【インタビュー】キズ・来夢、「ライヴをすることで生きていくことを赦される」

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■いわば、キズっていうバンドが4つある感じ

──作曲嫌いでありながら来夢さんが曲を作っているのは、やはり自分が言いたいことを書いた歌詞が載るべき曲の形とか、聴こえ方とか、そういったところについて相当こだわりが強いからなんだろうと思うんですが、実際のところどうなんでしょうか?

来夢:いやー、それはちょっと違うかもしんないです。なんか、曲がいいって言ってもらえることが結構多いんですよ、僕がいいと思ってないのに(笑)。結局、曲というのは自分がステージで何か主張することを赦してくれるツールというか。曲を書く時に苦しめば苦しむほど、赦してもらえてる感覚がするんです。それによってステージに立つことを赦されているというか。これで曲を書かないでいたら、僕はただの詩人なんですよね。なんかそういった意味でも、ステージに立つための赦しを得るために我慢しながら曲を書いてるみたいなところがありますね。だから逆にここでメンバーが「俺、書くよ」ってひとこと言ってくれたら、もうソッコーで任せちゃいます(笑)。

──マジですか! むしろ来夢さんには、バンド然とした曲作りのあり方みたいなものを拒絶している部分があるのかな、とも思っていたんですが。

来夢:いや、べつに誰が書いてくれて構わないんです。でも、メンバーにはあいにくセンスがないみたいで(笑)。というか多分、みんな器用じゃないんです。キズのライヴを観てもらうとわかると思うんですけど、メンバー1人ひとりが別のライヴをしてるようなところがあるんですよ。いわば、キズっていうバンドが4つある感じ。僕が曲を書いているのは、僕のキズなんです。メンバーが書くと、また違うキズがそれぞれ生まれてくることになる。ただ、それぞれのキズがどうも掛け離れ過ぎてるというか……。だから始動当初とかは一生懸命、衣装とかを揃えて、ひとつのことをやろうとしてたんですね。大人からも「まとまりがない」とか言われてたんで。だけど、どうしてもまとまりがつかなくて、そこで気付いたんです。根本的に人が違うんだから仕方ないんだって。今も相変わらずバラバラなままですけど、そこでもう統一感とか考えてないし、何も決めてないんですよ。各々が好きなものを着てる。この「リトルガールは病んでいる。」でも、僕自身はこういうこと歌うんだけど、みんな好きなものを着て、好きなように振る舞ってもらって構わない。それぞれが見ているヴィジョンも違うし、多分、目標も違うと思うし。

──合わせようと努めてもバラケることがわかっていて、そこがこのバンドの個性になっている部分もある。だからこそ無理やり束ねようともしなくなったということですね?

来夢:うん。ある意味、1人ひとりがヴォーカリストとして成立するバンドだなと自分では思っているんで。なんか無理にひとつのことをしなくてもそれが面白い、みたいな。でも多分、そういうところまで彼らは考えていないし(笑)、僕がどういうことを考えてこういう衣装を作ってるのかもおそらく知らないというか、興味がないはずなんですよ。みんな自分に任せられたことは一生懸命やるけど、それ以外のことには関心がないというか。

──逆に言えば、そこでプレイヤーとしては信頼しているからこそ、こういった制作体制が成立しているわけですよね?

来夢:はい。そこはもう尊敬でしかないです。彼らには、僕にはできないことができる。それがひとつでも僕にできることだったら一緒にバンドなんかやってないんじゃないかな。自分ひとりでやっちゃうはずで。まあ実際、僕がすべて作詞・作曲してはいますけど、やっぱこのメンバーと同じ時間を過ごさないとこの曲たちは生まれないし、曲を書いてる時も「うちのギターがここでこんなフレーズ弾いたらカッケーだろうな」とか想像しながら、ある意味メンバーのために書いてるんで。だから、自分ひとりでキズの曲を書けるかって言われたら絶対無理です。そのへんはあんまり読者にも勘違いして欲しくないところですね。


──ワンマン体制なわけでも音楽的に独裁体制なわけでもない、ということですね。ここまでの話を聞いていても。キズというバンド名をよく付けたものだなと思うんです。それこそ人生って、過去に負った古傷が癒えてきてはまた他のところに新たな傷を負って、ということの繰り返しでもあると思うんです。そういったことをふと思わされました。

来夢:なるほど。実はキズっていうバンド名の由来については、これまでどこにも言ってないんですよ。僕、解散する時にそれを言おうと思っていて。ただ、そういうふうに捉えてもらえたなら結構嬉しいんですけど、むしろ逆の意味なんです。ただ、それを具体的に言っちゃうと……説明できちゃうバンドってつまらないじゃないですか。僕らはこれをコンセプトに活動してます、みたいな情報って、聴き手側には必要のないものだと思うんです。そういうのも結構大事なところなんじゃないかと思っていて。

