【対談】翔(横浜銀蝿)×ナオ(首振りDolls)「ずっとモテたいだけでバンドやってたいんだよ(笑)」
首振りDollsによる2020年のマンスリーインタビューを締めくくるゲストは、横浜銀蝿のボーカル・翔。日本のエンターテインメント業界に、ロックンロールを独自路線でしっかりと植え付け、横浜銀蝿というバンドを世の中に知らしめた重鎮だ。
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1980年のデビューから、日本中を巻き込んだ“銀蝿現象”で多くの人々を魅了した横浜銀蝿。近年はそんな彼らを知る若者は少なかったかもしれないが、西森博之(小学館「少年サンデーコミックス」刊)作の伝説のツッパリ漫画『今日から俺は!!』のドラマ化&映画化によって、横浜銀蝿の弟分として1982年にデビューした嶋大輔の「男の勲章」(横浜銀蝿のギタリストJohnnyが作詞作曲)が主題歌として起用され、出演者たちが【今日俺バンド】として、キャッチーな振り付きでカヴァーしたことから大ブレイクし、改めて横浜銀蝿というバンドの存在の大きさに気付かされることとなった。
今回の対談では、世代を超えて、ロックンロールを受け継ぐ者として、首振りDollsのナオが翔に横浜銀蝿の歴史を訊く。1983年、惜しまれつつわずか3年3カ月で横浜銀蝿が活動を停止したその背景には、一体どんな想いがあったのだろう?
横浜銀蝿結成40周年となる2020年、オリジナルメンバー4人による初めての再結成にかけた想いとは?
■首振りDolls 3週連続配信シングル
https://linkco.re/A2NqNXe0
「散り散り」
https://linkco.re/rfBurVHT
「SMILE」
https://linkco.re/CX8ar976
――今回は、日本のエンターテイメント業界に、ロックンロールを植え付けた重鎮、横浜銀蝿40thのボーカリスト翔さんをお迎え致しました!
翔:重鎮って(笑)!
ナオ:よろしくお願いします! お会いできて光栄です! 自分ももちろん大興奮なんですが、翔さんと対談させて頂けることになったことを家族に言ったら、本当に驚いていて、大興奮でした! 本当に今日はどうぞよろしくお願い致します!
翔:こちらこそ、よろしくね! ナオは出身どこなの?
ナオ:北九州です!
翔:上京は?
ナオ:2019年に上京してきました!
翔:去年? 上京してきていきなりコロナ?
ナオ:そうなんです……。これからいくぞ! ってときに……。
翔:それやんなっちゃうね。でも、タイミングもあるし、頑張ってやってたら人生ってもんはなんとかなるもんだからさ。気を落とさず、何事も挫けないこと、続けることだと思うよ。本当に、自分が頑張れるか頑張れないかだけだと思うからさ。やりたいことだけ、好きにやってりゃいいって世界でもないんだよ。厳しく言ってくれる人が居てくれることや、厳しい環境を自分が乗り越えてこそ未来があるんだよ。本当にそう思うよ。どれだけ自分たちが頑張れるか、それだけだと思う。ナオたちは3ピースバンドなんだよね?
ナオ:はい。私がボーカルなんですけど、ドラムもやっていて。ドラムボーカルなんです。
翔:ドラムボーカルで、ギターとベースの3ピースかぁ。珍しい3ピースの形だね。
ナオ:そうなんです。なかなかない形で。
翔:だよな。だいたいギターかベースが歌ってるもんな(笑)。もちろんナオは世代的に横浜銀蝿をリアルタイムでは観てないもんな? 歳の差的には息子みたいなもんだろ?
ナオ:そうですね(笑)。生まれる前ですね。でも、もちろん横浜銀蝿の存在は知っております! 親世代がリアルタイムなので、それはもう翔さんと対談なんて、大騒ぎになってました!
