いい音爆音アワー vol.87 「ナイス♪シンコペーション特集」
「シンコペーション」を言葉で説明すると、「音楽で、拍節上の強弱の位置を本来の場所からずらしてリズムに変化を与えること(by 広辞苑)」みたいになってよくわからんのですが、とてもよく使われる技法です。逆にまったく使わないと”咲いたー咲いた−“の「チューリップ」みたいになってしまいます。ある人は鉄腕アトムの歌で説明してくれました。”そらをこーえてー”の”こ”がシンコペーションだと。本来は”こ”のうしろの”—“のところが強拍なんですが、半拍前の”こ”にずらしています。解りやすいですね。ミュージシャンは”食う”という言い方をします。前に食い込んでいるからでしょうか。
前述のように、とてもよく使われるのですが、特にシンコペーションがその曲の特徴&魅力になっているような名曲・名盤を集めてみました。
セットリスト
- 寺尾聰「ルビーの指環」「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と言われたらしいですが、こんなにシンコペーションしているお経はありません。
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6th シングル(1981年2月5日発売)
てらお・あきら:
アルバム『Reflections』(1981年4月5日発売)収録
作詞:松本隆/作曲:寺尾聰/編曲:井上鑑
レーベル:東芝EMI
オリコン10週連続1位・年間1位 アルバムも1位&年間1位
・第23回日本レコード大賞を受賞し、同時に松本隆が同賞の作詞賞、寺尾が作曲賞、井上鑑が編曲賞を受賞した。
・TBS「ザ・ベストテン」では4月9日〜6月25日で連続12週1位となり、これは同番組最長記録。
・当時所属していた石原プロモーションの専務・小林正彦が「こんなお経みたいな曲が売れるわけがない」と否定。
1947年5月18日、横浜市保土ケ谷区生まれ、東京都目黒区育ち。
1964年、カレッジ・フォーク・グループ”ザ・サベージ”を結成、ベースを担当。
1966年、”ザ・サベージ”、「いつまでもいつまでも」でデビュー。
1968年、石原裕次郎製作・主演の映画「黒部の太陽」で俳優デビュー。
1981年、「ルビーの指環」が大ヒット。
1980年代後半、黒澤明監督「乱」「夢」「まあだだよ」に続けて出演。
2001年、黒澤の遺稿を映画化した「雨あがる」に主演し、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。
2005年、映画「半落ち」で同賞の2度目の受賞を果たす。
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- Char「Smokey」Charの定番曲のロス録音バージョン。おなじみの”キメ”のシンコペーションが落ち着いて聴こえる。
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4th アルバム『U.S.J.』(1981年2月発売)収録
チャー(竹中尚人):
作詞・作曲:Char/プロデュース:Steve Lukather & Char
レーベル:ポニー・キャニオン
・ロサンゼルス録音。ミュージシャン:Steve Lukather (g), David Foster (p), Jay Graydon (g), Jeff Porcaro (dr), Neil Stubenhaus (b), Paulinho Da Costa (per)
1955年6月16日、東京都品川区戸越生まれ。
11歳よりさまざまなロック・バンド活動に邁進し、1973年に結成した”スモーキー・メディスン”(チャー、鳴瀬喜博、佐藤準、藤井章司、金子マリ)はアマチュアながら1974年5月号の「ニュー・ミュージック・マガジン誌」で数ページに渡って取り上げられるなど注目を集めた。
1976年6月、シングル「NAVY BLUE」でソロ・デビュー。
同年9月、1st アルバム『Char』をリリース。
1977年6月、シングル「気絶するほど悩ましい」をリリース。ヒット。続けて「逆光線」(1977年12月発売)、「闘牛士」(1978年3月発売)がヒット。
1978年秋、歌謡界での活動に見切りをつけ、ジョニー吉長、ルイズルイス加部と”Johnny, Louis & Char”を結成。
覚醒剤取締法違反の嫌疑がかけられ活動停止に追い込まれる。
1981年2月、4th アルバム『U.S.J.』リリース。
1981年、レコード会社の移籍に伴い、バンド名を”PINK CLOUD”と改める。
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- Sheena & the Rokkets「レモンティー」ブルース進行のV度のところで”裏打ち”(シンコペーション)になるリフ。
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1st アルバム『Sheena & the Rokkets #1』(1979年3月25日発売)収録
