いい音爆音アワー vol.96 「心に刺さる♪キメ歌詞(ぜりふ)特集」
ところが、こんな聴き方でも時々、詞の言葉が、心に突き刺さってくることがあります。だから、歌詞の力を軽視しているわけではありません。ただ、それくらいでないと、いい歌詞とは言えないと思っています。
私の心に刺さった歌詞を集めてみました。刺さるためにはメロディや歌唱の魅力も関係してきますので、どれもいい曲だと思います。
英語の歌詞は、意味が判ったとしても、言葉の細かいニュアンスまでは、読み切る、あるいは感じる力がないので、やはり日本の曲が多くなりました。
セットリスト
- 金子潔「パイノパイノパイ(東京節)」意味わからないけど、みんな聞いたことあるよね?
- ∨
1918年(大正7年)発表
かねこ きよし:
作詞:添田知道/作曲:Henry Clay Work
・原曲は、1865年の「ジョージア行進曲(Marching Through Georgia)」(作曲:Henry Clay Work)。演歌師:添田唖蝉坊の息子、添田知道(添田さつき)が歌詞をつけた。それ以前も、既に1892年(明治25年)、「ますらたけを」というタイトルで軍歌として発表され、メロディは親しまれていた。
・「ラメ」は「デタラメ」の「ラメ」。他は不明……。
・いろんな人がカヴァー:榎本健一、森山加代子(1961)、なぎら健壱(1972)、ザ・ドリフターズ(1976)、猛毒(1992)、大工哲弘(1994)、ソウル・フラワー・モノノケ・サミット(1996)…
*刺さった歌詞:
ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ
パリコトパナナデフライフライフライ
バイオリン演歌師
長崎市出身。
13歳で添田唖蝉坊に弟子入り。
バイオリンを弾きながら、道やカフェーで歌い続けた。
1986年10月20日、死去。
「演歌師」とは:
明治末期ないし大正から昭和にかけての日本において、演歌を歌うことを職業とした芸人。
伴奏楽器はおもにバイオリンやアコーディオンで、自分で演奏しながら歌う形態が一般的だった。戦後はギターが用いられることが多くなった。
「演歌」とは:
元は19世紀末の自由民権運動の一環として、政府の圧力をかわすため主張を歌の形にしたプロテストソングで「演説歌」と呼ばれた。やがて題材は政治ではなく社会風刺に変わり、名称も「演歌」となる。
- ∨
- 二村定一「アラビヤの唄」何の理由もなく、突然「アラビヤの歌を唄おうよ」ですから。
- ∨
シングル 1928年(昭和3年)5月、日蓄(後の日本コロムビア)・ニッポノホンの鷲印レーベルより発売。
ふたむら ていいち:
同年10月、ビクターより発売、
同年11月、コロムビア・レーベルより再発売。
作詞:Fred Fisher/訳詞:堀内敬三/作曲:Fred Fisher
・「和製ジャズ」と呼ばれた。
・元はMGM映画「The Garden of Allah(受難者)」(1927年)の主題歌。ドイツ生まれの米国ソングライター:Fred Fisher(1875〜1942)が作った。
・1927年(昭和2年)、NHKがラジオ番組用に、音楽評論家の堀内敬三に訳詞を依頼。
・本国ではヒットせず、日本のみでヒットした。
*砂漠に陽が落ちて 夜となるころ
恋人よ なつかしい歌を唄おうよ
あのさびしい調べに 今日も涙流そう
恋人よ アラビヤの歌を唄おうよ
1900年(明治33年)6月13日、山口県下関市生まれ。
昭和初期を代表する歌手・ボードビリアン。
1920年、「浅草オペラ」に入団。
1928年(昭和3年)、ニッポノホン、ビクターで吹込んだ、堀内敬三訳詞による「私の青空(あほ空)」「アラビヤの唄」が大ヒット。
1929年、ビクターから発売された「君恋し」「浪花小唄」「神田小唄」が連続してヒットし、佐藤千夜子ともにレコード歌手第一号と呼ばれた。
1931年、榎本健一と2人で立ち上げた劇団「ピエル・ブリヤント」が大成功。映画界へ進出。しかし、エノケンの人気が先行したことが不満で、1940年、袂を分かつ。
太平洋戦争では満州に渡り、現地で終戦を迎える。
戦後、酒の飲み過ぎで体調を壊す。
1948年6月、公演中に吐血して入院。
1948年9月12日、死去。満48歳。
- ∨
- 菅原都々子「月がとっても青いから」歌詞も、この時18歳の菅原都々子の声も、とってもかわいいです。
- ∨