──謎の部分というか、想像したくなる部分を残しておくことの重要さというか。

来夢:はい。みんな知りたがるじゃないですか、好きなものについて。でも、知らないでいたままのほうがいいこともあると思うんです。

──ええ。僕もここでバンド名の由来を無理やり聞き出そうとは思いません。解散されてしまっては困るので(笑)。

来夢:ははは! そもそも僕自身、バンドをやっては終わってということを何度も繰り返してきたんですけど、なんかどれもスッキリと終われなかったんですよ。解散ライヴの時とか脱退する時とかを迎えるたび、「これほど頑張ってきたのにこんなにも報われない日って、なくない?」と思えるぐらい傷ついて。要するに勝手に始めて、勝手に辞めるわけじゃないですか。そこで「なんで謝罪しなきゃいけないんだ?」とか「どうしてこんな気持ちになんなきゃいけないんだ?」という想いが結構あったんです。そこでキズでは、これから自分たちで明確な終わりというのを見つけていくんではなく、それをもう決めてあるんです。このバンド名の由来を発表して「これを機にキズは終わります」というのを先に決めておけばスッキリと終われるだろうって。つまり、スッキリとバンドを終えられるように、そういうものを最初に作ったわけなんです。

──最初から終わり方を決めるなんて縁起でもない話にも聞こえますけど、裏を返せば、スッキリと後悔なく終われるようにするためにも全力を尽くしていく、ということでもあるわけですよね?

来夢:そうです。ファンにもそういうことはちゃんと伝えているんで、みんな一生懸命ライヴを観に来てくれてます(笑)。「明日居なくなるんじゃねえか?」みたいな不安を抱えてるのかもしれないですけど。

──ちょっとそこには罪悪感も伴いそうですね。ところで、すっかりお馴染みになったヴォーカルコラボ企画『一撃』のシリーズについても聞かせてください。ああいった試みを続けてきたのはコロナ禍でライヴ活動が思うようにできにくかったこととも無関係ではないはずだと思うんですけど、結果、すごくいい機会になったように思うんです。

来夢:そうですね。そもそもは4周年の企画で始まったことなのに、いつのまにかみんな出たいって言ってくれるようになって。楽屋とかでも先輩とかから「あの企画いいねえ!」とか言われたりすることがあって「あ、この先輩見てくれてるんだ!」とか思ったりするし。まだまだほんの4周年だし、それに伴う単なる企画でしかなかったのに、それがもう自分ではコントールできないぐらいの流れになってしまっていて。もはや『一撃』は僕個人のフィールドではなくなってるんですよね。

──新たな場ができてしまった、という感じですか?

来夢:はい。しかもアーティストによってそれが変わってくるというか。まず最初に、MUCCの逹瑯さんに参加をお願いしたんですね。逹瑯さんには絶対、いちばん最初に歌ってもらいたいって思っていたんで、駄目モトで電話してみたら「無しではない」と言われて、その言葉自体について「マジ、カッケー!」と思って(笑)。僕もその言葉を使わせてもらおう、とか思いましたもん(笑)。で、そこからあれこれ頑張ってきて、実際に出てもらえることになって、それ以来ずっと今までいろんなアーティストが参加してくれて。でも逹瑯さんが切っ掛けだったんですよ。あの人が参加してくれるんだったらこの企画はアリだろう、みたいなところから始まってるんです。もうホントに逹瑯さまさまです(笑)。



──逹瑯さんに限らず、先輩方はああいう場での喋りも上手いですよね。巧みに先輩風を吹かせてくるというか。

来夢:はははは! でもホントにすごいんですよ。感覚的にはスパーリングに近くもあるんですけど、やっぱみんな自分のバンドを背負ってるというか、何か背負ってるわけで、歌ってる時に何かが見えるんです。僕、霊感とかはないんですけど、なんかすごいものを感じるんです。

──殺気みたいなものが感じられるケースもあるでしょうしね。

来夢:そうですね。皆さん大きく見えるし。田澤(孝介)さんとかもそうでした。「ヤバい! ここにボスが居た!」とか思いましたもん(笑)。田澤さんって僕よりはちょっと大きいですけど、決して大柄な方ではないのに、一緒に歌い始めたらめちゃデカく見えて。



──当然ながら来夢さん自身がリスペクトの念を持っている相手、一目を置いている人たちに声をかけているわけじゃないですか。その人たちの大きさを改めて実感できる機会にもなったわけですね?

