【インタビュー前編】アメノイロ。、日常を描くサウンドと迸るバンドヒストリー「寺見の作る音楽をもっといろんな人に届けたい」

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広島の尾道で結成されたロックバンドがアメノイロ。だ。失恋した悲しみと切なさでいっぱいの気持ちを、柔らかく包み込む寺見幸輝(Vo, G)の歌声と、安田拓生(B)と本多隆志(Dr)による温かみ溢れるバンドサウンドが魅力のひとつ。活動をさらに精力的に展開すべく2020年に上京を果たしたが、世の中はコロナ禍による緊急事態宣言が始まったタイミング。決まっていた大事なライブやイベント出演が全てなくなってしまった。

◆アメノイロ。画像

インタビュー前編では、バンド結成から音楽活動へ生き方をシフトしていった経緯や今のメンバーになったストーリーなどを話してもらった。終始、笑いに溢れるインタビューのなかから、メンバー3人の人柄や関係の良さもうかがえるはずだ。そういった面が音楽にフィードバックされるのは必至。アメノイロ。が5月17日に発表するミニアルバム『風吹く窓辺が見守る朝に』は、擦り切れそうな気持ちを優しく解きほぐしてくれる。

   ◆   ◆   ◆

■このバンド以外から声が掛かっても
■会社を辞めるようなことはしなかった


──アメノイロ。はメンバーが大学生だったころに結成したんですよね?

寺見:そうです。僕と(本多)隆志が、同じ大学の軽音サークルに所属していたんです。当時僕は、KANA-BOONのコピーバンドをやっていたんですけど、いつもお世話になっていたライブハウス尾道B×Bの店長から「オリジナル曲をやってみれば?」というアドバイスをいただいて。曲の作り方の右も左も分からないような状態だったんですけど、「はい…、なんか、やってみようと思います」という感じで(笑)。それが始まりです。

──KANA-BOONのコピーバンドの前には、バンド経験もあったんですか?

寺見:バンドをしっかり始めたのは、大学生になってからで。高校には軽音部がなかったので、本当にひとり家でギターを弾いているだけでした。だから、“大学では絶対に軽音部に入るぞ”ってKANA-BOONのコピーバンドから始めたんです。そのバンド名も、“カナボーン”だったんですよ(笑)。綴りはそのまんまKANA-BOONで、“カナボーン”と読ませる。ただ、オリジナル曲をやろうとしているバンドが、その名前はちょっとあかんな…と(笑)。


──だいぶ、あかんと思う(笑)。

寺見:そうだと思う(笑)。“どういうコンセプトで作るか”っていうことも考えずに、とりあえずオリジナル曲にバーッと取り組んでみたら、失恋の曲が多かったり、歌詞の比喩表現に“雨”を使っていることが多くて。

──ひょっとして大学は文学部?

寺見:むっちゃ経済系でした(笑)。でも、何かを書くとなったら、失恋のことを書くことが多かったんですよね。そうやってオリジナル曲を書き始めたころに、隆志がドラマーとして加入したんです。学校の学食で「バンド名どうする?」ってふたりで話したり。いろいろ案も出たんですけど、比喩表現で使う雨にちなんだバンド名にしようって。だったら“アメノイロ”はどうだろうっていう。

本多:一番シックリ来たのが、カタカナの“アメノイロ”で。でもそれだけでは寂しいんで、“アメノイロ。”って丸を付けました。

──画数占いで丸を付けたほうがいいとか、地元で有名な街角の占い師に提案されたとか、そんな話は?

本多:そうではないです(笑)。

寺見:でもインターネットで“バンド名の付け方”みたいなものも参考にしました。カタカナのほうが、いろんなバンド名がギュッとたくさん掲載されたときに目につきやすいよ、とか。そういうことをちゃんと真に受けて、じゃあ、カタカナだよなって。それでアメノイロ。になったんです(笑)。

──それは経済学的にも正しいんですか?

寺見:導き出しました(笑)。交わる点を探しました、需要と供給が。

──その前から歌詞ではないにせよ、詩をしたためる趣味などもお持ちで?

寺見:いやいや。歌詞もオリジナル曲で書いたのが本当に初めてで。

──オリジナル曲を作って、ちゃんとしたバンド名を付けたら、気持ちもシャキッとするだろうし、バンドに本腰入れるって感じでしたか?

