いい音爆音アワー vol.108 「なっとく♪バンド名物語」
メンバーそれぞれが候補を持ち寄って、話し合うってのが一般的かと思います。多数決で決めようとなるかもしれません。だけど、誰かのアイデアが皆の賛同を得てすんなりと決まる、なんてことは滅多にありません。そもそもどんな名前を持ってきてもまず違和感があるのは当たり前。それでいて、無限の選択肢✕人数分があるわけですから、決まりようがない。
そうすると、方法としては他人に決めてもらうというのがひとつあります。自分たちでは結論出せないから、第三者に委ねて、明らかにイヤなら別だけど、「よく分からない」くらいならOKにしてしまう。名前なんてどうせ他人が使うんですから。
それから、どこかから借りてくるという方法もあります。映画とか小説とか、それこそ音楽から。私がドラムを担当している「おやじバンド」は“This Old Heart of Mine“という名で、これは私が提案したものなんですが、曲名です。アイズレー・ブラザーズがオリジナルのソウルの名曲。こういう言葉には世の中の風雪にさらされて存在してきたという重みのようなものがあるので、名付けの違和感を払拭してくれます。「名前負け」するかもしれませんが。
で、不思議なのが、どんなバンド名だろうが、時間が立つとしだいに馴染んできて、やがてはそれ以外にはありえないくらいに思えてくること。そういうものなんだから、と最初から割り切れれば楽なんでしょうが、それがそうもいかないのが人間というものですね。
そういうわけで、よーく知られたあのバンド名の陰にも、他人の手を借りたり、どこかから拝借したり、決めてから後悔したりと、様々な物語があったようです。
セットリスト
- Derek and the Dominos「Little Wing」初コンサート当日に、司会者が決めたバンド名♪
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アルバム『Layla and Other Assorted Love Songs(いとしのレイラ)』(1970年11月9日発売)収録
デレク・アンド・ザ・ドミノス:
作詞・作曲:Jimi Hendrix/プロデュース:Tom Dowd, Derek and the Dominos
レーベル:Atco
アルバムは全米16位
*1970年6月14日、ロンドンの「Lyceum Theatre」で行われたチャリティイベントが、バンドの初ライブだった。会場のビルボードには""Eric Clapton and Friends""と表記されていたが、それは仮名。その頃注目を浴びることに疲れ、なるべく目立ちたくなかったエリックは、自分の名前を前面に出したくなく、バンド名はまだ決まらず、楽屋でも議論が続いていた。
エリックの友人でもあった当日の司会者、Jeff Dexterがエリックに「どういう名前で紹介すればいい?」と訊きにいくと、楽屋にいた人たちが一斉にいろんな名前を叫び始めた中に”Del and the Dynamics”というのがあった。前座の“Ashton, Gardner and Dyke”のメンバーでピアニストのTony Ashtonの案だった。前年の""Delaney & Bonnie and Friends""のツアー中、エリックが“Derek”という愛称で呼ばれ、それがしだいに“Del”になっていったことを、ジェフは知っていた。しばらくのやりとりの後、ジェフが、""Derek and the Dominos""の方がよいと提案し、エリックはすぐにその名前を気に入った。だが他の3人(すべてアメリカ人)は、ドゥーワップのグループと間違われるのでは?と心配していたそうだ。
がっかりしたのは“Cream”の頃からのマネージャー、Robert Stigwood。彼はバンドの最初のシングルの発売記者発表の席ですべての関係者に“Derek is Eric”と書かれたバッジを配ったそうだ。
“Cream”解散後、1969年に結成した“Blind Faith”(Eric Clapton, Steve Winwood, Ginger Baker, Ric Grech)もアルバム1枚で崩壊、クラプトンは、“Blind Faith”のアメリカツアー時に前座を務めた“Delaney & Bonnie and Friends”に参加した。
1970年、その“Delaney & Bonnie and Friends”もやがて分裂し、メンバーのボビー・ホイットロックBobby Whitlock (key,vo)は4月、スティーヴ・クロッパーSteve Cropperの薦めで、渡英、クラプトンを訪ね、サレー州の彼の自宅に滞在。2人は曲作りを始める。
“Delaney & Bonnie and Friends”の後、「Joe Cocker's Mad Dogs and Englishmen tour」に参加していたカール・レイドルCarl Radle (b)とジム・ゴードンJim Gordon (dr)を呼び寄せ、バンド結成を準備しつつ、
同年5月、ジョージ・ハリスンのアルバム『All Things Must Pass』に参加する。
同年6月14日、ロンドンのライセアム・シアターで行われたチャリティイベントが初ライブ。“Derek and the Dominos”という名前が決まる。
同年8月、トム・ダウドTom Dowdをプロデューサーとして、マイアミのクライテリア・スタジオでレコーディング。ちょうど、“The Allman Brothers Band”がコンサートのために町を訪れており、ダウドがクラプトンにデュエイン・オールマンDuane Allmanを紹介する。意気投合し、デュエインがレコーディングに参加。
1971年、2nd アルバムのレコーディング中にクラプトンとゴードンが激しい口論となったことで制作は中止、バンドは解散した。
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- The Doobie Brothers「China Grove」酷い名前と思いつつ、後で変えるつもりが何も思いつかなかった…。
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第2弾シングル(1973年7月25日発売)
ドゥービー・ブラザーズ:
3rd アルバム『The Captain and Me』(1973年3月2日発売)収録
作詞・作曲:Tom Johnston/プロデュース:Ted Templeman
レーベル:Warner Bros.
