いい音爆音アワー vol.90 「The Quicker, the Bigger♪小さく産んで大きく育てる?!」
詞曲、特に曲は頭で考えるものではありませんね。ソングライターではない私には具体的な感覚は分かりませんが、ふっと心に浮かぶみたいですね。「天から降りてくる」なんて言い方をする人もいます。作曲家はその最初のリスナーというわけです。で、いいか悪いか判断し、よくないとかまあまあだとか思えば、また次に浮かぶのを待つ。早くできるというのは、すぐにいいと判断できたということです。それはやはり他の人もいいと思う可能性が高いわけで、つまりヒットのポテンシャルがあるということになります。
それにしても「曲が心に浮かぶ」ってすごいことです。人が計り知れないことを神の仕業とするなら、ここには神がいますね。
セットリスト
- The Beatles「Here, There and Everywhere」ジョンもジョージ・マーティンもポール自身もお気に入りの名曲が、こんな短時間で♪
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7th アルバム『Revolver』(1966年8月5日発売)収録
作詞・作曲:Lennon - McCatney/プロデュース:George Martin
レーベル:Parlophone
・ポールはこの曲を、The Beach Boys『Pet Sounds』(1966)収録の「God Only Knows」に多大なインスピレーションを得て書いたと公言している。1966年5月17日、『Pet Sounds』発売日の翌日、ロンドンで開かれたプライベート試聴パーティにポールとジョンが出席した。その2週間後、ポールはウェイブリッジのジョンの家で、ジョンが起きるのを待つ間に「Here, There and Everywhere」を作ってしまう。「僕はプールサイドのイスに座ってギターでEのコードを爪弾いた。そしたらアイデアが湧いてきて、ジョンが起きてくるまでにあら方できてしまった。その後部屋に入って彼と一緒に仕上げたよ」(ポール談)
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- The Rolling Stones「(I Can't Get No) Satisfaction」ほんとはホーンに差し替えるつもりだったあのギター・リフ。
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シングル(米:1965年6月6日/英:1965年8月20日発売)
ザ・ローリング・ストーンズ:
4thアルバム『Out of Our Heads』(米:1965年7月30日発売)米盤のみに収録
作詞・作曲:Jagger - Richards/プロデュース:Andrew Loog Oldham
レーベル:Decca(英)/London(米)
全米1位(65年の年間1位)、全英1位 アルバムもグループ初の全米1位
・キースがホテルで寝ている時、ふいに閃いてカセットレコーダに録音した。翌日聴いてみると2分位生ギターでこの曲の原形を弾いた後、ピックが落ちる音、その後40分はただイビキが入っていた。
・リフ・ギターはMaestro FZ-1というギブソン製の初めて商品化されたfuzzboxで歪ませているが、キースは当初このフレーズをホーンで入れる予定で、ギターはあくまでガイドのつもりだった。
1950年、ミックとキースが小学校で出会い友人となる。
1954年、ミック家がウィルミントンに引っ越す。
1961年10月17日、ダートフォード駅の2番ホームでミックとキースが再会する。音楽の趣味が合うことを発見する。
同年末、二人を中心に、”Blues Boys”というバンドを結成する。
1962年3月、Alexis Kornerにデモテープを送り気に入られる。コーナーが主催する”Blues Incorporated”(メンバー不定)に、ミックとキースが参加する。そこにはBrian JonesとIan Stewart (key) とCharlie Wattsがいた。
やがて、ブライアンとスチュアートが作るバンドに”Blues Boys”が合流する。
ブライアンが「Jazz News」という新聞に電話をしている時にバンド名が決まった。先方からバンド名を訊かれた彼は、床にあったマディ・ウォーターズのアルバムの収録曲名から「Rolling Stone」だと答えた。
同年7月12日、ロンドンの「Marquee Club」でライブを行う。
同年12月、ベーシストが抜け、代わりにBill Wymanが加入。
1963年1月、ドラマーが抜け、ワッツが加入。