寺見:そうですね。ライブハウスの店長にオリジナル曲を聴いてもらったんですけど、最初は厳しくて。でも、めちゃめちゃ面倒を見てくれて、「ライブハウスが空いている時間はステージを使って練習していいよ」って。で、店長がダメなところを指摘してくれたりとか。


▲L to R:安田拓生(B)、寺見幸輝(Vo, G)、本多隆志(Dr)

──まるでKANA-BOONみたいですね。KANA-BOONも大阪の三国ヶ丘FUZZというライブハウスで育ったという話だから。前身バンドがカナボーンだったアメノイロ。も似たような道のりだったんですね。

寺見:でも僕らがお世話になっていたライブハウスは、毛色や系統がメロコア寄りだったんですよ。だから対バンしても、僕らは浮いていたという。それで広島県内の他のライブハウスにも出てみようって、活動範囲を広めていったら、徐々にみんなに名前を知ってもらえるようになった感じですね。

──地元の広島で約4年ぐらい活動したんですよね。でも大学生だったメンバーが4年活動していると、当たり前に大学卒業をする年齢になったり、仕事や人生を考えなきゃいけない年齢に差し掛かったりするでしょ。

本多:実際、就職して仕事をするか、バンドをやるかという問題がありましたね。しかも卒論とかも重なって、病んだ時期もあったり(笑)。

寺見:病んだ?

本多:どうしようかなーみたいな。でも寺見の作る音楽を、もっといろんな人に届けたいって思いが強かったので。

──いきなり泣かせる話。メンバーでありながら、寺見さんの歌やアメノイロ。の一番のファンでもあるわけですね。

本多:そうです。だから、アメノイロ。を続けようって決めて、メンバーと2020年4月末に上京したんです。

寺見:いい話ですね。ただ、僕は大学を中退しちゃって(笑)。バンドやりたいし、経済学部は音楽に関係ないし、だったらやめるかって。でもアメノイロ。は大学の軽音部としての活動もけっこう中心的だったんです。だから、僕が中退しようとするのを、隆志はけっこう止めてくれて。隆志は後輩なので当時は僕のことを「寺見さん」って呼んでいて、「寺見さん、勉強を教えるんで、大学を頑張りましょうよ」って(笑)。僕は返信せず、そのまま大学をやめちゃいましたけど。

本多:めっちゃ文章を考えてLINEしたんですよ。その次に会ったとき「大学やめたから」って(笑)。おい、人の話を聞けよ!って感じでした(笑)。

──2020年春に上京したとき、バンドのラインナップは寺見さんと本多さん?

寺見:上京するタイミングで、KANA-BOONのコピーバンドのときから一緒にやっていたベーシストが家庭の事情などもあって、実家の熊本に帰ることになって。だから僕と隆志とギタリストの3人で上京して、ベースはサポートを迎えて活動しようっていう感じでした。


▲寺見幸輝(Vo, G)

──そのサポートとして現れたのが、現メンバーの安田さんですか?

安田:そうです。実は自分が前にやっていたバンドとアメノイロ。は仲も良くて、彼らが広島で活動していたころから交流もあったんですよ。自分は実家が埼玉なんですけど、バンドは新潟でやっていて。新潟と広島でそれぞれ活動していたのが、間を取ってじゃないですけど、東京に集結したような感じです(笑)。ただ、アメノイロ。が上京したとき、サポートベースで頼まれたけど、正直、迷いました。というのも、自分は大学を卒業して就職していたから。

寺見:就職したばっかりだったよね(笑)。

安田:そう(笑)。その前から寺見とは「暇があったら弾かせてよ」って話はしてたんですけどね。上京後に改めて話をくれて、みんなでスタジオに入ったら楽しくなっちゃって。そのときメンバーだったギターのきむ(木村洸貴)から「一緒に天下獲ろうぜ!」ってスタジオで言われて。言われた直後に「やろうぜ!」って自分も答えちゃって。

──即決?

安田:翌日、就職した会社の部長に電話して「辞めさせてください」って。めちゃくちゃ怒られましたけど(笑)。なので、辞めるまでに時間はちょっと掛かりつつ、音楽に本腰を入れられるようになって、アメノイロ。を4人でやるぞ!という気持ちに。僕はアメノイロ。以外のバンドから声が掛かっても、会社を辞めるようなことはしなかったと思うんです。アメノイロ。だから、ちゃんとやりたいと思ったんです。

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