全米8位 アルバムは全米7位
*“doobie”はマリファナの俗語。バンド名をメンバーの誰もが考えあぐねている中、そばに住んでいたミュージシャン仲間のKeith Rosenが、「おまえらいつもマリファナ吸ってんだから、“The Doobie Brothers”でいいじゃん」と(冗談で)提案。メンバー全員が酷い名前だと思ったが、まぁ2、3回ライブで使っている間に誰か何か思いつくだろう、と暫定採用のつもりだったのが、結局誰も何も考えつかなかった。
1969年、ドラマーのジョン・ハートマンJohn Hartmanがギター&ヴォーカルのトム・ジョンストンTom Johnstonと出会い、意気投合、ベーシストを加えたトリオで、サンホセ界隈でライブを展開する。
1970年、ギター&ヴォーカルのパトリック・シモンズPatrick Simmonsとベースのデイヴ・ショグレンDave Shogrenが加入。
1971年、ワーナーと契約。4月に1st アルバム『The Doobie Brothers』リリース。
ダブル・ドラムにしようということになり、もう一人のドラマー、マイケル・ホサックMichael Hossackを加入させる。
同年10月、2nd アルバムの制作に入るが、途中ショグレンがプロデューサーのテッド・テンプルマンと衝突、バンドを離れる。12月、後任のベーシストとしてタイラン・ポーターTiran Porterが加入。
1972年7月1日、2nd アルバム『Toulouse Street』リリース。シングル「Listen to the Music」、「Jesus Is Just Alright」がヒット。
1973年3月、3rd アルバム『The Captain and Me』リリース。大ヒット。
ホサックが突然脱退、9月に後任、キース・ヌードセンKeith Knudsenが加入。
1974年2月、4th アルバム『What Were Once Vices Are Now Habits(ドゥービー天国)』リリース。シングル「Black Water」が全米1位。
同年、“Steely Dan”を離れたジェフ・バクスターJeff “Skunk” Baxterが3人目のギタリストとなる。
1975年5月、5th アルバム『Stampede』リリース。
同年春、ジョンストンが健康を損ね、バクスターの紹介でマイケル・マクドナルドMichael McDonaldが加入。
1976年3月、6th アルバム『Takin' It to the Streets』リリース。
1977年8月、7th アルバム『Livin' on the Fault Line』リリース。リリース前にジョンストン脱退。ローディだったボビー・ラカインドBobby LaKind (per)を準メンバーに。
1978年12月、8th アルバム『Minute by Minute』リリース。全米1位獲得。シングル「What a Fool Believes」がメガヒット、全米1位と1980年グラミー賞の「Record of the Year」と「Song of the Year」を獲得。
バクスターとハートマンとラカインドが脱退。ジョン・マクフィーJohn McFee (g)とチェット・マクラッケンChet McCracken (dr)、コーネリアス・バンパスCornelius Bumpus (key, sax)が加入。80年になってラカインドが復帰。
1980年9月17日、9th アルバム『One Step Closer』リリース。全米3位。
ポーターが脱退。後任にセッション・ベーシストのウィリー・ウィークスWillie Weekが加入。
1981年末、シモンズも脱退し、オリジナル・メンバーがいなくなった。マクドナルドもソロ活動を希望し、1982年、「Farewell Tour」を行った後、解散。
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- Led Zeppelin「The Crunge」“The Who”のメンバーのつぶやきとマネージャのアイデアで決定。
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5th アルバム『Houses of the Holy(聖なる館)』(1973年3月28日発売)収録
レッド・ツェッペリン:
作詞・作曲:John Bonham, John Paul Jones, Jimmy Page, Robert Plant/プロデュース:Jimmy Page
レーベル:Atlantic
アルバムは全米1位、全英1位、オリコン3位
*すぐにでも新しいバンド名を考えねばならない状況の中、ジミー・ペイジの最初の計画…ペイジ、ジェフ・ベック、“The Who”のキース・ムーンKeith Moon (dr)とジョン・エントウィッスルJohn Entwistle (b)、ヴォーカルにスティーヴ・ウィンウッドSteve Winwoodとスティーヴ・マリオットSteve Marriottを入れるというスーパーグループ案に対し、ムーンとエントウィッスルが、そんなバンドは “go down like a lead balloon”(“lead balloon”は“悲惨な結末”という意味の慣用語)と発言したのを受け、“lead balloon”から、マネージャのピーター・グラントが“lead”を“リード”と読み間違えられないように、“led”と縮め、“balloon”をより印象的な“zeppelin”と変えてバンド名とすることにした。