シーナ&ロケッツ:
作詞:柴山俊之/作曲:鮎川誠
レーベル:Elbon
・”サンハウス”時代から既にレパートリーだった。
博多のブルースロック・バンド”サンハウス”が1978年3月に解散し、その創設メンバーだった鮎川誠 (g)が後期メンバーの川島一秀 (dr)、浅田孟 (b)に妻シーナを加え、5月に結成。
1978年10月25日、”鮎川誠/シーナ・ロケット”名義でシングル『涙のハイウェイ』でデビュー。
1979年3月25日、1st アルバム『Sheena & the Rokkets #1』リリース。
同年にアルファレコードへ移籍。
同年10月25日、細野晴臣プロデュースによる2nd アルバム『真空パック』リリース。YMOメンバーも参加。シングル「ユー・メイ・ドリーム」が、JALの「マイ・ハート・キャンペーン」のCMに起用されヒット。
1984年、ビクター・レコードへ移籍。
2015年2月14日、ボーカルのシーナが子宮頸癌により61歳で死去。
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- The Yardbirds「The Train Kept A-Rollin’」おっと「レモンティー」と全く同じリフ!こちらが先輩です。
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米国での2nd アルバム『Having a Rave Up』(1965年11月15日発売)収録
ザ・ヤードバーズ:
作詞・作曲:Tiny Bradshaw, Howard Kay, Lois Mann/プロデュース:Giorgio Gomelsky
カヴァー:最初はTiny Bradshaw (1951)、次に”Johnny Burnette and the Rock and Roll Trio” (1956)。しかしシンコペーション・ギター・リフはThe Yardbirdsから。
レーベル:Epic
・Jeff Beck時代のYardbirds。この曲を紹介したのはベック。
・なぜか、本国英国では70年代半ば(とっくに解散している)までリリースされなかった。
1960年代前半、ロンドン・リッチモンドのナイトクラブ「クロウダディ・クラブ」で、プロデビューした”ローリング・ストーンズ”の後釜でレギュラ−出演。
1963年、エリック・クラプトン加入。
1964年12月31日、1stにしてライブ・アルバム『Five Live Yardbirds』リリース。
1965年3月、シングル「For Your Love」全英3位、全米6位のヒット。それまでのブルース志向からポップ路線への転換で、それを不満としたクラプトンは脱退する。
同年、クラプトンの後任として、ジミー・ペイジに声をかけるが、セッション・ミュージシャンとして多忙だったため、幼馴染のジェフ・ベックを推薦する。ベックは喜んで加入。
同年11月、2nd アルバム『Having a Rave Up』リリース。
1966年7月15日、アルバム『Roger the Engineer』リリース。
ポール・サミュエル=スミスPaul Samwell-Smith (b)が脱退。改めてジミー・ペイジを勧誘し、快諾される。ベックとのツイン・リード体制。しかし数ヶ月で、ベックが脱退。
1968年7月、解散。ペイジは、契約上の問題もあり、バンドを継続させるためセッション仲間だったジョン・ポール・ジョーンズを呼び、無名だったロバート・プラント、その仲間のジョン・ボーナムを加え再始動、バンド名は”New Yardbirds”と改めた。その後、契約上の問題が解決したため、バンドは”レッド・ツェッペリン”と改名し、再出発した。
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- 荒井由実「14番目の月」4小節に渡って”裏打ち”が続く”キメ”がアレンジのポイント。
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4th アルバム『14番目の月』(1976年11月20日発売)収録
あらい ゆみ:
作詞・作曲:荒井由実/編曲:松任谷正隆/コーラスアレンジ:山下達郎
レーベル:Express(東芝EMI)
アルバムはオリコン1位
・独身時代最後のアルバム。本人はこのアルバムで引退するつもりだったらしい。
・このアルバム以降、松任谷正隆がプロデュースを担当する。
・タイトルは映画 「スリランカの愛と別れ」(木下恵介監督 1976年5月公開) の高峰秀子の台詞「インドでは満月より14日の月が喜ばれる。満月は明日から欠け始めるけど、14日の月にはまだ明日があるから」に由来する。
・1976年12月にはエッセイ&写真集「十四番目の月」を出版。
1954年1月19日、東京都八王子市生まれ。
1970年、高校2年の時、加橋かつみに曲を提供、シングル「愛は突然に…」として1971年発売される。
同年、アルファ・ミュージックの作家契約第1号となる。
1972年4月、多摩美術大学に入学。