同年5月、Andrew Loog Oldhamとマネージメント契約を結ぶ。彼はビートルズの広報担当だったが、その時まだ19歳でメンバーの誰より若かった。
同年6月、1st シングル「Come On」リリース。
1964年4月16日、!st アルバム『The Rolling Stones』リリース。
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- Gogi Grant「The Wayward Wind(風来坊)」「気まぐれな風」という意味のタイトル通りの数奇な運命を持つ曲。
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3rd シングル(1956年6月16日発売)
ゴギ・グラント(本名:Myrtle Audrey Arinsberg):
作詞:Herb Newman/作曲:Stanley Lebowsky
レーベル:Era
全米6週間1位(年間5位)、全英9位
・Eraはハーブ・ニューマンのレーベル。ゴギの2ndシングル「Who Are We」の録音中、ニューマンが大学生の時にスタンレー・レボウスキーと書いた曲の楽譜をゴギに見せた。ゴギは気に入ったが、男性用の歌詞だったので、その場で手直しし、スタジオの残り時間15分を利用してこの曲を録音してしまった。
・エルヴィス・プレスリーの最初のナンバー1ヒット「Heartbreak Hotel」を蹴落として、ビルボード1位となり、そのまま6週間その座をキープした。
・多くの人がカヴァーしているが、ビートルズもデビュー前の1960〜61年頃、この曲をライブで演奏していた。
1924年9月20日、米国ペンシルヴァニア州フィラデルフィア生まれ
両親はロシア系ユダヤ人
RCAビクターのA&R長、Dave Kappが”Gogi Grant”をいう名前を与える。彼のいきつけのレストラン「Gogi's LaRue」にちなんで。
1955年、ハリウッドの小さなレーベル、Era Recordsと契約。シングル「Suddenly There's a Valley」をリリース。全米9位のヒットとなった。
1956年6月、3rd シングル「The Wayward Wind(風来坊)」リリース。全米1位の大ヒット。
ビルボード誌の最人気女性歌手に選出された。
60年代から人気が下降し、1967年発売のシングル「The Sea」を最後に、歌手活動から引退した。
2016年3月10日、死去。満91歳。
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- Melanie「Brand New Key(心の扉を開けよう)」ウッドストックに出演した3人のソロ女性アーティストのうちの1人。
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9th シングル(1971年10月発売)
メラニー:
アルバム『Gather Me』(1971年10月発売)収録
作詞・作曲:Melanie Safka/プロデュース:Peter Schekeryk
レーベル:Neighborhood(プロデューサーで夫、ピーター・シェケリークとともに設立したレーベル)
全米1位、全英4位
・自身が、ある夜15分くらいで書き上げたと語っている。
・その時、断食の27日目だったのだが、朝6時にニュージャージーのフリー・マーケットに行ったその帰り、マクドナルドの匂いが鼻をつき、突然断食を破り、それまで菜食主義だったにも関わらず、バーガー、ポテト、シェイク一通りを食べ切った。食べ終わった瞬間、脳裏にこの歌が浮かんできた。マックの匂いが子供の頃のローラースケートと、父に自転車の乗り方を教わったときの思い出を蘇らせ、それがこの歌になった……とのこと。
・「The Rollerskate Song」としても知られている。
・レーベル「Neighborhood」はプロデューサーで夫のピーター・シェケリークとともに設立。この曲はその第1弾リリース。
1947年2月3日、米国ニューヨーク州アストリア生まれ。
American Academy of Dramatic Artsで演劇を学びつつ、グリニッジヴィレッジ界隈で歌う。
1968年11月、1st アルバム『Born to Be』をリリース。
1969年8月、Woodstock Festivalに出演。
1970年3月、シングル「Lay Down (Candles in the Rain)」リリース。全米6位、カナダやオランダで1位を獲得。
1971年、Buddahを離れ、プロデューサーで夫のピーター・シェケリークとともにNeighborhood Recordsを設立。
同年10月、シングル「Brand New Key」が全米1位の大ヒット。