Jimmy Page(1944年1月9日 英国ミドルセックス州出身)
John Paul Jones(1946年1月3日 英国ケント州出身)
Robert Plant(1948年8月20日 英国スタッフォードシャー州出身)
John Bonham(1948年5月31日 - 1980年9月25日 英国ウォーセスターシャー州出身)
1966年、スタジオ・セッション・ギタリストとして活躍していたジミー・ペイジが、“The Yardbirds”に、ベースのPaul Samwell-Smithの後任として加入。程なくギターに転向し、ジェフ・ベックとのツインギター体制となるが、同年10月、ベックが抜けると、バンドに倦怠ムードが見えてくる。
1967年7月7日、ベドフォードシャー大学でのギグを最後に“The Yardbirds”が解散するが、まだスカンジナビアでのいくつかのコンサート契約が残っていたので、キース・レルフ (vo)とジム・マッカーティ (dr)は、ペイジとクリス・ドレヤ (b)に後を託す。
ペイジはテリー・ライドTerry Reid (vo)を誘うが、彼は断り、代わりに“Band of Joy”のロバート・プラントを推薦した。プラントは承諾し、同じ“Band of Joy”のドラマー、ジョン・ボーナムを推薦する。
やがてドレヤが写真家になると脱退。するとジョン・ポール・ジョーンズが、妻の薦めに従って、加入を打診してきた。ペイジは快諾。
1968年9月7ー24日、“The New Yardbirds”としてスカンジナビア・ツアーを行う。
帰国後、すぐにアルバムを録音。9日間で完成し、制作費はペイジが負担した。
1968年10月25日、サリー大学でのコンサートで、初めて“Led Zeppelin”と名乗る。
同年11月、グラントは、現在のお金で約1億円という、新人としては史上最高の契約金で、Atlantic Recordsと契約を果たす。
同年12月、やはりグラントがマネジメントしていたジェフ・ベックがヴァニラ・ファッジとの米国ツアーに参加できなくなり、代わりとしてツェッペリンを送り込み、26日から参加させた。このツアーでツェッペリンは爆発的な評判を呼び、デビューアルバムに5万枚の予約が入った。
1969年1月12日、1st アルバム『Led Zeppelin』リリース。全米10位、全英6位。
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- 10cc「Rock n' Roll Lullaby」レコード会社の社長の夢から♪
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4th アルバム『How Dare You!(びっくり電話)』(1976年1月発売)収録
テン・シー・シー:
作詞・作曲:Graham Gouldman, Eric Stewart/プロデュース:10cc
lead vocal: Kevin Godley, Eric Stewart
レーベル:Mercury
アルバムは全英5位、全米47位
*72年に契約したUK Recordsの社長ジョナサン・キングJonathan Kingが、「ロンドンのハマースミス・オデオンの前に立っていて、見上げるとビルボードに"10cc The Best Band in the World"と掲示されていた」という夢を見たから。
Kingは“Genesis”も発掘し、名前をつけ、1st アルバムをプロデュースしている。
1972年8月4日、シングル「Donna(ドナ)」でデビュー。全英2位のヒット。
1973年7月、1st アルバム『10cc』リリース。3rd シングル「Rubber Bullets」は全英1位に。
1974年5月、2nd アルバム『Sheet Music』リリース。全英9位・全米81位マーキュリー・レコードに移籍し、1975年3月11日、3rd アルバム『The Original Soundtrack』リリース。シングル「I’m Not in Love」が全英1位、全米2位の大ヒットとなり、全米ツアーも成功をおさめ、バンド絶頂期を迎える。
1976年1月、4th アルバム『How Dare You!(びっくり電話)』リリース。引き続き好成績を上げるが、バンド内に意見の相違が生じ、ケヴィンとロルが脱退。彼らは”Godley & Creme”として活動を始める他、1980年代はプロモーション・ビデオの監督業で大成功することになる。
1977年4月、5th アルバム『Deceptive Bends(愛ゆえに)』リリース。
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- Stuff「How Long Will It Last」コーネル・デュプリーの奥さんの意見。
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1st アルバム『Stuff』(1976年発売)収録
スタッフ:
作曲:Eric Gale/プロデュース:Herb Lovelle, Tommy LiPuma
レーベル:Warner Bros.