同年7月、シングル「返事はいらない」でデビュー。
1973年11月20日、1st アルバム『ひこうき雲』リリース。
1975年8月、バンバンに提供した「いちご白書をもう一度」発売、オリコン1位を獲得。
1975年10月、シングル「あの日にかえりたい」リリース、アーティストとして初のオリコン1位。
1976年11月、松任谷正隆と結婚。
1981年11月、12th アルバム『昨晩お会いしましょう』リリース。これ以降オリジナル・アルバム17枚連続でオリコン1位。
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- Swing Out Sister「Breakout」ここからはどんどんシンコペーションがハデになります。
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2nd シングル(1986年10月発売)
スウィング・アウト・シスター:
1st アルバム『It's Better to Travel』(1987年5月11日発売)収録
作詞・作曲:Swing Out Sister/プロデュース:Paul Staveley O’Duffy
レーベル:Mercury
全英4位、全米6位 アルバムは全英1位、全米40位
・この曲で、1988年のグラミー賞最優秀新人賞と最優秀ポップ・ヴォーカル賞ノミネート。
1984年、アンディ・コーネルAndy Connell (key)、マーティン・ジャクソンMartin Jackson (dr)に、コリーン・ドリュリーCorinne Drewery (vo)が加わり、結成。
Mercuryと契約。
1985年11月、シングル「Blue Mood」でデビュー。
1986年10月、2nd シングル「Breakout」リリース。全英4位、全米6位のヒット。88年のグラミー賞最優秀新人賞ノミネート。
1987年5月11日、1st アルバム『It's Better to Travel』リリース。全英1位。
2nd アルバム『Kaleidoscope World』制作中にジャクソンが脱退。デュオに。
1989年5月25日、『Kaleidoscope World』リリース。
1992年6月、3rd アルバム『Get in Touch with Yourself』リリース。
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- TOTO「Girl Goodbye」6分を超える曲の大部分で繰り返される強力なリフはシンコペーションが2小節毎に7回。
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1st アルバム『TOTO(宇宙の騎士)』(1978年10月15日発売)収録
トト:
作詞・作曲:David Paich/編曲・プロデュース:Toto
リード・ヴォーカル:Bobby Kimball
レーベル:Columbia
アルバムは全米6位、全英37位、オリコン39位
・アルバム発売当時は「Rolling Stone」誌初め、評論家連中からはボロクソにけなされた。
・グラミー賞の最優秀新人賞にノミネートされた。
デヴィッド・ペイチDavid Paich (key)とジェフ・ポーカロJeff Porcaro (dr)はロサンゼルス近郊の高校の同級生、後輩にはスティーヴ・ルカサーSteve Lukather (g)と、ジェフの弟スティーヴ・ポ—カロSteve Porcaro (key)がいた。
彼らはいずれもロスのセッション・ミュージシャンとして幾多のレコーディングに参加するが、やがてペイチとジェフは自分たち自身のバンドを作ることを決意、ボズ・スキャッグスのバック・バンドでいっしょになったデヴィッド・ハンゲイトDavid Hungate (b)に声をかけ、ルカサーとスティーヴ・ポーカロを誘う。さらにボビー・キムボールBobby Kimball (vo)が加入。
1976年、Columbia Recordsと契約。
1978年10月、!st アルバム『Toto(宇宙の騎士)』リリース。
1979年10月、2nd アルバム『Hydra』リリース。
1981年1月、3rd アルバム『Turn Back』リリース。
同年12月、キムボールがコカイン販売容疑により逮捕される。
1982年4月、4th アルバム『Toto IV』リリース。
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- キャンディーズ「その気にさせないで」単なるアイドルではありません。シンコペーション多用のサウンドも、ランちゃんの歌もグレートです。
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7th シングル(1975年9月1日発売)
キャンディーズ:
5th アルバム『その気にさせないで』(1975年10月1日発売)収録
作詞:千家和也/作曲・編曲:穂口雄右
レーベル:CBSソニー
オリコン17位