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- ザ・ブロードサイド・フォー「若者たち」「なのに」じゃなくて「だのに」。急いで作ったせいじゃないと思うけど。
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シングル(1966年10月25日発売)
The Broadside Four:
作詞:藤田敏雄/作・編曲:佐藤勝
レーベル:フィリップス
・1966年2月から、フジテレビで放送されたドラマ「若者たち」の主題歌として制作された。
・藤田敏雄は演出家。作詞を依頼され、2週間後の打合せの日まで何もできていなかったが、手ぶらでは行けないので、当日家を出る前40分くらいで、一応3番まで作って持っていったら作曲の佐藤勝とプロデューサーの森川時久は「こんな詞が欲しかった」と大喜び。
・打合せ後、佐藤はタクシーの中で「だのになぜ」の部分のメロディが浮かび、帰宅してピアノに向かうと5分もかからずに曲ができた。
・佐藤は映画音楽が専門の作曲家で黒澤明監督作品を手がけており、その縁から黒澤の息子久雄がやっている”ザ・ブロードサイド・フォー”に依頼した。
1964年、黒沢久雄が成城大学1年のとき、高校時代からの友人で玉川大学1年の鶴原俊彦、横田実とともに”ザ・ブロードサイド・スリー”を結成。
1965年5月、日本コロムビアよりアルバム『フォーク・ソング・ベスト・ヒット』をリリース。
やはり高校時代の友人で成城大学の山口敏孝が加入し、”ザ・ブロードサイド・フォー”となるが、大学3年になったら解散するという約束だった。
1966年5月20日、渋谷公会堂にて解散コンサート。
1966年10月、2月にスタートしたテレビ・ドラマ「若者たち」の主題歌「若者たち」がリリースされる。30万枚のヒット。
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- 南こうせつとかぐや姫「神田川」今回選んだ作品の中でも最短の作曲時間♪
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シングル(1973年9月20日発売)
かぐやひめ:
3rd アルバム『かぐや姫さあど』(1973年7月20日発売)収録
作詞:喜多条忠/作曲:南こうせつ/編曲:木田高介
レーベル:日本クラウン
オリコン1位
・南こうせつ曰く「僕は作曲に時間をかけない。「神田川」はその中でも最短。」
喜多条忠が歌詞を電話で伝えたが、それを聞いて紙に書き取るのと同時進行でメロディがどんどん浮かび、電話を切ったときにはもうでき上がっていたという。
・バイオリンは”ムーンライダーズ”の武川雅寛。
1949年2月13日、南こうせつ(本名:南高節)が大分県大分郡竹中村(現大分市)の曹洞宗勝光寺で生まれる。
1970年4月、南こうせつ、シングル「最後の世界」でソロ・デビュー。
同年10月、こうせつ、森進一郎、大島三平の3人で”南高節とかぐや姫”として、シングル「酔いどれかぐや姫」をリリース。
知名度を上げるため、「全日本歌謡選手権」に出場するが、5週目で落選。
1971年2月、”南高節”が”なんこうぶし”と読まれるため、”南こうせつとかぐや姫”として2nd シングル「変調田原坂」をリリース。
同年、解散。高校の後輩、伊勢正三と、”シュリークス”を脱退した山田パンダとともに、第2期”南こうせつとかぐや姫”を結成。
同年9月、シングル「青春」で再デビュー。
1972年4月、アルバム『はじめまして』リリース。
1973年9月、シングル「神田川」リリース。160万枚の大ヒット。
1974年1月、シングル「赤ちょうちん」リリース。この曲から”かぐや姫”と変更。
1975年4月12日、東京・神田、共立講堂で解散コンサートを開催。
その後、南こうせつと山田パンダはソロ、伊勢正三は”風”として、音楽活動を継続する。
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- 山本コウタローとウィークエンド「岬めぐり」期待されていなかった本人が20分で作った曲がヒットという嬉しい誤算。
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1st シングル(1974年6月1日発売)
やまもと こうたろー(本名:山本厚太郎):
作詞:山上路夫/作曲:山本コウタロー/編曲:瀬尾一三
レーベル:CBSソニー
オリコン5位
・ディレクターは前田仁。(売れていたので)南こうせつに曲を依頼した(シングルB面「あの日の僕でなく」は南こうせつ作曲)が、できた曲が気に入らず、コウタロー本人に渡したところ、「パッとメロディが浮かび、事務所の楽器倉庫で20分くらいで作った」らしい。