翔:あははは。それは嬉しいね。俺らもう40年もやってるとそういう世代を超えた話も聞けるから、それはすごく嬉しいことだったりするんだよ。今の若い子なんて世代的には横浜銀蝿を知ってる訳がないんだけど、『今日から俺は!!』のドラマ化&映画化によって、そこから銀蝿を知ってくれて好きになってくれた子たちも居てね。続けてるとこんなこともあるんだなって思ったよ。『今日から俺は!!』きっかけでフェスとかに出ても、若い子たちが盛り上がってくれてね。すごく新鮮な気持ちでライヴできて。だいたい銀蝿のお客さんって、30代以降、40代50代60代なんだけど、最近は10代の子たちや小学生とかも振り付きで踊って盛り上がってくれてるんだよね(笑)。すごい不思議な現象に思えて。
ナオ:素敵ですね!
翔:そうなんだよ。俺たちは昔から音楽で認められて世の中に出てきた訳じゃなかったとこがあるから。
ナオ:え? どういうことですか?
翔:俺たち、当時から音楽雑誌とか音楽媒体に取材してもらったことがあまりなかった。“ツッパリ”だとか“ぶっちぎり”だとかっていうワードと、革ジャンに白いドカンっていうあのスタイルを取り上げられることが多くて。音楽じゃなく『平凡パンチ』とか『プレイボーイ』とか『平凡』『明星』に取り上げられることが多かったからね。
――どちらかというと芸能系というくくりだったんですね。
翔:そうそう。俺たちの目的ってのは、もちろん最初は音楽が好きで始めたんだけど、いっちばん最初は、レコードを出したい、モテたい、ってところだったからね。1980年の頃って、ロックンロールという音楽をやっている人たちが、メディアに出ることを拒んでいた風潮があったんだよ。
ナオ:なるほど! 硬派に見せたいってところですね?
翔:そう。テレビなんか出て来て歌を歌うなんてチャラいことできないし、みたいなね。昔は8分も10分もあるフォークソングを作って歌ってたから、テレビ用の短い尺にされて中途半端に歌うなんてことは不本意だ、的なとこがあった時代でもあったから。全部歌ってこそ作品なんだから、っていう。だから、テレビに敢えて出ないっていうのが、無骨というか、アウトローな感じだった。でも、横浜銀蝿は“モテたい! 売れたい!”で出てきたバンドだったから、一番最初のメディアは何処がいいかな? から始まってたから(笑)。メジャーな雑誌が良いよね! みたいな。それで、事務所が『プレイボーイ』の取材を取ってきてくれて。でも、普通はそこで表紙巻頭とか、巻頭特集とかカラーぶち抜き何ページとかがカッコイイんだけど、敢えてそこで“モノクロページじゃなくちゃ嫌だ!”って、訳の分からない主張したりして(笑)。テレビとかも音楽番組からオファーがあったときは、とにかく全部出たい! って感じだった。もともと俺たちの曲は3分くらいで終わっちゃう歌だし、テレビサイズも何もなかったからね(笑)。
ナオ:分かります! 3分以内に収めるのが一番カッコよかったりするんですよね!
翔:そうそう。だから、テレビ用にカットされちゃうならテレビは出ません! なんて言う必要性もなくて。大歓迎だったよ、テレビ。目立つには最高のキッカケだったから。結果、『夜のヒットスタジオ』や『ザ・ベストテン』に出演した事で、お茶の間にロックンロールが広がったって感じだった。最初は、革ジャンに白のドカンっていうスタイルは抵抗もあっただろうけど、徐々にいろんなメディアに出ることによって、それが受け入れられるようになったって感じ。
ナオ:横浜銀蝿の魅力が、テレビを通してだんだん浸透していった感じだったんですね。
翔:そう。最初は、有名ラジオ番組のパーソナリティの人に、“絶対に横浜銀蝿の曲なんてかけない”って言われたりしてた。まぁ、仕方ないところもあって。当時は校内暴力や暴走族が酷い時代で、『積木くずし』とかも話題になってた頃だったから、なかなか世の中的に認めてもらえるスタイルのバンドではなかったんだよ。
――その風潮をあおってしまうというイメージだったということだったんですかね?