シングル(1955年4月発売)
すがわら つづこ:
作詞:清水みのる/作曲:陸奥明
レーベル:テイチク
・作曲の陸奥明は、菅原の父。
・市場規模が現在の30分の1だった時代に、100万枚超のヒットとなった。
*月がとっても青いから 遠廻りして帰ろう
1927年(昭和2年)8月6日、青森県上北郡三本木町(現・十和田市)生まれ。
9歳、オーディションのため上京し、古賀政男に認められ養女となる。
1937年、テイチクより”古賀久子”の名でデビュー。
1940年、養子縁組を解消、”菅原都々子”名義で再デビュー。
1945年3月、東洋音楽学校(後の東京音楽大学)を卒業。
1951年1月3日、第1回NHK紅白歌合戦に出場。
同年10月、「江ノ島悲歌(エレジー)」リリース。大ヒット。その後、エレジーものを続けてヒットさせ、「エレジー(悲歌)の女王」と呼ばれる。
1955年4月、エレジーも飽きられたので、「月がとっても青いから」リリース。大ヒット。
・・・
2018年8月18日、NHK「第50回思い出のメロディ」に出演。
- ∨
- 城卓矢「骨まで愛して」大ヒットして、普通に口ずさんでたけど、考えてみたらすごい詞ですな。
- ∨
1st シングル(1966年1月発売)
じょう たくや(本名:菊地正規):
作詞:川内康範/作曲・編曲:北原じゅん/プロデュース:川内康範
レーベル:東芝音楽工業
・売上140万枚と言われている。
・菊地正夫から城卓矢に改名しての再デビュー曲。
・川内康範は叔父。北原じゅんは兄。
・シングル・ジャケットには「川内康範原作 雑誌「女性自身」連載小説より」と…。
*骨まで 骨まで 骨まで愛してほしいのよ
1935年〈昭和10年〉11月28日、樺太(現在ロシア共和国サハリン州)生まれ
上京し、「NHKのど自慢」に出場してハンク・ウィリアムズの「Long Gone Lonesome Blues」を歌って満点を獲得、ウィリー沖山がいた”ブルー・コースターズ”に誘われ、加入。
1958年、日本劇場で行なわれた第1回「日劇ウエスタンカーニバル」に出演。
1960年、”菊地正夫”名義で、テイチクより「ひとりぼっちで」でデビュー。B面の民謡ロック「スタコイ節」が話題になる。
1963年、東芝音楽工業に移籍。
1966年1月、城卓矢と改名、心機一転「骨まで愛して」で再デビュー。140万枚の大ヒットとなる。
1971年3月発売のシングル「男ごころの唄」を最後に引退。赤坂でクラブを経営。
1978年、カムバック。
1989年5月9日、肝硬変および食道静脈瘤破裂により死去。満53歳没。
- ∨
- 伊東ゆかり「恋のしずく」この声で、このメロディで歌われるから、いいのかもしれませんが。
- ∨
シングル(1968年1月20日発売)
いとう ゆかり(本名:伊東信子):
作詞:安井かずみ/作曲:平尾昌晃/編曲:森岡賢一郎
レーベル:キングレコード
オリコン1位(4週連続)
*肩をぬらす 恋のしずく
濡れたままでいいの このまま歩きたい
きっとからだの 中までしみるわ
そしてあなたの あなたの言葉を
忘れないようにしたいの
1947年4月6日、東京都品川区生まれ。
幼少期から進駐軍キャンプで歌い始め、
1958年6月、11歳で、キングレコードより「かたみの十字架/クワイ河マーチ」でデビュー。その後、一時芸能活動を休止。
渡辺プロダクションに所属し、活動を再開。
中尾ミエ、園まりと3人で “スパーク3人娘” を結成。「シャボン玉ホリデー」や「歌え!一億」に出演。
1967年2月10日、「小指の想い出」リリース。爆発的なヒット。
1970年、渡辺プロダクションから独立。
1971年、佐川満男と結婚。
1976年、離婚。
2013年4月3日、歌手生活60周年記念アルバム『メモリーズ・オブ・ミー』リリース。
- ∨
- キャンディーズ「ハート泥棒」「負けそう」を2回、畳み掛けてくるところが好き。それだけー♫
- ∨
11th シングル(1976年9月1日発売)
キャンディーズ:
作詞:林春生/作曲:すぎやまこういち/編曲:船山基紀
レーベル:CBSソニー
オリコン17位
*私のハートは 負けそう 負けそうなのよ
伊藤蘭(ラン、1955年1月13日、東京都武蔵野市生まれ)
藤村美樹(ミキ、1956年1月15日、東京都世田谷区生まれ)
田中好子(スー、1956年4月8日 - 2011年4月21日、東京都足立区生まれ)