・2017年2月10日より京急三浦海岸駅の電車到着メロディーに使用されている。
1948年9月7日、東京都千代田区生まれ。
上智大学法学部に入学。その後も東京大学を志すが東大紛争による入試中止により一橋大学社会学部に転学。大学在学中にフォーク・グループ”ソルティー・シュガー”に参加。
1970年7月5日、”ソルティ・シュガー”で「走れコウタロー」リリース。大ヒット。
第12回日本レコード大賞新人賞受賞。
1971年、”ソルティ・シュガー”解散。
1971〜78年、TBSラジオ「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティを務める。
1974年、森一美、板垣秀雄とともに”山本コウタローとウィークエンド”結成。
1974年6月1日、”山本コウタローとウィークエンド”1st シングル「岬めぐり」リリース。大ヒット。
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- 加藤和彦と北山修「あの素晴しい愛をもう一度」予定通りシモンズのデビュー曲として聴いてみたかった。
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シングル(1971年4月5日発売)
かとう かずひこ:
作詞:北山修/作曲:加藤和彦/編曲:葵まさひこ
レーベル:東芝音楽工業
オリコン10位
・”シモンズ”のデビュー曲を書いてほしいという依頼で作ったが、おそらく”ザ・フォーク・クルセダーズ”再結成の布石となることを狙って、東芝音工の新田和長ディレクターが2人に歌わせる方向にもっていったものと思われる。シモンズは「恋人もいないのに」で71年8月5日にデビューした。
・曲は加藤が「5分で書いた」という伝説になっているが、北山は「助走段階も入れると絶対エライ苦労している筈なんだけど、歯を食いしばっているところを見せない人なので、そんなふうに言ったんだと思う」と語っている(田家秀樹「永遠のザ・フォーク・クルセダーズ 若い加藤和彦のように」より)。
・加藤の曲に対し、北山は一晩で詞を書いた。
1947年3月21日、京都府京都市伏見区生まれ。生後すぐ〜小学校4年まで鎌倉→京都に1年→高校卒業まで東京日本橋で育つ。
1971年11月、”サディスティック・ミカ・バンド”結成。
2009年10月16日、長野県軽井沢町のホテルで首吊り自殺。満62歳没。
きたやま おさむ:
1946年6月19日、兵庫県洲本市生まれ。京都市育ち。
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- Robbie Nevil「C'est La Vie」自ら「深みがない」と思ったそうだが、今でもサビは覚えているよ。
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1st シングル(1986年11月発売)
ロビー・ネヴィル:
1st アルバム『Robbie Nevil』(1986年11月11日発売)収録
作詞・作曲:Robbie Nevil, Duncan Pain, Mark Holding/プロデュース:Alex Sadkin & Phil Thornalley
レーベル:Manhattan Records
全米2位(2週連続)、年間4位 アルバムは全米37位
・本人談:「キーボードを弾きながら2、3時間で書き上げたが、あまりに軽く、深みが全くないと思ったのでシングルにするのは不安だった」
1958年10月2日、米国カリフォルニア州ロサンゼルス生まれ
1983年、ソングライターとして出版社と契約、”the Pointer Sisters”、El DeBarge、Alison Moyet、”Earth, Wind & Fire”らに曲を提供する。
1986年、アーティストとしてManhattan Recordsと契約。
同年11月、1st アルバム『Robbie Nevil』リリース。シングル・カットした「C'est La Vie」は全米2位の大ヒットとなる。
1988年、2nd アルバム『A Place Like This』リリース。
1991年6月、3rd アルバム『Day 1』リリース。
再び作曲活動に専念し、Babyface、Jessica Simpson、Destiny's Childらに曲を提供、松田聖子にも提供したことがある。
2006年より、Matthew Gerrardと共同でディズニーの映画「The Cheetah Girls」、テレビドラマシリーズ「High School Musical」「Montana franchises」に曲を提供し始める。
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- Toto「Hold the Line」ただの上手いバンドに終わらなかったのは曲作りの才のおかげ♪