翔:まぁそういうのもあったんだろうね。俺たちは俺たちの普段のまま、そのまま、ありのままのスタイルで音楽やってたから。その風潮を煽ってた訳でもないから。
――誤解もあったんですね。
翔:そうだね。でも、それをちゃんと認めてくれていたのが、一緒にやろうって言ってくれたキングレコードのディレクターだったんだよ。いろんなレコード会社が声をかけてくれた中でキングレコードという会社を選んだのは、一番厳しいことを言ってくれた人が居たからだった。当時の音楽シーンは、恋の歌が多かった。愛してるとか、そういうことを歌っている曲が多くて。ビートルズやキャロルもクールスもそういう歌歌ってた。俺、チャック・ベリーとか大好きだったんだけど、みんなそういうこと歌ってたりするんだよ。俺たちもそういう音楽を聴いて育ってきてるから、自然とそういう曲作っちゃうよね(笑)。俺たちはもちろんそこに憧れてもいたし。そんな中で、横浜銀蝿が別格である為に作っていかなくちゃいけない曲って、そういうところじゃないんじゃないの? ツッパって、大人の言うことなんか聞かねぇっていう生き方してきてて、自分たちにしか歌えない歌はないの? ってそのディレクターに言われて。たしかに、革ジャンにドカンにサングラスっていう自分たちが貫いてきたスタイルを崩さなくちゃいけないなら、メジャーなんかいかねぇ、デビューなんてしねぇって言ってたんだから、俺たちにしか歌えない歌を歌わないと意味ないよな、って思ったんだよ。だから、そのディレクターに、“自分たちにしかできない音楽は無いのか?”って言われたときに、一番痛いところを突かれたというか。
ナオ:そう言われる前は、やっぱり恋愛の曲とかが多かったんですか?
翔:そう。だいたいそうだったね。世間が悪いとか、大人が悪いとか、パンク系の奴らはそういう主張をした歌を歌っていたけど、俺たちはロックンロールは楽しいものじゃなくちゃいけないって思っていたから、男子だったら女子にモテたいし、っていうんで、恋愛の歌とか失恋の歌に片寄ってたんだよ。
――じゃあ、そのキングレコードのディレクターさんとの話し合いで、改めて自分たちを見つめ直せた感じだったんですか?
翔:そう。勝負かけなくちゃいけないなって。なんかやんなきゃいけないときに、そこに答えを出さなくちゃいけないって思う不良の精神っていうのかな。そのときのディレクターの言葉がすごく胸に響いて。その言葉に対して、答えを出したいって思ったというか。それで頭切り替えて自分たちらしさを追求する曲を作った。土曜の夜に集団暴走行為をしていた頃のことを思い出して曲作ったんだよ。
ナオ:それが「ぶっちぎりRock'n Roll」だったんですね!
翔:そう。“走り出したら止まらないぜ、俺たちは土曜の夜の天使なんだ!”ってね。“ルームミラーにうかぶ赤いシグナル背中に受けて”ってのは、お巡りさんに追いかけられてる感じね(笑)。
ナオ:パトカーの赤色灯ですね!
翔:そう(笑)。直接的に書かずともだったけど、リアルな情景をそのまま書いた歌詞を乗せたロックンロールを提出したんだよ。そしたら、事務所の社長もレコード会社もひっくり返ってさ。“これだよ! こういうことだよ!”って。俺たちも、あ、こんなんでいいの!? って思っちゃって(笑)。今まで、どうやって女口説いたら良いかってことを一生懸命に考えて歌詞書いてたから。数あるラブソングの中で、より輝きを増す極上のラブソングを作らなくちゃと思って必死に頭悩ませてきたのに、あぁ、そういうことじゃないのね! って気付いたというか。
ナオ:それがキッカケだったんですね。
翔:俺とリードギターのJohnnyは高校の頃からの同級生で、一緒にバンドを始めたんだけど、奴と2人で曲を作っていく中で、デビューするならこの曲がいいねって決めてたのが「横須賀Baby」だったんだよ。その意見をレコード会社に押し通して、シングル曲はそれでデビューさせてもらったんだけど。そのとき、今話した、リアルな情景をそのまま書いた歌詞を乗せた「ぶっちぎりRock'n Roll」が出来たから、それをB面にしたのと、それを1曲目にした『ぶっちぎり』ってアルバムを一緒にリリースすることになったんだよ。
――同時でしたもんね。
翔:そう。さっきもちょろっと話したけど、キングレコードを選んだのは、当時俺たちをディレクションしてくれた水橋さんって人が居てくれたからってのもすごく大きかったんだよね。俺たち1979年に結成してるんだけど、デビューするまでに1年かかってんの。なんで1年かかったかって言ったら、“お前たちじゃなくちゃ歌えない歌をつくれ”って事と、音楽の基礎知識がなかったって事(笑)。
ナオ:そうなんですか!?
