内田裕也、お別れ会<Rock’n Roll 葬>にて「僕は今、あの世にいます」
4月3日(水)に東京・青山葬儀所にて、3月17日に肺炎のため亡くなったロックミュージシャン内田裕也(享年79)のお別れ会<内田裕也 Rock’n Roll 葬>が執り行われた。喪主は、娘の内田也哉子がつとめた。
◆<内田裕也 Rock’n Roll 葬> 画像
内田裕也は1939年11月17日に神戸市にて誕生し、のちにエルビス・プレスリーに憧れバンド活動を開始した。1958年には自らのバンド“ブルージーン・バップス”を結成。翌年、音楽フェスティバル<日劇ウエスタンカーニバル>に出演し、デビュー。1966年のビートルズの来日公演では、尾藤イサオらと前座として出演している。ヨーロッパ放浪ののち、1970年にフラワートラベリングバンドを結成して世界を目指した。1973年には悠木千帆(後に樹木希林)と結婚し、同年の大晦日から翌日の元旦まで開催した年越しロックイベント<フラッシュコンサート>が、現在の<NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL>の記念すべき第一回目となった。
内田裕也の活動は多岐にわたり、1977年には初の本格主演映画『不連続殺人事件』が公開され、企画・脚本・主演をつとめた1986年『コミック雑誌なんかいらない』はキネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン特別賞はじめその年の映画賞を独占した。1991年の東京都知事選挙立候補もインパクトが強く、無所属ではトップの54,654票を獲得。2009年には芥川賞作家モブノリオ氏と共作した『JOHNNY TOO BAD』(文藝春秋社)、近田春夫氏プロデュースの『俺は最低な奴さ』(白夜書房)を刊行した。また2012年には、内田裕也が内田裕也を演じたスニッカーズのCMが話題にもなった。
2014年に、29年ぶりにシングル盤「シェキナベイベー」を指原莉乃(HKT48)とのコラボレーション・デュエットとして発売。2018年の46回目の<NEW YEARS WORLD ROCK FESTIVAL>にて「朝日のあたる家」「コミック雑誌なんかいらない」「きめてやる今夜」「ジョニーB グッド」の4曲を歌い切り、これが最期のステージとなってしまう。また、先ごろ2018年9月15日には樹木希林を亡くし、コメントを発表していた。
内田は生前、自身の葬送について、元スパイダーズの田邊昭知を葬儀委員長に、共に業界を開拓してきた戦友たちに世話をしてもらいたい、“メジャーに盛大に!”と伝えていた。数々の著名人が見送られてきた青山葬儀所という場所も本人の指定だったようだ。
一般・ファン向けの前に、13:00より、関係者向けの会が実施された。会場には、弔辞を送った堺 正章、崔洋一、鮎川誠、歌を捧げたAIをはじめ、尾藤イサオ、北大路欣也、北野武、千原ジュニア、白竜、竹中直人、松田美由紀、氏神一番(カブキロックス)、ダイアモンド ユカイ、Zeebra、山本寛斎、青木功、浅野忠信、郷ひろみ、薬丸裕英、Char、JESSE、ラモス瑠偉、DJ KOO、田代まさしら多くの参列者が足を運んだ。
青山葬儀所内のメイン会場入り口には、横尾忠則がデザインした<フラッシュコンサート>ポスター(近年互いのサインを入れた現物)が飾られた。その周りにはロック・フォトグラファーであるボブ・グルーエンが撮影した写真が囲み、オノ・ヨーコ、ミック・ジャガー、デヴィッド・ヨハンセン、フランク・ザッパらの顔が並び、さらには写真家・浅井慎平が撮影したチャック・ベリーとのグループショットなども配された。
会で流された音楽も内田ならではだった。フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やプレスリー「監獄ロック」をはじめ、ビートルズやレッド・ツェッペリン、チャック・ベリーなど内田が愛した楽曲、また自身が歌う「朝日のあたる家」や「コミック雑誌なんかいらない」、フラワートラベリングバンドの「SATORI」、さらには内田と親交があったジョン・レノンの息子であるショーン・レノンのユニット“ザ・クレイプール・レノン・デリリウム”による「SATORI」のカバーなど、内田の影響力を物語る楽曲も含め構成された。
祭壇は、内田の原点であり集大成と言える<ニューイヤー・ロックフェスティバル>が表現された。横尾忠則によるその第一回目のポスターに描かれたエベレスト、ピラミッド、富士山などのパワースポットが並び、山々の中心には自身の生き方である「Rock'n Roll」の文字が添えられた。祭壇近くには愛用していた杖も展示された。その遺影は、写真家・若木信吾により2009年に出版された近田春夫プロデュースのインタビュー本『内田裕也 俺は最低な奴さ』のために撮り下ろされた写真を使用。それとともに、今回の別れの会をラストステージだと捉えると、「内田裕也の歴史を間近にし、今一度その存在感に触れて欲しい」という主催者からの思いから、動く遺影としてLEDモニターも設置され、在りし日の内田裕也が映し出された。
会の序盤では、内田裕也自らが登場するVTRが流され、「僕は今、あの世にいます。ロックンロールに生きて、ロックンロールで死んでいけたことに感謝しています」という特別なメッセージを述べた。
その後の弔辞では、内田裕也の歴史に精通した業界の代表として紹介された堺正章が、「あなたは、私たち後輩にとっては、よき手本でもあり、あしき手本でもありました」と語りかけると、「そのあしき手本の中にあなたの魅力がたくさん詰まっていた、今思い返すとそんな気持ちになっています。そして、よき手本としては、ロックンロールを貫いたということです。本来なら違う道もあなたの中にはあったのかもしれませんが、貫き通すということの大変さと誇りを身を以て我々に示してくれたようにも思います」と述べた。さらに、「昔、裕也さんは僕にこんなことを言ったことがあります。『堺、歌手として長生きするにはどうしたらいいかわかるか? ヒット曲を出さないことだ』。それもあなたは貫き通しましたね」と親交の深さがうかがえるエピソードを明かしてみせた。また、逝去した樹木希林についても、「あなた呼ばれたんですよ。あなた一人でこの世にいたら危ないって」と触れた。