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1st シングル(1978年10月2日発売)
トト:
1st アルバム『TOTO』(1978年10月15日発売)収録
作詞・作曲:David Paich/プロデュース:Toto
レーベル:Columbia
全米5位、全英14位 アルバムは全米9位、全英37位、オリコン39位
・ペイチ談:「イントロ部分の3連ピアノ・リフを弾き始めたら止まらなくなって、何日も弾いてた。ある時、サビの”Hold the line, love isn't always on time”が浮かんで、歌ってみると、次々に言葉とメロディが出てきて、2時間で完成した。曲というもの、たまにこんなふうにすぐできることもあるけど、時には2年間かかることもある。」
デヴィッド・ペイチDavid Paich (key)とジェフ・ポーカロJeff Porcaro (dr)はロサンゼルス近郊の高校の同級生、後輩にスティーヴ・ルカサーSteve Lukather (g)と、ジェフの弟スティーヴ・ポーカロSteve Porcaro (key)がいた。
彼らはいずれもセッション・ミュージシャンとして多くのアーティストのレコーディングに参加するが、やがてペイチとジェフは自分たち自身のバンドを作ることを決意、ボズ・スキャッグスのバック・バンドでいっしょになったデヴィッド・ハンゲイトDavid Hungate (b)に声をかけ、ルカサーとスティーヴ・ポーカロを誘う。
さらにボビー・キムボールBobby Kimball (vo)の加入を得て、Columbia Recordsと契約した。
1978年10月、!st アルバム『Toto(宇宙の騎士)』リリース。シングル「Hold the Line」、「I'll Supply the Love」、「Georgy Porgy」のヒットによりアルバムもヒット。グラミー賞の最優秀新人賞にノミネートされる。
1979年10月、2nd アルバム『Hydra』リリース。
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- The Buggles「Video Killed the Radio Star(ラジオ・スターの悲劇)」”The Camera Club”バージョンも同時期発売されたが、アレンジで圧倒的にこちらの勝ち。
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1st シングル(1979年9月7日発売)
ザ・バグルズ:
1st アルバム『The Age of Plastic(ラジオ・スターの悲劇)』(1980年1月10日発売)
作詞・作曲:Geoff Downes, Trevor Horn, Bruce Woolley
レーベル:Island Records
英国、オーストラリア、オーストリア、フランス、アイルランド、イタリア、スペイン、スウェーデン、スイス、オリコン洋楽チャートにて1位を獲得するも米国では40位アルバムは全英27位、オリコン35位
・1978年のある日の午後(レコーディングの約半年前)、”THe Buggles”のメンバー、ジェフ・ダウンズ、トレヴァー・ホーン、ブルース・ウーリーの3人が、ロンドンのウィンブルドンにあったダウンズのアパートで、約1時間で作り上げた。
・曲の大部分を作ったのはウーリーだが、彼は1st アルバムの制作が始まるとグループを抜け、”The Camera Club”を結成し、なんと先にこの曲をレコーディングしてしまった。
・この歌のテーマにとって皮肉なことに、この曲はMTVの開局第1曲目として、1981年8月1日午前0時1分にオンエアされた。
1977年、Trevor Horn、Geoff Downes、Bruce Woolleyの3人が「Video Killed the Radio Star」を含むデモテープを作る。
1979年、アルバムの制作に入るが、ウーリーが自分のグループ”The Camera Club”を作るために脱退。
同年9月、シングル「Video Killed the Radio Star」をリリース。全英1位他、10カ国でチャート1位となる大ヒット。
1980年1月、!st アルバム『The Age of Plastic』リリース。
同年始め、Jon AndersonとRick Wakemanが抜けた”Yes”にホーンとダウンズが加入、アルバム『Drama』の制作およびツアーに参加した。しかし、多くのファンから不評で、結局12月、Yesは解散した。