ビルボードACチャート18位 アルバムは全英73位、他はチャートインせず。
*結成当時は”The Encyclopedia of Soul”という名だったが、レコード会社から長すぎると言われ、ダイナーでどうしようかと話している時、コーネル・デュプリーCornell Dupreeの奥さんのエルマErma Dupreeがリーダーのゴードン・エドワーズに、「ゴードン、あなたはいつも誰のことも“stuff”って呼ぶじゃない。だからバンドも“stuff”にすればいいのよ」と発言したことから。
1970年代、ゴードン・エドワーズGordon Edwardsとコーネル・デュプリーCornell Dupreeが”The Encyclopedia of Soul”というバンド名で、ニューヨークの「Mikell's」というクラブで月〜木でレギュラー出演するようになる。いろんなミュージシャンが参加し、初期はメンバーが流動的だったが、70年代半ばには、エドワーズ (b)、デュプリー (g)、リチャード・ティーRichard Tee (key)、エリック・ゲイルEric Gale (g)、クリス・パーカーChris Parker (dr)というメンバーに固定化していく。ある時期、パーカーが“Brecker Brothers”のツアーのため参加できなくなったので、スティーヴ・ガッドSteve Gadd (dr)を紹介する。パーカーが戻ると、デュプリーの案で、ツインドラム編成とした。
1976年7月2日、スイスの「Montreux Jazz Festival」に出演。好評で、Warner Bros.との契約も決まる。その際、”The Encyclopedia of Soul”は長すぎると言われ、”Stuff”と改める。
同年、アルバム『Stuff』でデビュー。
1977年、ヴァン・マッコイとチャーリー・チップスのプロデュースで、2nd アルバム『More Stuff』をリリース。
1978年、スティーヴ・クロッパーのプロデュースで、3rd アルバム『Stuff It』をリリース。
同年、東京郵便貯金ホールで行ったライブが、『Live Stuff』としてアルバム化された。
1980年、彼らの出自である「Mikell's」でのライヴを収録したアルバム『Live in New York』リリース。その後、メンバー多忙により、自然崩壊。
1993年、リチャード・ティーが前立腺癌のため、死去。
1994年、エリック・ゲイルが肺ガンの為、死去。
2011年、コーネル・デュプリーが肺気腫のため、死去。
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- チューリップ「サボテンの花」考えてみたら女の子か幼稚園児のバンドみたい…
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9th シングル(1975年2月5日発売)
Tulip:
作詞・作曲:財津和夫/編曲:チューリップ
レーベル:東芝EMI
オリコン19位
*子供が最初に描く絵と言えばチューリップだろう、という理由。また「ビートルズのレコード会社が”Apple”だから……と色々考えて、”パイナップル”、いや違うなー、”チューリップ”、お、これいいんじゃないか!と思いついた」というような財津の発言もある。しかし実はつけた後で、女の子のバンドや幼稚園児のバンドに思われると、後悔していたらしい。
・1993年、フジテレビ系ドラマ「ひとつ屋根の下」の主題歌に使われ、リバイバルヒットした。しかしドラマで使われているのは財津和夫がソロでリメイクしたバージョン。
1968年12月、福岡市で田中孝二、財津和夫、吉田彰、末広信幸が”ザ・フォーシンガーズ”を結成。第3回全日本ライト・ミュージック・コンテストに出場し、九州代表としてグランプリに進出する。グランプリ1位は”赤い鳥”、2位は”オフコース”だった。
何度かのメンバー・チェンジの後、財津 (vo,key,g)、姫野達也 (vo,g,key)、安部俊幸 (g)、上田雅利 (dr)、吉田彰 (b)の5人にまとまり、“チューリップ”と改称して、シンコー・ミュージック初の専属アーティストとなり、東芝音楽工業とレコード契約、1972年、上京する。
1972年6月、シングル「魔法の黄色い靴」でデビュー。
1973年4月、3rd シングル「心の旅」が大ヒット。
その後、「青春の影」(1974年)、「サボテンの花」(1975年)、「虹とスニーカーの頃」(1979年)などのヒットを輩出。
1989年、解散。
1997年、再結成。
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- The Buggles「Video Killed the Radio Star(ラジオスターの悲劇)」いちばんしょうもない名前がパンクだと、勢いでつけたものの、口にするたび後悔した…
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1st シングル(1979年9月7日発売)
1st アルバム『The Age of Plastic(旧邦題:プラスティックの中の未来)』(1980年1月10日発売)収録
作詞・作曲:Geoff Downes, Trevor Horn, Bruce Woolley/プロデュース:The Buggles
レーベル:Island
全英1位、全米40位、オリコン25位 アルバムは全英27位、オリコン35位
*初めは”The Bugs”だった。スタジオで時々トラブルをもたらす、想像上の虫のことだ。だけどある時、誰かが冗談で「The BugsじゃあThe Beatlesほどビッグにはなれっこないなー」と言ったので、それじゃあと、”The Buggles”にした。後日ホーンは語る。「酷い名前だと思う。でも当時はパンク的な考え方が蔓延していた時代だったんだ。だからバンド名も思いつくいちばんしょうもないものにしようと考えた。あとで、自分がBugglesだと口にするたびに後悔したよ。でもあの頃は、パッケージだとか売ることだとかどうでもよかった。音だけがだいじだったんだ」
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- RCサクセション「トランジスタラジオ」中学時代からの歴史が刻まれた名前♪