1973年9月1日、シングル「あなたに夢中」でデビュー。
1975年2月21日、5th シングル「年下の男の子」リリース。伊藤蘭をセンターに変更する。オリコン9位と初ヒット。
1976年3月1日、9th シングル「春一番」リリース。オリコン3位。
1977年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートの終了際、突然、涙の解散宣言。伊藤が発した「普通の女の子に戻りたい!」というフレーズは流行語になった。
1978年2月25日、17th & the Last シングル「微笑がえし」リリース。「全国キャンディーズ連盟」(全キャン連)を中心としたファンの強力な後押しにより、初のオリコン1位を達成。
1978年4月4日、後楽園球場に5万5千人を集め、解散コンサート=「ファイナル・カーニバル」が開催された。
- ∨
- John Lennon「Imagine」こんなに簡単な英語で、こんなに美しく、だいじなことが語れるなんて。
- ∨
シングル(米:1971年10月11日発売/英:1975年10月24日発売)
2nd アルバム『Imagine』(1971年9月9日発売)収録
作詞・作曲:John Lennon/プロデュース:John Lennon. Yoko Ono, Phil Spector
レーベル:Apple
全米3位、全英6位(75年/死後に1位)、オリコン14位
・原曲はビートルズ在籍時にすでに存在しており、1969年の「Get Back Session」で演奏されたテープが残っている。
・曲の歌い出しである「天国は存在しない」の部分が葬儀にふさわしくないとして、英国の葬儀では使用が禁止されている、らしい。
・ドラムはこの翌年に”Yes”に加入するAlan Whiteが叩いている。
*Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today... Aha-ah...
・・・
You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one
- ∨
- The Rolling Stones「It's Only Rock 'n Roll(But I Like It)」「たかが◯◯、されど◯◯」という言い方、この曲の後に一般的になったような気がします。
- ∨
先行シングル(1974年7月26日発売)
12th(英)/14th(米)アルバム『It's Only Rock 'n Roll』(1974年10月18日発売)収録
作詞・作曲:Jagger / Richards/プロデューサー:The Glimmer Twins
レーベル:Rolling Stones
全米16位、全英10位 アルバムは全米1位、全英2位
・最初、ロン・ウッドの自宅スタジオで録音、それがベーシックとして使われている。
・なので、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツ、ミック・テイラーは演奏していない。
・David Bowieがコーラスで参加している。
・”The Glimmer Twins” (=Jagger+Richards)でプロデュースした初のアルバム。
・1969年からストーンズのメンバーだったミック・テイラーが参加した最後のアルバム。
・1969年の8th アルバム『Let It Bleed』以来続いていた、全英アルバム連続1位の記録が途絶えた。
*I said I know it's only rock 'n' roll but I like it
I know it's only rock 'n' roll but I like it, like it, yes, I do
- ∨
- よしだたくろう「春だったね」私の青春時代の”座右の曲”です。
- ∨
アルバム『元気です。』(1972年7月21日発売)収録
よしだ たくろう:
作詞:田口叔子/作曲・プロデュース:吉田拓郎
レーベル:Odyssey/CBS Sony
アルバムはオリコン1位(14週連続、通算15週)、72年度年間2位
・作詞の田口叔子は謎の人。歌詞の一般公募で採用になったらしい。他には拓郎の「むなさしさだけがあった」とか柏原芳恵にも提供しているらしいが、数少なく、80年代以降は何も痕跡がない。素人さんのまぐれヒットだったか。