翔:そうなんだよ(笑)。当初は譜面も書けなかったからね。マスターリズムくらい作れないの? って言われても、“なんだよ、そのマスターリズムって!?”って感じだった(※マスターリズム=コード・リズムだけの譜面)。水橋さんはすごく信頼もしてたし信用もしてた。普段は本当に仲良い感じで接してたんだけど、仕事のことになると本当に厳しい人で、音楽で飯食ってくってことがどれほど大変なことで、考えている以上に甘いもんじゃないってことをすごく教えられたんだよ。何も分かってなかった俺たちにいろいろと教えるのは、本当に大変だったと思うよ。普段は女の話とか車の話とかして一緒に馬鹿言って笑えるのに、仕事の向き合い方の話になると本当に厳しかったからね。ずーっとオリジナル曲で勝負していくっていうことの厳しさとかもすごく言われた。甘いもんじゃないだよ。覚悟決めてやんなくちゃやれるもんじゃないんだよって。だからJohnnyと話してちゃんと自分たちの音楽やっていこう、腹括ろうって決めたんだよ。他に声をかけてくれたレコード会社の人たちは、みんないい事しか言わなかったんだよ。“いいねいいね! すごいね!”って。でも、水橋さんだけは厳しかった。“そんな甘いもんじゃない”って、ずっと言ってくれた。人間、自分を褒めてくれたり甘やかしてくれる人に逃げがちだし、絶対にそっちの方が楽だけど、なんか、不良の嗅覚っていうのかな、厳しい事を言ってくれる水橋さんについて行こうって思ったんだよ。リーダーの嵐さんも含め、レコード会社を決めるときに、全員が“水橋さんの居るキングにしよう”ってなったからね。水橋さんはもう今亡くなってしまったんだけど、本当に失ってからも特にその存在の大きさと有難さに感謝してる。一緒にできたからこそ、今もこうして横浜銀蝿はあると思っている。 「ぶっちぎりRock'n Roll」の次は学校編でも作るか! っていうので出来たのが「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」。
ナオ:なるほど! そういう流れなんですね!
翔:そう(笑)。作戦。
――しかし、「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」がデビュー前に出来てたとは! 当時あの曲を聴いたときの衝撃は、今も変わってませんからね。あれほど完璧なメロと歌詞の曲は他に無いと言っても過言では無いくらい、最強作だと思ってます。
翔:あははは。ありがとう! 嬉しいよ。でも、レコード会社の人たちも水橋さんも同じことを言って褒めてくれた。そんな武器が同時に出来ちゃったから、もう黙ってどんどんレコーディングしてくれちゃってさ(笑)。デビュー作のレコーディングしてんのに、もう2枚目確約! みたいなラッキーな状況になったんだよ(笑)。
ナオ:素晴らしいですね!
翔:そう。デビューシングルもアルバムもそこそこいったんだよね。でも、本当の意味で横浜銀蝿を押し上げてくれたのはアルバムだったんだよ。
――アルバム制作の中に、何かキッカケがあったんですか?
翔:そう。映画『ボヘミアン・ラプソディ』のシーンの中にもあったけど、レコーディングでいろんな音を使って音楽を作れることに感動したんだよ。俺たちは遊びの延長線上で音楽やってた人間だったから、いろんなことができることに感動して。そんな中で、雨の曲には雨の音を入れたい、とかそういうことを考えるようになって。
ナオ:あ! 集会に音を録りに行ったって話に繋がっていくんですね、そこ!
翔:そうなんだよ! 最初、エンジニアさんにバイクの音入れたいって言ったら、“あるよ!”って言われて聞いたんだけど、全然イメージと違くてさ。ダメだ、これは自分たちで集会行って録ってこなくちゃって(笑)。
ナオ:あははは。めちゃくちゃリアルじゃないですか(笑)! どこの集会に行かれたんですか?