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11th シングル(1980年10月28日発売)
RC Succession:
4th アルバム『PLEASE』(1980年12月5日発売)収録
作詞・作曲:忌野清志郎、G.1,238,471/編曲:RCサクセション
レーベル:キティ
オリコン86位 アルバムはオリコン21位
*忌野清志郎が、「ある日、作詞しよう」がなまったとか 「ある日サクセスしよう」がなまったとか、はたまた「Red Crocodile Succession(赤いワニの連続)」の省略だとか、聞かれる度にいろいろ言っているが、いずれもデタラメ。本当は……1966年、中学の同級生だった小林和生(b)、破廉ケンチ(g)と“The Clover”を結成→1967年、高校進学により“The Clover”解散。清志郎と小林は、上級生の武田清一(のちに“日暮し”でデビュー)を迎えて“The Remainders of the Clover(クローバーの残党)”を結成→1968年、さらにそれが自然消滅した後、破廉がバンドに戻り、“The Remainders of the Clover Succession(The Remainders of Cloverのつづき)”とし、あまりに長いので略して“RCサクセション”とした。
1970年3月5日、”RCサクセション”、「宝くじは買わない」で東芝音楽工業よりデビュー。ホリプロに所属。
1972年2月5日、3rd シングル「ぼくの好きな先生」リリース。ちょっとヒット。
同月、1st アルバム『初期のRCサクセション』をリリース。
同年12月、2nd アルバム『楽しい夕に』リリース。
1973年、忌野清志郎が井上陽水と共作した「帰れない二人」「待ちぼうけ」の2曲を含む陽水のアルバム『氷の世界』 リリース。日本音楽史上初のミリオンセラー・アルバムとなる。
1974年、担当マネージャー:奥田義行が井上陽水を連れてホリプロから独立、「りぼん」設立。そのとばっちりでRCは事実上活動停止。その間、アルバム『シングル・マン』を制作。
1976年、ホリプロを辞め、りぼんに移籍。レコード会社もポリドールに移籍し、4月21日、ようやく、3rd アルバム『シングル・マン』がリリースされるが、1年を待たず廃盤となってしまう。
1977年、破廉が脱退。
1978年、春日博文(g)と新井田耕造(dr)が加入。仲井戸“CHABO”麗市(g)もサポートで参加し、フォークからロックへバンドの音楽がガラリと変わる。
1979年、春日に代わり、小川銀次(g)が加入。”古井戸”の解散とともに仲井戸が正式加入。
同年8月、音楽評論家の吉見佑子を中心に「シングル・マン再発売実行委員会」が設立され、ポリドールと折衝の末、限定300枚買上げという形でやっと再発売が実現、同年末に、青山の「パイドパイパーハウス」と国立の「レコード・プラント」でのみ発売されるが、1,500枚まで売り上げ、1980年に正式に再発売となる。
1980年1月21日、シングル「雨あがりの夜空に」リリース。
同年4月5日、東京・久保講堂でライブ録音を行い、同年6月、アルバム『RHAPSODY』としてリリース。
小川が脱退。それまでサポート・メンバーとして参加していたGee2woが正式加入。
同年10月28日、シングル「トランジスタ・ラジオ」リリース。
同年12月、アルバム『PLEASE』リリース。
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- GO!GO!7188「大人のくすり」ポケベルで“557188”と打つと“のま♥”で…
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3rd アルバム『鬣(たてがみ)』(2003年2月26日発売)収録
ゴーゴーなないちはちはち:
作詞:浜田亜紀子/作曲:中島優美/編曲:GO!GO!7188
レーベル:東芝EMI
アルバムはオリコン5位
*メンバーは秘密としているが、ポケベルで”557188”と入力すると、「のま♥」になる。そして、後にアッコが結婚する人の姓は”野間”。
1998年6月、鹿児島県立松陽高校の同級生であった中島優美=ユウと浜田亜紀子=アッコを中心に前身となる5人組ガールズバンドを結成。高校卒業を機に解散。
1999年、2人は短大に進み、YAMAHA主催の「TEENS' MUSIC FESTIVAL」に出場、大賞獲得は逃したが、デビューにつながる。デビュー決定に伴い、ターキーが加入する。
2000年2月、上京。月間最高14回という驚異的なペースでライヴ活動を展開。
同年6月28日、シングル「太陽」でデビュー。
同年10月25日、3rd シングル「こいのうた」リリース。翌年にかけロングヒット。
同年12月6日、アルバム『蛇足歩行』をリリース。
2002年10月9日、8th シングル「浮舟」リリース。多数のメディアで取り上げられる。
2003年2月26日、3rd アルバム『鬣』リリース。オリコン5位のヒット。
2004年11月21日〜翌年1月28日まで、初の日本武道館(12月21日)を含む「ごんぶとツアー」を敢行。
2006年10月1日、アッコが結婚を発表。
2007年3月、初の米国ツアー。「SXSW Japan Nite」を含む全米5都市6公演を敢行。
同年8月、2度目の米国ツアー。ペンシルバニアで行なわれた「MUSIKFEST 2007」においてヘッドライナーとして出演。
2009年、全国ツアー「ヘンテナツアー09」中の5月にアッコが裂孔原性網膜剥離により緊急入院。
2012年2月10日、ユウが脱退し、解散。
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- PIZZICATO V「The Audrey Hepburn Complex」メンバーは4人だったけど、DX-7のピチカート音がなくてはならない5人目ってことで。
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1st 12inch シングル(1985年8月21日発売)
ピチカート・ファイヴ:
作詞・作曲:小西康陽、高浪慶太郎/プロデュース:細野晴臣
レーベル:Non Standard(テイチク)
*1984年、小西康陽、高浪慶太郎、鴨宮諒、佐々木麻美子の4人で結成。人間は4人だったが、DX-7というYAMAHAのデジタルシンセサイザーの、ピチカート(弦を指で弾く奏法)の音色が好きで、5人目のメンバーのように重要な存在だったということで。