・オルガンは松任谷正隆。
・このアルバムからメジャー・レコード会社やマスコミがフォークをやたらに持ち上げ始めた。
*僕を忘れた頃に 君を忘れられない
そんな僕の手紙がつく
くもりガラスの窓をたたいて 君の時計をとめてみたい
ああ 僕の時計はあの時のまま 風に吹きあげられたほこりの中
二人の声も消えてしまった ああ あれは春だったね
1946年4月5日、鹿児島県大口市(現:伊佐市)生まれ。小学校3年時より広島市南区西霞町育ち。
1970年3月、ユーゲント・レーベルから”広島フォーク村”名義『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作。
1970年6月、エレック・レコードよりシングル「イメージの詩」リリース。
1970年11月、1st アルバム『青春の詩』リリース。
1971年7月、CBSソニーより3rd シングル「今日までそして明日から」リリース。
1971年10月、後藤由多加とともに音楽制作プロダクション「ユイ音楽工房」設立。
1971年11月、エレックより2nd アルバム『人間なんて』リリース。
1972年1月、CBSソニーより4th シングル「結婚しようよ」リリース。オリコン3位のヒットで、フォークがサブカルチャーからメインストリームへ浮上する分岐点となった。
1972年7月21日、CBSソニーより3rd アルバム『元気です。』リリース。
1974年1月、森進一に「襟裳岬」を提供。第16回日本レコード大賞を受賞。
1975年6月1日、吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげるが中心となって、「フォーライフ・レコード」を発足させる。
・・・
- ∨
- 渡辺真知子「迷い道」なんと言ってもド頭に「現在過去未来」。これで決まりです。
- ∨
デビュー・シングル(1977年11月1日発売)
わたなべ まちこ:
1st アルバム『海につれていって』(1978年5月2日発売)収録
作詞・作曲:渡辺真知子/編曲:船山基紀
レーベル:CBSソニー
オリコン3位
*現在過去未来 あの人に逢ったなら
私はいつまでも待ってると 誰か伝えて
まるで喜劇じゃないの ひとりでいい気になって
さめかけたあの人に 意地をはってたなんて
ひとつ曲がり角 ひとつまちがえて
迷い道くねくね
1956年10月23日、神奈川県横須賀市生まれ。
1975年、高校生時代にヤマハポピュラーソングコンテストに”PIA”というグループで参加。「オルゴールの恋唄」で審査員特別賞(川上賞)を受賞。
1977年11月1日、シングル「迷い道」でデビュー。
それ以前のフォーク/ニューミュージック系のアーティストと違い、テレビにも積極的に出演。
1978年4月21日、2nd シングル「かもめが翔んだ日」リリース。
1978年12月31日、「かもめが翔んだ日」で第20回日本レコード大賞最優秀新人賞。同日、第29回NHK紅白歌合戦に初出場し、「迷い道」を唄う。
1980年1月21日、7th シングル「唇よ、熱く君を語れ」リリース。カネボウ化粧品のCMイメージソング。
・・・
- ∨
- スピッツ「ロビンソン」「思い出のレコード」と「大げさなエピソード」だけで、いろんなことを思い出します。
- ∨
11th シングル(1995年4月5日発売)
スピッツ:
6th アルバム『ハチミツ』(1995年9月20日発売)収録
作詞・作曲:草野正宗/編曲:笹路正徳&スピッツ
レーベル:ポリドール
オリコン4位 アルバムはオリコン1位
・タイトルは歌詞と関係ないが、草野がタイを旅行した時、印象に残ったという「ロビンソン百貨店」から、仮タイトルとしてつけていたのが、そのまま正式採用された。
・160万枚を売上げ、”スピッツ”にとって最大のセールスを記録したシングルである。アルバムは169万枚の売上。
*新しい季節は なぜかせつない日々で
河原の道を 自転車で 走る君を追いかけた
思い出のレコードと 大げさなエピソードを
疲れた肩にぶらさげて しかめつらまぶしそうに
同じセリフ 同じ時 思わず口にするような
ありふれたこの魔法で 作り上げたよ
誰もさわれない 二人だけの国
君の手を離さぬように
大きな力で 空に浮かべたら
ルララ 宇宙の風に乗る
草野マサムネ (vo,g) 1967年12月21日、福岡市早良区生まれ