1981年始め、2nd アルバムのレコーディング開始直前にダウンズは元YesのSteve Howとともにバンド”Asia”を作るために、バグルズを去った。ホーンは一人でアルバムを完成させる。
同年11月、2nd アルバム『Adventures in Modern Recording(モダン・レコーディングの冒険)』リリース。不成功に終わりバグルズは活動停止した。
ホーンはその後プロデューサー業に精を出すことになる。
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- 植木等「スーダラ節」渡辺プロ社長宅から30分で生まれたエンタテインメント革命。
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1st シングル(1961年8月20日発売)
うえき ひとし:
作詞:青島幸男/作曲・編曲:萩原哲晶(ひろあき)/演奏:宮間利之とニューハード・オーケストラ
レーベル:東芝音楽工業
・フジテレビの「週刊クレージー」という15分番組内のコーナー「読切スリラー」から生まれた「こりゃシャクだった」というフレーズが大流行したので(クレージーの初流行語)、これを盛り込んだ歌を作ろうとなったのが発端。レコード化するにはB面も作らなきゃってことで、その頃クレージーの仲間内で流行っていた、何か得意なことがあると発する「スーララッタ、スラスラスイスイスーイ」といういい加減な鼻歌を歌詞にしてしまおう、とその場(渡辺晋社長宅でのミーティング)で青島幸男が詞を書き、萩原哲晶が曲をつけた。でき上がるまで2、30分だったそう。
・しかし植木は「こんないい加減な男の歌なんか」と歌うのが嫌だった。だけど相談した父親の徹誠(てつじょう)(浄土真宗の住職)から「”わかっちゃいるけどやめられない”というのは親鸞の精神に通ずるから歌うべし」と言われ歌うことに。
・レコーディングが難航した。この頃はバックも歌もいっしょの一発録音で、歌詞と植木の歌唱のおかしさに演奏者の誰かがつい笑い出し、何度もやり直したから。
1926年12月25日、名古屋市生まれ。
高校時代は陸上選手で、100mを11秒4で走った。
1946年、テイチクレコードの新人歌手コンテストに合格。
1950年、東洋大学卒業後、”萩原哲晶とデューク・オクテット”にギタリストとして加入。
1952年、自身のトリオ”植木等とニュー・サウンズ”を山崎唯(p)、大石康司(b)と結成。
1954年、フランキー堺に誘われ、”シティ・スリッカーズ”に参加。
1955年4月1日、”クレージーキャッツ”の前身となる”キューバン・キャッツ”が結成され、設立まもない渡辺プロダクションに所属する。
1957年3月1日、植木、クレージーキャッツに参加。
1959年3月2日、初のレギュラー番組となる「おとなの漫画」(フジ)が放送開始。
1961年6月4日、「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)が放送開始。
同年8月20日、1st シングル「こりゃシャクだった/スーダラ節」発売。
1962年7月29日、東宝クレージー映画第1作「ニッポン無責任時代」公開。
1993年9月、リーダーのハナ肇が死去。
2007年3月27日、植木、肺気腫による呼吸不全のため死去。満80歳。
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- 大滝詠一、佐野元春、杉真理「A面で恋をして」資生堂CMのキャッチコピーが大滝さんぽかったから生まれた曲。
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シングル(1981年10月21日発売)
アルバム『Niagara Triangle vol.2』(1982年3月21日発売)収録
作詞:松本隆/作曲:大瀧詠一/編曲:Chelsea
レーベル:ナイアガラ(CBS・ソニー)
オリコン14位 アルバムはオリコン2位
・資生堂の秋のキャンペーンCMイメージソング。話が来た時は、売れると大滝詠一の顔みたいになってしまうから断ろうと思っていたが、キャッチコピーが「A面で恋をして」と聞いた瞬間「できちゃった」。しかしやはり大滝詠一名義は避けたく、ナイアガラ・トライアングルにすることに。
・出演タレントのスキャンダルが原因でCMが1週間で打ち切りになってしまい、オリコン14位止まりだった。
・佐野は伊藤銀次がバックバンド”ザ・ハートランド”に参加していたから。杉は、ソロ・デビュー以前のバンド“マリ & レッド・ストライプス”の担当ディレクターが知り合いだったから。ちなみに佐野、杉はともに1980年デビュー。
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- Bruce Springsteen「Dancing in the Dark」最高のアルバムを作ろうという執念が生み出した重要曲。