・デビューから1987年までは”PIZZICATO V”という表記だった。
1985年、テイチク/ノン・スタンダードレーベルより、細野晴臣のプロデュースで、12インチ・シングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でデビュー。
1986年、CBS・ソニーへ移籍。
1987年、1st アルバム『couples』をリリース。全く売れず。
鴨宮諒と佐々木麻美子が脱退。既に“オリジナル・ラヴ”での活動を開始していた田島貴男を2代目ヴォーカルに迎える。
1988年、2nd アルバム『Bellissima!』をリリース。
1989年、3rd アルバム『女王陛下のピチカート・ファイヴ』リリース。
1990年、4th アルバム『月面軟着陸』リリース。
一部では熱狂的に支持されるが、商業的な成果を残せなかった。
同年、日本コロムビア/SEVEN GODS(後にTRIADレーベル)に移籍。
田島貴男が“オリジナル・ラヴ”での活動に専念するため脱退。元“ポータブル・ロック”の野宮真貴を3代目ヴォーカルに迎える。
1993年4月、「スウィート・ソウル・レヴュー」リリース。カネボウ化粧品「REVUE」シリーズ春のキャンペーンソングとなり、スマッシュ・ヒット。
同年6月、アルバム『ボサ・ノヴァ 2001』リリース。オリコン7位。
同年12月、「東京は夜の七時」リリース。フジテレビ系子供番組「ウゴウゴルーガ2号」のオープニング曲に採用された。
1994年、ミニアルバム『5×5』を米Matador Recordsからリリース(北米デビュー)。
同年、アルバム『MADE in USA』リリース。全世界での売上げが20万枚に達した。
同年9月、アルバム『Overdose』リリース。
同年10月、高浪が脱退。小西、野宮の2人で活動することに。
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- 一風堂「すみれ September Love」渋谷のディスカウントストアから。そして、このバンドからラーメン屋に。
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6th シングル(1982年7月21日発売)
IPPU-DO:
8th アルバム『Hejira(逃避行)』(1976年11月発売)収録
作詞:竜真知子/作・編曲:土屋昌巳
レーベル:Epicソニー
オリコン2位
*渋谷にあるディスカウントストア「一風堂」の名前をいただいた。博多ラーメンのチェーン店「博多一風堂」(1985年創業)は創業者が”一風堂”を好きで、その名前にした。
・カネボウ化粧品「レディ80・パウダーアイシャドウ」(モデルはブルック・シールズ)のCMで使用される。
土屋昌巳 (g,vo):1952年8月22日、静岡県富士市生まれ
見岳章 (key,violin):1956年11月11日、東京都生まれ
藤井章司 (dr/元”スモーキー・メディスン”/1982年脱退):1954年4月7日 - 2009年2月6日(54歳没) 東京都生まれ
平田謙吾 (b/1979年脱退):1955年1月23日 - 2013年5月17日(58歳没) 広島市生まれ
赤尾敬文 (b/1980年脱退)
1979年 - バンド結成。当初は山本翔のバックバンドだった。
同年8月21日、1st シングル「もっとリアルに」リリース。その後、平田謙吾が脱退。
1980年3月31日、1st アルバム『NORMAL』リリース。
同年9月21日、3rd シングル「ミステリアス・ナイト」、2nd アルバム『REAL』同時リリース。
同年、赤尾敬文が脱退。
1981年7月21日、4th シングル「ラジオ・ファンタジー」、3rd アルバム『RADIO FANTASY』同時リリース。
1982年6月21日、土屋昌巳、ソロアルバム『RICE MUSIC』リリース。
同年7月21日、6th シングル「すみれ September Love」リリース。
同年9月22日、ベストアルバム『Lunatic Menu』リリース。オリコン3位。
同年12月10日、7th シングル「アイ・ニード・ユー」、2nd ベストアルバム『SOME-TIMES』同時リリース。
同年、藤井章司が脱退。
1983年7月21日、4th アルバム『ナイトミラージュ』リリース。
同年9月21日、9th アルバム「ドリーム・オブ・ザ・ジプシーズ」リリース。
1984年4月1日、10th シングル「ムーンライト・マジック」リリース。
同年7月21日、ライブアルバム『live and zen』リリース。これを最後にバンドを解散。
2009年2月6日、藤井章司が心筋梗塞のため急逝。満54歳没。
2013年5月17日、平田謙吾が死去。満58歳没。
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- Lynyrd Skynyrd「Workin' For MCA」高校時代、いつも叱られた憎きレオナルド・スキナー先生の名前をもじって。
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2nd アルバム『Second Helping』(1974年4月15日発売)収録
レーナード・スキナード:
作詞・作曲:Ed King, Ronnie Van Zant/プロデュース:Al Kooper
レーベル:MCA
アルバムは全米12位
*ヴォーカルのロニー・ヴァン・ザントRonnie Van Zantが“Leonard Skinnerd”という名を思いついた。これは、メンバーが通っていたフロリダ州ジャクソンビルのロバート・E・リー高校の体育教師、レオナルド・スキナーの名をもじったものである。その綴をさらにいじって“Lynyrd Skynyrd”に。スキナーは頭髪に関して厳しく、ギターのゲイリー・ロッシントンGary Rossingtonはいつも長髪を咎められ、うんざりして学校を辞めた。しかし後には仲良くなり、コンサートにスキナーを招待したりしている。また3rd アルバム『Nuthin' Fancy』の内側の写真に、スキナーが営んでいた不動産業の広告看板の写真を載せている。