三輪テツヤ (g) 1967年5月17日、静岡県藤枝市生まれ
田村明浩 (b) 1967年5月31日、静岡県藤枝市生まれ
﨑山龍男 (dr) 1967年10月25日、栃木県佐野市生まれ
1987年、4人で”スピッツ”を結成。
1990年3月、新宿ロフトのインディーズ・レーベル「ミストラル」より、初CD『ヒバリのこころ』をリリース。
1991年3月25日、シングル「ヒバリのこころ」と、1stアルバム『スピッツ』を同時リリース。
1992年9月、3rdアルバム『惑星のかけら』をリリース。CDを出す度に売上が下がる。
1993年9月、4thアルバム『Crispy!』リリース。シングル「君が思い出になる前に」が初のオリコンチャート入りをし、ツアー動員も大幅に増え始める。
1994年4月、シングル「空も飛べるはず」をリリース。7万枚のスマッシュヒットとなる。
1995年4月、シングル「ロビンソン」リリース。初のオリコンチャートTOP10入り、通算30週以上チャートにランクインするロングセラーとなり、162万枚の大ヒットとなる。
同年9月、6thアルバム『ハチミツ』をリリース、オリコン1位、169万枚を売り上げる。 1996年1月、「空も飛べるはず」がフジテレビ系ドラマ「白線流し」の主題歌に起用され、オリコン1位となり、148万枚を売り上げる。
同年4月、シングル「チェリー」リリース。これも161万枚の大ヒット。
同年10月、7thアルバム『インディゴ地平線』をリリース。
・・・
- ∨
- 岡村靖幸「ラブ・タンバリン」「心に住んでる修学旅行が育つんだ」は天才フレーズだと思います。
- ∨
9th シングル(1989年4月21日発売)
おかむら やすゆき:
3rd アルバム『靖幸』(1989年7月11日発売)収録
作詞・作曲・編曲・プロデュース:岡村靖幸
レーベル:EPICソニー
アルバムはオリコン4位
・岡村が歌詞で目指すのは意味内容ではなくてグルーヴ。井上陽水の「氷の世界」を理想のひとつとする。しかしできるまでは四苦八苦し、「逃げたい」気持ちだという。
・2番に登場する「トラバドゥーラ」はおそらく「トルバドゥール troubadours」、11世紀末〜13世紀末の南フランスの吟遊詩人のこと。”競詩会”というのを行い、即興で詩を作り、メロディをつけて唄いあった。
*君が好きだよ 心に住んでる修学旅行が育つんだ
いつも いつでも 子供の頃から上達するため練習中だい
男の子なら絶対に誤魔化しちゃだめさ 苦しく切ない想いだけは
愛しちゃったんだろ? 言うチャンス今だぜ
逃すな So man’s Valentine’s everyday
愛情なくちゃね Uターンするだけ
鳴らすんだ 僕らのLove Love Tambourin 財宝掲げて
雨が降る日は 長靴の中に水たまりがありゃまだ10代
いつも いつでも 言葉の中から10ダースぐらいのトラバドゥーラ
・・・
1965年8月14日、兵庫県神戸市生まれ。
レコード会社にデモテープを持参して認められ、19歳で作曲家としてデビューする。渡辺美里、吉川晃司、鈴木雅之らに楽曲を提供。
1986年12月、EPICソニーより、シングル「OUT OF BLUE」でデビュー。
1987年3月、1st アルバム『yellow』リリース。
1988年3月、2nd アルバム『DATE』リリース。
1989年7月、3rd アルバム『靖幸』リリース。
1990年11月、4th アルバム『家庭教師』リリース。
1995年12月、5th アルバム『禁じられた生きがい』リリース。
2004年9月、約9年ぶりに6th アルバム『Me-imi』リリース。
2011年8月、「SWEET LOVE SHOWER 2011」に出演。
2013年10月、6年ぶりのシングル「ビバナミダ」リリース。
2016年1月、7th アルバム『幸福』リリース。
- ∨
- エレファントカシマシ「俺たちの明日」最高の友だちソングだと思います。
- ∨
34th シングル(2007年11月21日発売)
エレファントカシマシ:
18th アルバム『STARTING OVER』(2008年1月30日発売)収録
作詞・作曲:宮本浩次/プロデュース:YANAGIMAN
レーベル:ユニバーサルミュージック
オリコン18位 アルバムはオリコン7位
・ユニバーサル移籍第1弾シングル。
・オルガン:ドクターKYON
*さあ がんばろうぜ!