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先行シングル・カット(1984年5月3日発売)
ブルース・スプリングスティーン:
7th アルバム『Born in the U.S.A.』(1984年6月4日発売)収録
作詞・作曲:Bruce Springsteen/プロデュース:Jon Landau, Chuck Plotkin, Bruce Springsteen
レーベル:Columbia
全米2位 アルバムは全米1位(85年の年間1位)、全英1位
・アルバムのレコーディングは1982年1月から始まり、丸2年以上かかり、70曲を録音したという。しかし84年3月、ミキシングも終わりに近づいてきた頃になってプロデューサーでありマネージャーでもあるジョン・ランドーが、最初に出すシングルにふさわしい曲がまだないと言い始めた。確実にヒットするというだけでなく、今何をやろうとしているのかがそのまま出ているようなシングル。何を今更とスプリングスティーンは怒ったが、実は自分もそういう歌を求めていることに気づく。その夜遅くホテルの部屋、明け方近くになってそれは湧き上がってきた。「まるでハートが直接口から出て喋ってるようだった。脳味噌をいちいち通らないで、歌が俺からただほとばしり出たんだ」。陽が昇るまでにこの曲ができていた。その瞬間のブルース・スプリングスティーンを総括した歌が。(デイヴ・マーシュ著「Glory Days」より)
1949年9月23日、米国ニュージャージー州ロングブランチ生まれ。
1973年、1st アルバム『Greetings From Asbury Park, N.J.(アズベリー・パークからの挨拶)』リリース。
1977年、ロックと映画の評論家だったジョン・ランドーがマネジャー兼プロデューサーに。
1978年6月、4thアルバム『Darkness On the Edge Of Town(闇に吠える街)』リリース。
1980年10月、2枚組 5th アルバム『The River』リリース。初の全米1位(4週間)。
1982年9月、6th アルバム『Nebraska』リリース。
1984年6月24日、7th アルバム『Born In the U.S.A』リリース。
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- Kate Bush「Wuthering Heights(嵐が丘)」この曲を2時間で作った18歳の天才少女。
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1st シングル(1978年1月20日発売)
1st アルバム『The Kick Inside(天使と小悪魔)』(1978年2月17日発売)収録
作詞・作曲:Kate Bush/プロデュース:Andrew Powell
レーベル:EMI
全英1位 アルバムは全英3位、オリコン37位
・ケイト・ブッシュが18歳の時、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」を元にBBCが1967年に制作したテレビ作品のラスト10分間にインスパイアされて作った。深夜2、3時間(just a few hours)で書き上げたという。
・エミリー・ブロンテとブッシュは同じ誕生日、7月30日生まれである。1818年と1958年で140年差があるけど。
・当初、シングルは1977年11月4日に発売される予定だったが、ブッシュがジャケットの写真が気に入らず差し替えを要求、EMIは了承して翌年1月20日に延期したが、結果的には、もし予定通りリリースしていたらWIngsの「Mull of Kintyre」(1977年11月11日発売/208万枚のヒット)のせいで、1位にはなれなかっただろうから正解だった。
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- The Police「Every Breath You Take(見つめていたい)」クリエイターには逆境もいい肥料になるんだなぁ。
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シングル(1983年5月20日発売)
アルバム『Synchronicity』(1983年6月17日発売)収録
作詞・作曲:Sting/プロデュース:The Police & Hugh Padgham
レーベル:A&M
全米8週間1位&年間1位、全英4週間1位 アルバムも全米1位、全英1位
