結構スポーツと似ていて。激しい運動なので怪我することもあるくらいなんです。だから、がむしゃらに弾いて練習するのではなく、自分の体と相談して質の高い練習をする感じですね。
──スポーツと同じというイメージはなかったです。
中村滉己:バチって結構重いんですよ。津軽三味線では、これで思いっきり叩くんです。太鼓みたいに腕から叩くわけじゃなくて、肘から先の動きなので、結構高負荷な運動なんです。それこそ大御所の三味線奏者の方でも、歳をとってくると叩き方変えないと絶対手を壊す、絶対弾けなくなるとおっしゃっている方もいます。40代、50代を境目に、いままで何十年とやってきた打ち方を変えるっていう人もいるくらいです。右手の叩きっていうのは、いろんな大御所たちでも、弾けなくなるまで答えがわからなかったというくらいのものなんです。
──へぇ! そんなに大変なものだったんですね。私はまだまだ三味線に対しての耳が肥えていないのでお聞きしたいんですが、名手とされる方の演奏は何が違うんでしょう。
中村滉己:やはり大御所の方は基礎に忠実に弾いていますね。日本一をとるような人ほど、フレーズは簡単なんですよ。でも、フレーズとフレーズの間(ま)が全然違う。間が心地よいかどうか、は大きなポイントですね。あとは自分の感情をいかに音で表現しているかというところ。上手な人は、自己表現の一種として三味線を捉えている人が多い印象を受けます。
──どれだけ難しいフレーズを弾けるか、とか早く弾けるか、とかじゃないんですね。
中村滉己:歴代の日本一の方々は、その人の人生観を音で現しているなと思います。
──それって初心者でも聴いたらわかるものでしょうか。
中村滉己:きっと、わかります。上手い人は、能動的に弾いているんですよ。でも普通の人は、教えられたことを受動的に弾いている人が多いんで、それはもうフレーズの節々で伝わってくる。普通の人は手先だけが動いてるけど、上手い人は体でリズムとってるイメージなんですよ。それも多分能動的に弾いているから、体が勝手に動いているんです。
──いま実際に弾いていただいて、おっしゃる意味がわかりました。例えば、その揺れている感じの音も、楽譜に書いてあるのではなく、自分で「こう表現しよう」と思って演奏に加えるということなんでしょうか。
中村滉己:楽譜には書かれてないですね。「ユリ」という奏法でいわゆるビブラートのようなものなんですけど、弦を振動させます。これも、日本一クラスの方だと、能動的にやっているはずです。それが自然なので、無意識でやってるのかなっていうように感じます。
──クラシックだと楽譜があって、それを忠実に再現しつつ表現すると思いますが、三味線 はそれとは違って、楽譜に依らないということですか?
中村滉己:津軽三味線に関しては、基本的なんでもオッケーです。そもそもの成り立ちが、門付け芸だったんですよ。芸人がお米をもらうために、いろんなところに三味線を持っていって弾く、ということから始まっているので「お米をたくさんもらいたいからこういう人にはこういう風なものを聴かせようかな」「ここの家ちょっとお金持ちそうだから⻑く弾いて みようかな」とかいう即興性があるものなんです。
──あーなるほど。それがいまでいう、個々の奏者の個性にもつながっているのでしょうか。
中村滉己:そういうのもあるでしょうね。やけにこのフレーズで聴かせてくるなとか、即興的で、自由だからこそ、その人ならではの味が出ていると思います。100人いたら100の表現方法があるので。
──思ったよりもルールがないんですね。
中村滉己:基本的な奏法以外のルールはそんなにないです。もちろん「津軽じょんから節」だったらこういう構成だよ、という最低限のものはありますけど、そのフォーマットを自分でアレンジしていく感じですね。
──津軽三味線に限らず、伝統芸能に近い和楽器というものはルールが厳しいイメージがありました。中村さんに関していうと、髪を染めていらっしゃったりピアスをしていたりと、結構その辺も自由な感じなのかなという印象を受けるのですが。
中村滉己:まぁ、批判のようなことを言われることもあるんですけど、多分大丈夫なんじゃないですか(笑)。僕がこういうルックスにしているのも、例えば黒髪でオールバックで黒紋付きを着て弾くっていうのは当たり前で、それを果たして若い人が好んで聴くのか?と真剣に考えたことがあって。いや、キツいよな、それこそいまどきの服で弾いてた方がギャップとかがあって面白いんじゃないかなと感じたので。なんて言われてるかはちょっとわかんないですけど、僕はこのスタイルで貫こうかなとは思ってます。
──そこには津軽三味線の魅力を若い世代にも知ってもらいたい、というような思いがあるのでしょうか。
中村滉己:そうです。こういう洋装スタイルで弾き始めてから、ファンの年齢層がちょっとずつ下がり始めたんですよ。自由なルックスでやり始める前は70〜80代、若くて60代の方がほとんどだったんですけど、最近は大学生の子まで来てくれるようになって。間違ってなかったんじゃないかなと思いました。
──見に行かせていただいた<桜梅桃季>のときは1部は和装、2部は洋装で、あのギャップも素敵でした。
中村滉己:和装もしている理由は、ちゃんと伝統も継承してますよっていうのを知って欲しいからなんです。あのときの、2部のように洋装で現代曲を弾くようなことばかりやっていたら、多分邪道だと言う方も多いと思うんですよ。だけど、昔からの基礎的なことも踏まえました、そしてここからはちょっと崩しましょうか、という流れはどの公演でも意識してやっています。
──あぁ、それは大事なことですね。基礎ができてこその応用というか、説得力が違うはずです。
中村滉己:結局、大黒柱が1個ないとダメだよっていうのはいろんな先生に言われてきて。やるのは自由だし、それはもう中村くんなりの音楽だから素晴らしいことだけど、 1本芯がないと、こっちでミスったなって時に帰ってこれなくなるよって言われて。そういう意味でも、伝統は伝統で大事にしていきたいと思っています。
──ちょっと余談になるかもしれませんが、ほかの和楽器奏者に比べて、津軽三味線の奏者さんって、破天荒な方が多い気がするんです。
中村滉己:あぁ〜、多いです。なぜでしょう(笑)。でも、もともと津軽三味線弾きは“ボサマ(坊様)”と呼ばれていたように、紋付き芸をしなければいけないような階級の人のものだったというのも、もしかしたら関係しているのかもしれません。貴族階級が優雅にやっていた楽器ではないんですよ。
──だからこそ、何かに囚われることなく発展してきたとも言える。なんか、ロックなんですね。そもそも民謡の伴奏楽器ではありますが、洋楽器にも合うし、洋装で弾いてもかっこいいし、津軽三味線は汎用性が高いのかなって思ってきました。
中村滉己:高いと思いますよ。僕らは現代楽器ってよく言ってます。弦楽器でもありながら叩いて音を出すので、現代楽器的で。いろんなところで合うなと思っています。細棹とか長唄で使う三味線の方は、その世界から出ないことが多いんですが。津軽三味線は中をぶち抜いて機械を入れてエレキ三味線にしている人も多いし、改造すらできる。津軽三味線って、本当に自由です。
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