オマエは今日もどこかで不器用に
この日々ときっと戦ってることだろう
・・・
負けるなよ そうさ オマエの輝きはいつだってオレの宝物
・・・
負けるなよ そうさ オマエがいつかくれた優しさが今でも宝物
・・・
宮本浩次:1966年6月12日 東京都北区赤羽生まれ。
石森敏行(g):1967年3月18日 東京都北区赤羽育ち。
高緑成治(たかみどり せいじ b) 1966年4月15日 東京都中央区月島生まれ。
冨永義之(dr):1966年4月14日 東京都北区赤羽生まれ。
1981年、宮本、石森、冨永を含む中学のクラスメートで”エレファントカシマシ”結成。
1986年、冨永の高校時代の同級生だった高緑が加入し、現在のメンバーとなる。
同年12月、「CBS SONY SDオーディション」に入賞。
1988年3月21日、EPICソニーより、1st アルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』をリリース。
1994年5月、7th アルバム『東京の空』リリース。オリコン62位。これを最後にEPICから契約を打ち切られる。
フェイスとマネージメント契約。
1996年4月19日、ポニーキャニオンより、シングル「悲しみの果て」をリリースして再デビュー。
1997年7月、シングル「今宵の月のように」がオリコン8位、80万枚を超えるヒット。
1999年、東芝EMIに移籍。
2007年、ユニバーサルミュージックへ移籍。
同年11月21日、34th シングル「俺たちの明日」リリース。
2014年1月11日、さいたまスーパーアリーナでデビュー25周年記念ライブ。
2015年9月23日、47th シングル「愛すべき今日」リリース。オリコン9位で、「今宵の月のように」以来、18年ぶりのシングルTOP10入りとなった。
2017年、NHK紅白歌合戦に初出場。
2018年6月、23rd アルバム『Wake Up』リリース。オリコン4位。
- ∨
- 山下久美子「LOVER ステッカー」ここからは私にとっての”作詞家四天王”。まずは銀色夏生♪ キラキラ舞っているような言葉たち。
- ∨
6th アルバム『Sophia』(1983年7月21日発売)収録
やました くみこ:
作詞:銀色夏生/作曲:亀井登志夫/編曲:Hugh McCracken
レーベル:日本コロムビア
・ニューヨーク・レコーディング
・background vocal:カーリー・サイモン
*やめて 心変わりがため息を呼ぶのね
ルージュなあのしぐさも 今日は少し曇りがちね
I love you 競い合った お気に入り同士も
先に醒めたほうが勝ちね 作り笑顔が板につく
不義理なキャンディボイス 涙のベイビィフェイス
あのヒトならnext door
You say good-bye in your mind
後ろ姿でわかります
ヒールが高くなるほど 何かを見つけ 何かを失くす
チラリともあやまりもせず 歌うような人になれば
いいじゃない
1959年1月26日、大分県別府市生まれ。
1980年6月25日、日本コロムビア・BLOW UPレーベルより、シングル「バスルームから愛をこめて」、アルバム『バスルームから愛をこめて』同時発売でデビュー。
1982年4月1日、6th シングル「赤道小町ドキッ!」リリース。カネボウ化粧品のCMイメージソングに起用され、オリコン2位のヒット。
1983年7月21日、6th アルバム『Sophia』リリース。
・・・
- ∨
- 八代亜紀「舟唄」“作詞家四天王”二人目、阿久悠♫ ポップスも演歌もツボを外しません。
- ∨
シングル(1979年5月25日発売)
やしろ あき:
アルバム『舟唄』(1979年5月25日発売)収録
作詞:阿久悠/作曲:浜圭介/編曲:竜崎孝路
レーベル:テイチク
オリコン15位
・元々、阿久が「スポーツニッポン」で連載していた「阿久悠の実践的作詞講座」、これは歌う歌手を設定して詞を募集し、阿久が批評を加え、当選作はレコード化するというもの(企画:小西良太郎)で、阿久悠ならこう書くという作品も毎回掲載していたが、その「美空ひばり編」のときに、阿久が書いたものだった。
