【インタビュー】ポータブル・ロック、長い眠りから目覚めた3人の今まさに燃え盛る創作意欲
野宮真貴、鈴木智文、中原信雄。時代の先端を行くニューウェーヴ・ポップ・ユニットとして1982年に結成され、鈴木慶一(ムーンライダーズ)率いる水族館レーベルなどで作品をリリースしたポータブル・ロックは、現代J-POPの源流の一つと言える偉大な存在だ。その後、ピチカート・ファイヴに加入した野宮真貴をはじめ、80年代以降の日本のポップス史に大きな足跡を刻む3人が、遂にポータブル・ロックとして完全復活する。結成40周年記念アルバム『PAST&FUTURE~My Favorite Portable Rock』には、80年代の活動を網羅する12曲と、まさかの新曲2曲を収録。1か月早くリリースされた野宮真貴の40周年記念アルバム『New Beautiful』にも、ポータブル・ロックとしての新曲を提供し、長い眠りから目覚めた3人の創作意欲は今まさに燃え盛っている。アルバムについて、過去の活動について、そして未来への展望について、未だ野心的でみずみずしい3人の言葉に耳を傾けよう。
■「これからどうしようかな?」という時に二人がそばにいてくれて
■「一緒に音楽をやろうか」というところからポータブル・ロックができた
――4月末の野宮さんのビルボードライブ東京での40周年記念ライブ、見せていただきました。とても素敵でした。
野宮真貴(以下、野宮):ありがとうございます。あのライブの1曲目がポータブル・ロックの新曲「Portable Love」で、2曲目に「アイドル」という、80年代のポータブル・ロックの曲で40年という時を繋ぎました。
――あの日は中原さんと鈴木さんの姿もお見掛けしました。新曲や、かつての「アイドル」を、客席でどんな気持ちで聴いていました?
鈴木智文(以下、鈴木):やってるなぁ、という感じ。懐かしさもあったし。
中原信雄(以下、中原):ああ、こういうふうに聴こえるんだと。客席で聴いたことないから。
野宮:どうでした? 新曲は。
鈴木:良い曲だなと思った。(鈴木)慶一さんが「アルバムの中で一番良い」と言ってくれたし、ほかの曲とは毛色が違う感じで、ポップで良い曲だなと思って聴いていました。
――あの日のライブは、鈴木慶一さんと、カジヒデキさんがゲストでしたね。面白かったのは、野宮さんと慶一さんのおしゃべりの中で、「私の最初のプロデューサーで音楽業界の親代わりです」と紹介されていたことで。実際、そういう感じだったんですか。
野宮:そういう感じでしたよ。慶一さんは私のデビューの時(シングル「女ともだち」、アルバム『ピンクの心』/1981年)のプロデューサーで、レコーディングのことも何もわからない中で、いろいろとお世話になりました。当時のファースト・コンサートで二人(鈴木&中原)がバックを務めてくれて、アルバム1枚でレコード会社と契約は切れてしまうんですけど、「これからどうしようかな?」という時に二人がそばにいてくれて、「一緒に音楽をやろうか」というところからポータブル・ロックができたんです。その時にも慶一さんが、ご実家のホームスタジオ(「湾岸スタジオ」)で「ここでデモテープを録れば」と言ってくれて、3人で1年近く通いましたね。そこでお母様にも、時々ご飯をご馳走になったり。
▲野宮真貴(Vo)
――いいですね。まさにアットホームな感じ。
野宮:湾岸スタジオに行くと、弟さんの鈴木博文さんが、いつもコーヒー豆を丁寧に挽いて、おいしいコーヒーを淹れてくれたのを覚えています。慶一さんはもう家を出ていて、時々帰ってきてたのかな。
中原:そうだね。フーちゃん(博文)のほうが、お世話になった記憶がある。
鈴木:慶一さんのお父さんがまだお元気で、「うどん、できたよ」とか言って、レコーディング中にうどんを持ってきてくれたのも覚えてる。
野宮: 私たち、とにかくお金がなかったんです(笑)。でも慶一さんのご実家はすごくオープンで、いろんな人が出入りして、そういう環境を与えてくれて、デモテープを作って、レコード会社に配ったりしていました。それから水族館レーベルの『陽気な若き水族館員たち』というオムニバスに参加させてもらって、VOICE、MioFou、リアルフィッシュと一緒だったかな? そこに入っていたのが、今回のアルバムの「グリーン・ブックス」と「クリケット」ですね。みんなでツアーもやって面白かったね。
鈴木:20人ぐらいで動いてたよね。みんな電車で(笑)。
野宮:それを全部、慶一さんがまとめてくれた。本当にお世話になってます。
鈴木:慶一さんがいなかったら、ポータブル・ロックはないと思うんだよね。
――確か、グループの名付け親も慶一さんですよね。
野宮:そうそう。ポータブル・ロックという名前もつけてくれたし。
▲鈴木智文(G)
――当時の3人の関係は、どういうものでした? ミュージシャン同士の付き合いだったのか、それとも友達のような関係だったのか。
野宮:青春っぽかったよね?
中原:そうだね。
野宮:音楽を一緒に作っていたけど、それ以外は集まって遊んだり。でもお金がないから…散歩とか。
中原:そんなことしたっけ(笑)。酒もけっこう飲んでなかった?
野宮:知り合いのライブの打ち上げに行っては、タダ酒を飲んだりして。
▲中原信雄(B)
――あはは。すみません、イメージ崩れます(笑)。
中原:ライブが終わる頃に行って、打ち上げだけ参加して。
鈴木:そんなことしてたっけ?
野宮:私はしてた(笑)。ポータブル・ロックの初期の作詞をしている高橋修さんと太田蛍一さんの二人は、ニューウェーブなアート集団のイラストレーターで、彼らがポータブル・ロックのイメージを作ってくれていたんですけど、とにかくみんなお金がなかったから、誰かの家に集まっては、ボードゲームをやったりして遊んでいましたね。
中原:慶一さんの家でさ、一升瓶で800円ぐらいの安いワインを買って来て、みんなで飲んだら、背中に斑点ができちゃって。
野宮:え~、そんなことあった?
中原:やっぱりワインは、ちゃんとしたのを飲まないと駄目だということがわかりました(笑)。
――そういうお話は、文献を読んでも出てこないので、すごく面白いです。当時の、ニューウェーヴな若者たちは、すごくとんがったイメージがありますけど、意外と和やかだったという(笑)。
野宮:平和な感じでしたよ。水族館レーベルもみんな仲良しだったし。とにかく曲を作っている毎日でした。
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