1964年夏、米国フロリダ州ジャクソンビルで、ロニー・ヴァン・ザント(vo)、ゲイリー・ロッシントン(g)、アレン・コリンズAllen Collins (g)、ラリー・ヤンストロムLarry Junstrom (b)、ボブ・バーンズBob Burns (dr)の5人で結成。ボブの自宅倉庫で練習していたので、最初のバンド名は“Bob's Backyard”。
その後、“The Noble Five”→“One Percent”と変わる。
1968年、バンド・コンテストで優勝し、地元のローカル・レーベルからデビューした。
1969年、バンド名を”Lynyrd Skynyrd”とする。
1972年までにヤンストロムが脱退し、グレッグ・T・ウォーカーに代わり、さらにレオン・ウィルクソンLeon Wilkesonに代わる。また72年には、ローディだったビリー・パウエルBilly Powellがキーボーディストとしてメンバーとなった。
同年、アル・クーパーAl Kooperに見出される。クーパーはMCAとの契約を取り付け、1st アルバムをプロデュースした。
1973年8月13日、1st アルバム『Lynyrd Skynyrd (Pronounced 'Lĕh-'nérd 'Skin-'nérd)』をリリース。100万枚超を売り上げた。シングル「Free Bird」は全米19位のヒットとなった。
本アルバムで、ウィルクソンは体調不良のため2曲しか弾いておらず、残りのベースはギタリストのエド・キングEd Kingが弾いた。キングはそのまま、ギタリストとしてバンドに加入し、バンドは3人のギタリストを抱えることになった。
1974年4月25日、2nd アルバム『Second Helping』リリース。シングル「Sweet Home Alabama」はニール・ヤングの「Southern Man」へのアンサーソングで、全米8位に達した(バンド唯一のトップ10シングル)。
1975年1月、バーンズが脱退し、代わりにアーティマス・パイルArtimus Pyleが加入。
同年3月24日、3rd アルバム『Nuthin' Fancy』リリース。全米9位。クーパーとはここで袂を分かつ。
ツアーの途中でキングが離れる。
1976年1月、コーラス隊として“The Honkettes”(レズリー・ホーキンスLeslie Hawkins、キャシー・ゲインズCassie Gaines、ジョジョ・ビリングスリーJoJo Billingsley)が参加。
同年2月2日、4th アルバム『Gimme Back My Bullets』リリース。
キャシーの弟のスティーヴがキングの後任ギタリストとして加入。
同年9月13日、ライブアルバム『One More from the Road』リリース。
1977年10月17日、5th アルバム『Street Survivors』リリース。全米5位。
同年10月20日、ツアー中の飛行機(コンベア240)がミズーリ州マッカム近郊で燃料切れにより墜落し、ヴァン・ザント (29歳)、スティーヴ・ゲインズ (28歳)、キャシー・ゲインズらが死亡。バンドは解散した。
11月にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサートを開催する予定だった。
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- TOTO「I'll Supply the Love(愛する君に)」「オズの魔法使い」に登場する犬の名前から♪
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2nd シングル(1979年3月11日発売)
1st アルバム『Toto(宇宙の騎士)』(1978年10月15日発売)収録
作詞・作曲:David Paich/プロデュース:TOTO
レーベル:Columbia
アルバムは全米9位、全英37位、オリコン39位
*1st アルバムの曲ができて、最初にスタジオに入ってデモを録音した際、そのテープに、後ですぐに見つけられるよう、ジェフ・ポーカロが、たまたまその時観たばかりだった映画「オズの魔法使い」に登場する犬の名前だった”Toto”と書いた。アルバムの音が完成した時、まだバンド名が決まっていなかったが、デイヴィッド・ハンゲイトがそのテープの箱を見て、”toto”という言葉はラテン語では”total”とか”網羅的”という意味だから、メンバーがそれぞれあらゆるジャンルのたくさんの音楽でプレイしてきた我々にピッタリな名前では、と発言し、バンド名として採用することになった……と2012まで、公式サイトには書かれてあった。
スティーヴ・ルカサーは後に、「トイレのメーカーと同じだから好きじゃない」とぼやいている。
・lead vocal: Bobby Kimball
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- Uriah Heep「Easy Livin(安息の日々)」チャールズ・ディケンズの小説「デイヴィッド・カッパーフィールド」から。
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第2弾 シングル(1972年8月発売)
ユーライア・ヒープ:1967年、19歳だったミック・ボックスMick Box (g)が20歳のデイヴィッド・バイロンDavid Byron (vo)と出会い、意気投合、“Spice”を結成する。ポール・ニュートンPaul Newton (b)、アレックス・ネピアAlex Napier (dr)が加入。
4th アルバム『Demons and Wizards(悪魔と魔法使い)』(1972年5月19日発売)収録
作詞・作曲:Ken Hensley/プロデュース:Gerry Bron
レーベル: Bronze Records (UK) / Mercury (US)
全米39位 アルバムは全米23位、全英20位、オリコン28位
*チャールズ・ディケンズの小説「デイヴィッド・カッパーフィールド」の主要登場人物で、“おべっか使い”な人物の名前をいただいた。この名前をつけた1969年はディケンズの没後100周年にあたり、特にクリスマスの頃はディケンズの名が巷に溢れかえっていた。
(キース・リチャーズのギターFender Telecasterの名前"Micawber"も同小説の登場人物=Wilkins Micawber:書記官。貧乏だが、"something will turn up"といつも楽天的)