・それが小西から浜圭介の元に渡り、曲が作られた。美空ひばりを想定して書いた、ということを八代はおそらく知らなかった。
・この年のレコード大賞狙いで制作されたが、金賞どまりだった。しかし翌年「雨の慕情」(同じく阿久ー浜コンビ)が大賞を獲得した。
・八代本人は酒が呑めない。しかし炙ったイカは好きらしい。
*お酒はぬるめの燗がいい
肴はあぶったイカでいい
女は無口なひとがいい
灯りはぼんやりともりゃいい
しみじみ飲めば しみじみと
思い出だけが行き過ぎる
涙がポロリとこぼれたら
歌いだすのさ 舟唄を
1950年8月29日、熊本県八代(やつしろ)市生まれ。
1971年9月25日、テイチクより「愛は死んでも」でデビュー。
1973年2月5日、4th シングル「なみだ恋」リリース。大ヒット。
1979年5月25日、28th シングル「舟唄」リリース。大ヒット。
1980年4月25日、30th シングル「雨の慕情」リリース。日本レコード大賞を受賞。
1982年、センチュリー・レコードに移籍。
1986年、日本コロムビアに移籍。
2012年、小西康陽プロデュースによるジャズ・アルバム『夜のアルバム』をユニバーサルミュージックから世界発売。マレーシアのiTunes Storeジャズ・チャートで1位、シンガポールで2位を獲得。オリコン週間チャートでも20位を記録した。
2013年3月27日、ニューヨークの名門ジャズクラブ「バードランド」にてライブを開催、ヘレン・メリルをゲストに招き共演した。
2015年10月、寺岡呼人プロデュースによる初のブルース・アルバム『哀歌 -aiuta-』をリリース。
・・・
- ∨
- 坂本九「上を向いて歩こう」シンプルで深い。歌詞というもののひとつの理想形だと思います。
- ∨
""シングル(1961年10月15日発売)
坂本 九(本名:大島 九ひさし):1941年12月10日 - 1985年8月12日 神奈川県川崎市川崎区生まれ
作詞:永六輔/作曲・編曲:中村八大/プロデュース:草野浩二
レーベル:東芝レコード
全米1位、全英6位、オーストラリア・カナダ・ノルウェーで1位、ドイツ2位
・元々、中村八大が、1961年7月21日に開催された「第3回中村八大リサイタル」のために制作した楽曲で、坂本九が歌ったが、歌う2時間前に初めて譜面を渡されたという。
・同年8月19日、NHKのテレビ番組「夢であいましょう」で披露され、10月、11月の「今月のうた」となり、10月15日にレコードが発売されると大ヒットとなった。
・レコーディング時、永六輔は、「なんだ、その歌い方は!」と怒ったという。「こんなんじゃ絶対ヒットしない」と言い切ったらしい。
・1962年、英国のトランペッター、ケニー・ポールが、彼のレーベル「パイ・レコード」の社長が日本から土産にもらったレコードの中にあったこの曲を気に入り、自身のバンドでインストでレコーディングし、タイトルが読めないので、知っている日本語「SUKIYAKI」「SAYONARA」のうち、「SUKIYAKI」と命名。チャート10位となった。
・米国でもケニー・ポール楽団の「SUKIYAKI」は発売されたが、100位に入らず、ワシントン州パスコのラジオDJリッチ・オズボーンが偶然坂本九のレコードを入手し、番組で「SUKIYAKI」として紹介すると、問い合わせが殺到。
・1963年5月13日、キャピトルから発売。6月15日からビルボード誌で3週連続1位の大ヒットとなった。
・黒柳徹子は、当時の日本に”ランキング”というもの自体なかったので(オリコンは1968年開始)、「全米ビルボード1位」というのが、どれほどすごいことなのか分からなかった、と語っている。永六輔や中村八大も、特に喜んでいる素振りもなかったという。東芝レコードさえも、「遠い国でのできごとなので実感がない」という反応だったらしい。
・当時、坂本九19歳、永六輔28歳、中村八大30歳
*上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す 春の日 一人ぼっちの夜
・・・
永六輔(本名:永孝雄):1933年4月10日 - 2016年7月7日 東京市浅草区(現・東京都台東区)生まれ
中村八大:1931年1月20日 - 1992年6月10日 中国民国青島市生まれ
- ∨