弔辞は、晩年のドキュメンタリーも監督した崔洋一、シーナと共にニューイヤーロックでもメインアクトを毎年務めた鮎川誠が登場し、作品制作中にある横尾忠則のメッセージを、内田の娘婿である本木雅弘が代読した。それに続いて、出産後まもなく復帰前のAIが、スタッフ・遺族からの強い希望により「アメイジング・グレイス」を歌い上げた。AIは、夫である“カイキゲッショク”のリーダーHIROとの結婚の際に内田が二人の保証人をつとめたという間柄にある。
喪主の内田也哉子による謝辞が述べられたのち、参列者による献花が行われた。
また、謝辞全文が以下。
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■謝辞全文
私は正直、父をあまりよく知りません。「わかりえない」という言葉のほうが正確かもしれません。けれどそれは、ここまでともに過ごした時間の合計が数週間にも満たないからというだけではなく、生前、母が口にしたように「こんなにわかりにくくて、こんなにわかりやすい人はいない。世の中の矛盾をすべて表しているのが内田裕也」ということが根本にあるように思えます。私の知りうる裕也は、いつ噴火をするかわからない火山であり、それと同時に、溶岩の間で物ともせずに咲いた野花のように、清々しく無垢な存在でもありました。
率直にいえば、父が息をひきとり、冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。きっと、実感のない父と娘の物語が、はじまりにも気づかないうちに幕を閉じたからでしょう。けれども、今日、この瞬間、目の前に広がる光景は、私にとっては単なるセレモニーではありません。裕也を見届けようと集まられたお一人、お一人が持つ、父との交歓の真実が、目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。
父親という概念には、とうていおさまりきらなかった内田裕也という人間が、叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた震動を、皆さんは確かに感じ取っていた。
「これ以上お前は何が知りたいんだ」
きっと、父もそう言うでしょう…。
そして、自問します。私が唯一、父から教わったことは、何だったのか? それは、多分、大げさにいえば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。彼は破天荒で、ときに手に負えない人だったけれど、ズルい奴ではなかったこと。地位も名誉もないけれど、どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。
「これ以上、生きるうえで何を望むんだ」
そう、聞こえてきます。
母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかった、と申し訳なさそうにつぶやくことがありました。「こんな自分に捕まっちゃったばかりに…」と遠い目をして言うのです。そして、半世紀近い婚姻関係の中、折々に入れ替わる父の恋人たちに、あらゆるかたちで感謝をしてきました。私はそんな綺麗事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。まるで、はなから夫は自分のもの、という概念がなかったかのように。もちろん、人は生まれもって誰のものでもなく個人です。歴とした世間の道理は承知していても、何かの縁で出会い、メオトの取り決めを交わしただけで、互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑に落ちません。けれども、真実は、母がそのあり方を自由意志で選んだのです。そして、父もひとりの女性にとらわれず心身ともに自由な独立を選んだのです。
二人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、いまさらですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。
まるで蜃気楼のように、でも確かに存在した二人。私という二人の証がここに立ち、また二人の遺伝子は次の時代へと流転していく……。この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなかおもしろいものです!
79年という永い間、父がほんとうにお世話になりました。
最後は、彼らしく送りたいと思います。
Fuckin’Yuya Uchida,
don’t rest in peace
just Rock’n Roll!!!
2019年4月3日 喪主 内田也哉子
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内田裕也らしさが通底されたお別れ会<内田裕也 Rock’n Roll 葬>には、その後15:00からは一般のファンが、季節外れの寒波による寒空の下にもかかわらず多く足を運んだ。
なお、遺族が内田家菩提寺である光林寺住職に依頼した戒名は、「和響天裕居士」(ワキョウテンユウ コジ)とされた。宇治平等院の国宝・雲中供養菩薩をイメージし、「天上でも音楽を奏で続け平和を願う」という意味が込められている。樹木希林には「世を映し出す」という意味合いで「鏡」が用いられ、内田裕也には「世に響かせる」という意味合いで「響」の文字が本木夫妻からの希望で用いられた。
関連リンク
◆内田裕也 オフィシャルサイト