来夢:そうですね。で、歌を大切にしようという気持ちがより強くなりました。みんな気付いてないだろうと思うんですけど、この『一撃』の1st seasonが始まった頃と比べると、僕、明らかに歌が上手くなってるんですよ。聴き比べてもらえたら多分わかるはずだし、同じ曲でもう一回やろうってことになったら確実に前回よりいい歌が歌えるようになってる。誰もそこには気付いてないかもしれないけど、自分でもそれを実感できるくらいの違いがあって。

──その意味においても、音源完成が楽曲にとっての最終地点ではない。

来夢:そう。音源とは全然歌い方も違うし。それこそハモったりするわけじゃないですか。するとなんか、相手の癖だったりそういうものを踏まえて、寄り添って歌うことになるんで、その人の持ってるものまで身についてくるんですよね。だからあれ以降、ライヴで「銃声」を歌う時なんか、逹瑯さんの歌いまわしをそのままもらって歌ったりとか、結構してるんで。

──共演相手から吸収できるものがたくさんあるわけですよね。ただ、それは自分の歌自体にある程度以上の自信がないとできないことだとも思いますし、同時に、「この界隈のヴォーカリストには結構すごい人たちがたくさんいるんだよ」ということをアピールしたい気持ちというのも少なからず動機としてあったんじゃないかと思うんです。

来夢:それはめちゃめちゃありました。ヴィジュアル系すごいんだぞ、というか。1月に渋谷公会堂で<VISUAL>っていう旗を振らせてもらいましたけど、あれは昨今、ヴィジュアルという言葉をあまり目にする機会がなくなってきたからでもありますし、ヴィジュアル系のアーティストを集めて、僕の大好きな人たちをみんなに知ってもらいたいという機会でもあったからで。ライヴをまったくしてなかったんですよ、コロナ禍で。無観客ライヴとかを一切しなかった。無観客でやることへの憧れとかもまったくないし、「そういうことをやりたくてバンドを始めるやつなんて1人もいねえだろ?」と思って、僕はやらずにいたんです。じゃあこの機会に何をするかって言ったら、それこそ飲み会とか食事会とかもあんまりできずにいたわけじゃないですか。それによって先輩とかとの関わりも薄くなってきつつあったし、だったら『一撃』でやってるみたいに向き合って、どんどん広げていったほうがいいんじゃないかな、と。そういう始まり方をしてるんです。



──特にこの領域にはヴォーカリストのキャラクターによって自分たちの色を確立させているバンドが多いし、そういったことも改めて実感させられる機会になったように思います。キズ自体もそういうバンドだという自覚があるからこそ可能な企画だったはずですし。

来夢:そうかもしれないです。でも僕が呼んでいるアーティストはみんな自分を落とし込める対象でもあるというか。そういう方にしか声をかけてないんです。だから嬉しいんですよね。キズの曲じゃないように聴こえるとか言われると「そりゃそうでしょう。俺の好きなアーティストはすごいんだよ!」と思うし、「銃声」がMUCCの曲みたいに聴こえたと言われれば「当然だろ、逹瑯さんだぞ!」と思うし。そういうコメントを目にするのがホントに嬉しかったですね。だから改めて思ったのは、自分が好きなのはヴォーカリストの声を聴いて「ああ、あのバンドだ」ってわかる人たちなんだなってことで。今のJ-POPとかにはそうじゃないものも多いですけど、僕の好きなアーティストの曲はそうなんです。

──来夢さん自身もそうあれているという自負はあるはずですよね?

来夢:まあ、特徴的な声ではあると思ってます。

──正直、自分の声自体についてはどう思っていますか?

来夢:嫌いですね(笑)。

──そう言うと思ってました(笑)。

来夢:僕の声って、もうただただ高いだけなんですよ(笑)。そう思わされてしまうぐらい、皆さんすごいヴォーカリストばかりなので。だからなんか……もっと頑張んないとな、とは思うんですけど。そもそも僕、歌というのは女性が歌うものだと思ってるところがあるんです。あくまで僕自身の中での話ですけど。なので、僕が理想とする声は女性の声ということになります。男性ヴォーカルではない。

──女性みたいな声で歌いたいということではなく、来夢さんの理想とする音楽を歌っているのは本来は女性だということなんですね?

来夢:そうですね。だから僕が本当に音楽が好きで、その音楽を伝えたいのであれば、女性ヴォーカルと一緒にやってるだろうと思うんです。

──来夢さんの頭の中で聴こえてくる理想の歌声は女性ヴォーカルなんですね?

来夢:うん。やっぱ癒されたいというか。自分で聴く音楽についてもそうなんです。もちろんMUCCとかも大好きですけど、それこそエンヤとかも聴くし。なんか、ああいう綺麗な声が好きなんですよね。

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