翔:そりゃ地元だよ。仲間が居るし、自分もそこでちょっと前まで走ってたんだからさ(笑)。
ナオ:あははは。すごい! 本物だ!
翔:そう(笑)。みんなのとこ行って、“ちょっと音録音させて!”って。カセットデッキ持ってね(笑)。
――カセットデッキ!?
ナオ:すごい! 本当にリアル!
翔:時代を感じるだろ(笑)。“んじゃ、みんな遠くからこっちに集まってくる音録音したいから、よろしく!”って、録音ボタンをガチャって押して(笑)。いい音が録れてさ! “いいねいいね! 最高じゃん!”って思わず声出しちゃって、あ、声入っちゃったからもう1回やらせてっていうエピソードもありつつ(笑)。その音をアルバムの一番最初に入れてもらったんだよ。エンジニアとか、そんなアナログで録った音を入れろって言われたから、頭抱えちゃってる訳よ(笑)。
ナオ:音が割れちゃってるとかですか?
翔:まぁ良質な音じゃないからね。いろいろと工夫してやってくれて、完成形になったんだよ。その音を入れたことによって、若者達がそのリアルに気づいてくれて、“なんか横浜銀蝿ってすげぇんじゃん!”みたいになったらしく(笑)。それが口伝てになって、一気に広がって。シングルの後を追うような感じになって、【横浜銀蝿=ぶっちぎり】みたいなイメージが定着し始めて、あ、これは行くかもな、っていう感触があったというか。レコード会社としても、既にそのとき隠し玉として「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」があったことから、そこから先の爆発が予測できていたってのがあったんだよね。
ナオ:すごいですね! なんかワクワクしますね!
翔:そう。まさに仕掛けられる手応えがあった。
――勢いに乗ったところで、さらに勢いが出るものを投下できる準備は整っていた訳ですからね。
ナオ:すごいなぁ、めちゃくちゃカッコイイですね、それ!
翔:“これ、なんか行くんじゃないの?”っていう感覚って、周りにも伝わるんだよね。9月にシングル「横須賀Baby」とアルバム『ぶっちぎり』で、その後すぐ、年明けて1月にシングル「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」とアルバム『ぶっちぎりII』が出る流れができてたのもあったから、レコード会社的には“絶対に行くな”っていうのが確信的だったんだろうね。そのとき、“1月からは状況が変わると思うから、覚悟して”って言われたんだよ。
ナオ:すごい! 言われたい!
翔:あははは。本当だよね(笑)。でも、その言葉通り、1月に「ツッパリHigh School Rock'n Roll (登校編)」がリリースされたら、それが一気に2位に躍り出て。本当にそこからはレコード会社の人が言うように世界が一気に変わった。『夜のヒットスタジオ』とかから声がかかり、『ザ・ベストテン』で注目曲として取り上げられたことで更に数字が上がっていって。4カ月くらいで、世間が知ってくれる存在になっていったっていう。
ナオ:すごいですね!
翔:そうだね。本当に一気に世界が広がった。本当にいろんな番組から声かかったからね。『8時だョ!全員集合』とかバラエティにもガンガン出ていったからね、ロックンロールバンドなのに(笑)。でもほら、モテたいからさ(笑)。
ナオ:あははは。やっぱりそこですね(笑)。
翔:そう(笑)。そういうバラエティに出られるのは本当に嬉しかったから。ドリフターズと一緒に踊ったもん(笑)。素人だった俺たちが、結成からデビューまでの1年間でいろいろ頑張って、音楽的な面も叩き上げな訳だけど、俺たちは難しい音楽をやってる訳じゃなくて、単純な音楽をやってる訳でさ。ロックンロールって楽しけりゃイイんじゃないの? って思ってたから、学ばせてもらったことや覚えて世間が広がると思ったことはちゃんと吸収したけど、やっぱ第一に自分たちがやってて楽しいと思える音楽をやるべきだと思ってたから、そこを突き通したところが功を奏した感じだったね。
◆インタビュー(2)へ
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