ジェリー・ブロンGerry Bronがマネージャーとなり、 Vertigo Recordsの新レーベルPhilipsとの契約をとりつける。
1969年末、“Uriah Heep”に改名、ケン・ヘンズレーKen Hensley (key, g)が加入。
1970年6月13日、1st アルバム『...Very 'Eavy ...Very 'Umble』をリリース。
この間、ドラマーがナイジェル・オルソンNigel Olsson(Elton Johnバンド)→キース・ベイカーKeith Bakerと代わり、さらに70年12月にはイアン・クラークIain Clarkに代わる。
1971年2月、2nd アルバム『Salisbury(ソールズベリー)』をリリース。
同年、Vertigoとの契約終了に伴い、ブロンが自主レーベル「Bronze Records」を立ち上げる。
同年11月、3rd アルバム『Look at Yourself(対自核)』をリリース。全英39位。
同年同月、ニュートン(b)が脱退、後任にマーク・クラークMark Clarkeが加入。同月にドラマーが、リー・カースレイクLee Kerslakeに代わる。
1972年2月、米国ツアーの途中でクラークが脱退。後任ベーシストにニュージーランド出身のゲイリー・セインGary Thainが加入。
同年5月19日、4th アルバム『Demons and Wizards(悪魔と魔法使い)』リリース。ロジャー・ディーンをアート・ワークに起用。全英20位、全米23位のヒット。シングル「Easy Livin'(安息の日々)」は全米39位。日本でもスマッシュ・ヒットとなった。
同年11月、5th アルバム『The Magician’s Birthday(魔の饗宴)』をリリース。再びアート・ワークはロジャー・ディーンが担当。
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- Steely Dan「Night by Night(ナイト・バイ・ナイト(夜ごと歩きまわるのさ))」ウィリアム・S・バロウズの小説「裸のランチ(The Naked Lunch)」から。
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3rd アルバム『Pretzel Logic(旧邦題:さわやか革命)』(1974年2月20日発売)収録
スティーリー・ダン:
作詞・作曲:Walter Becker and Donald Fagen/プロデュース:Gary Katz
レーベル:ABC
アルバムは全米8位
*ウィリアム・S・バロウズの小説「裸のランチ(The Naked Lunch)」(1959年)に登場する男性器の張型「Steely Dan III from Yokohama」に由来する。
“Soft Machine”もバロウズの小説「The Soft Machine」(1961年)より。
・Jeff Porcaroが“Steely Dan”に初参加した作品。このアルバムではこの曲だけ(他は全曲Jim Gordon。バンドのドラマーJim Hodderは「Parker's Band」のコーラスのみ)
Donald Fagen:東欧からのユダヤ系移民家庭
Walter Becker:ドイツ系
Jeff ""Skunk"" Baxter (g)、Denny Dias (g)、Jim Hodder (dr)、David Palmer (vo)
1972年10月、ABCレコードより、1st アルバム『Can’t Buy a Thrill』リリース。
パーマー脱退。
1973年7月、2nd アルバム『Countdown To Ecstasy』リリース。
1974年3月、3rd アルバム『Pretzel Logic』リリース。
この後、フェイゲンとベッカー以外のメンバーはバンドを離脱。
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- シュガー・ベイブ「DOWN TOWN」“The Youngbloods”の曲名から♪
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1st シングル(1975年4月25日発売)
シュガー・ベイブ:
1st アルバム『SONGS』(1975年4月25日発売)収録
作詞:伊藤銀次/作曲:山下達郎/プロデュース:大瀧詠一&山下達郎
レーベル:ナイアガラ
*ジェシ・コリン・ヤングJesse Colin Youngがいたフォーク・ロック・バンド“The Youngbloods”の2nd アルバム『Earth Music』(1967年5月発売)内の曲名を拝借した。
山下が常連で、シュガー・ベイブ誕生の場所となった四谷の「ディスクチャート」というロック喫茶には、やがてバンドのマネージャを努め、のちに「青山パイドパイパーハウス」を立ち上げる長門芳郎が勤めており、店内でよく流していた音楽のひとつが”The Youngbloods”だったと語っている。
The Rubettes「Sugar Baby Love」は1974年の作品で関係ない。
1972年8月、山下達郎が、村松邦男(g)、鰐川己久男(b)らとアルバム『Add Some Music to Your Day』を自主制作。
1973年3月、“シュガー・ベイブ”結成。メンバーは山下達郎、大貫妙子、村松邦男、鰐川己久男、野口明彦(dr)。
1974年10月5日、シュガー・ベイブがコーラス参加した荒井由実2nd アルバム『MISSLIM』リリース。
1975年4月25日、シュガー・ベイブ、アルバム『SONGS』を大瀧詠一のナイアガラ・レーベルよりリリース。
同年4月、鰐川と野口が脱退。代わって、寺尾次郎 (b)と上原裕(dr)が加入。伊藤銀次も加入するが在籍は2ヶ月。
同年、黒木真由美に2曲提供(初の楽曲提供)→アルバム『12のらくがき』(11月発売)
1976年3月、『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』リリース。
同年3月31日・4月1日、シュガー・ベイブ解散コンサート@荻窪ロフト
同年12月25日、山下達郎、1st ソロ・アルバム『CIRCUS TOWN』をRCA ⁄ RVCよりリリース。
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