・1982年、スティングは妻で女優のFrances Tomeltyと別れ、Trudie Stylerと交際を始めるが、彼女たちは親友で何年も隣に住んでいたということから大きなゴシップになった。衆目から逃れるため彼はカリブの島に行き、そこでこの曲ができた。「深夜ふとアイデアが浮かんで目が覚めた。ピアノに向かって30分ほどで完成させた。メロディはよくある循環コードだけど、詞は面白いと思った。甘いラヴソングのように見えるが、実は”Big Brother”のような監視管理社会のことを考えていた。」(スティング談)
・84年第26回グラミー賞にて、「Song of the Year」と「Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocals」を獲得。
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- Lady Gaga「Your Song」ガガさんの圧倒的な歌唱がこの名曲に再び火をつけました。
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『Revamp: Reimagining the Songs of Elton John & Bernie Taupin(ユア・ソング〜エルトン・ジョン ベスト・ヒッツ・カヴァー)』(2018年4月6日発売)収録
作詞:Bernie Taupin/作曲:Elton John/プロデュース:Greg Kurstin
カヴァー<”Three Dog Night”:3rd アルバム『It Ain't Easy』(1970年3月発売)収録
Elton John:2nd アルバム『Elton John』(1970年4月10日発売)収録/シングル「Take Me to the Pilot」のB面としてリリース(1970年10月26日発売)。
レーベル:Virgin EMI
アルバムは全米13位
・エルトン・ジョンとバーニー・トーピンが一緒に暮らしていた1969年10月27日、バーニーが朝食をとっている間、エルトンはわずか10分間で曲を書いた。(ウィキペディア)
・トーピンはある日の朝食の後、某音楽出版社の屋上でこの詞を書いた。だから2番の頭に""I sat on the roof and kicked off the moss”という歌詞がある。(Wikipedia)
・同時にリリースされたのがカントリー・ミュージシャンたちによるトリビュート『Restoration: Reimagining the Songs of Elton John and Bernie Taupin』。『Revamp』はエルトン・ジョン自身のプロジェクトで『Restoration』はバーニー・トーピンの企画らしい。
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- The Beatles「Yesterday」夢に出てきてしばらく自分が作ったと思えなかったそう。それが世界の音楽史上4番目に稼いだ曲。いいなぁ♪
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米シングル(1965年9月13日発売)
英5th アルバム『Help!』(1965年8月6日発売)収録
作詞・作曲:Lennon–McCartney/プロデュース:George Martin
レーベル:Parlophone/Capitol
全米1位 アルバムは全英・全米1位
・当時ポールはガールフレンド、Jane Asherの実家に寝泊まりしていたが、ある夜の夢に、この曲の全体が現れた。起きるとすぐピアノで確認し書き留めたが、ひょっとして無意識に誰かの曲が出てきたのかもしれないと思い、1ヶ月くらいは周りにいる音楽関係者たちにこの曲を聴いたことがあるかと尋ね回ったが、皆否定し、ようやく自分のものだと納得した。
・最初は仮に”Scrambled Eggs”という詞をつけていた。""Scrambled eggs / Oh my baby how I love your legs / Not as much as I love scrambled eggs"" で、詞ができるまでは何ヶ月もかかった。1965年5月、ポルトガルへの旅行中に、やはり朝起きたら突然”yesterday”というタイトルを思いつき、その後はすんなりとできた。
・”世界で最も多くカヴァーされた曲”としてギネスブックに認定されている。
・2012年のBBCドキュメンタリー番組「The Richest Songs in the World」において、音楽史上最も稼いだ曲の第4位にランクされた。
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