・guitar: 水谷公生、bass: 武部秀明、drums: 田中清司、perc: ラリー寿永
伊藤蘭(ラン、1955年1月13日、東京都武蔵野市生まれ)
藤村美樹(ミキ、1956年1月15日、東京都世田谷区生まれ)
田中好子(スー、1956年4月8日 - 2011年4月21日、東京都足立区生まれ)
3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身。
1973年9月1日、デビュー・シングル「あなたに夢中」リリース。
1975年2月、5th シングル「年下の男の子」リリース。伊藤蘭をセンターに変更する。オリコン9位と初ヒット。
1976年3月、9th シングル「春一番」リリース。オリコン3位。
1977年3月、13th シングル「やさしい悪魔」リリース。オリコン4位。
同年7月、日比谷野外音楽堂のコンサートの終了際、突然3人は涙を流しながら解散宣言を行った。そのとき伊藤が発した「普通の女の子に戻りたい!」というフレーズは流行語になった。
1978年2月、17th & the Last シングル「微笑がえし」リリース。初のオリコン1位を達成。
1978年4月4日、後楽園球場で解散コンサート=「ファイナル・カーニバル」を開催。
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- Earth, Wind & Fire「Getaway」シンコペーションはお手の物。”食い”の鋭さは天下一品。
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先行シングル(1976年7月7日発売)
アース・ウィンド・アンド・ファイアー:
7th アルバム『Spirit(魂)』(1976年9月発売)収録
作詞・作曲:Peter Cor, Beloyd Taylor
プロデュース:Maurice White, Charles Stepney
レーベル:Columbia
全米12位、R&B1位 アルバムは全米2位、R&B2位
・プロデューサーでソングライターのチャールズ・ステップニーがアルバム制作途中で亡くなった。
1970年、”Earth, Wind & Fire”結成。ワーナーと契約、2作リリースするがヒットはせず、バンドは一度解散する。
1972年、コロムビア・レコードに移籍。フィリップ・ベイリーやラルフ・ジョンソンが加入。
1973年5月、通算4th アルバム『Head To The Sky』をリリース。R&B2位。
1975年3月、6th アルバム『That's the Way of the World(暗黒への挑戦)』を、同名の映画のサウンドトラックとしてリリースし、初の全米1位を獲得するが、映画はヒットせず。
同年11月、ライブ・アルバム『Gratitude』リリース。全米1位。
1976年9月、7th アルバム『Spirit(魂)』リリース。全米2位。
1979年6月、9th アルバム『I Am』リリース。全米3位。
1983年11月、13th アルバム『Electric Universe』リリース。全米40位。人気の凋落に歯止めを掛けることができず、活動を一時停止。
1984年10月、ベイリーがフィル・コリンズのプロデュースで「Easy Lover」をヒットさせる。
1987年10月、14th アルバム『Touch the World』をリリースし、活動を再開。全米33位。
1997年、モーリスが神経性障害(パーキンソン病)を発症する。
2016年2月3日、モーリス、パーキンソン病により死去。
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- Tower Of Power「What Is Hip?」EW&Fに負けない”食い”のシャープさ。でも味わいは全然違います。
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3rd アルバム『Tower Of Power』(1973年5月発売)
タワー・オヴ・パワー:
作詞・作曲:Emilio Castillo, Stephen ""Doc"" Kupka, David Garibaldi
プロデュース:Tower of Power
レーベル:Warner Bros.
アルバムは全米15位、ゴールドレコード認定(売上50万枚以上)。
・このアルバムからLenny Williamsがヴォーカル、Lenny Pickettがリード・テナー・サックス、Bruce ConteがWillie Fultonに代わってギターを担当した。キーボードのChester Thompsonも加わった。
結成50年目で現在も精力的に活動中。これまでのメンバー合計60人以上。
1968年夏、テナーサックス奏者のエミリオ・カスティーヨEmilio Castilloとバリトンサックス奏者のステファン・ドク・クプカStephen ""Doc"" Kupkaが中心になってカリフォルニア州オークランドで結成。
1970年には、Greg Adams (trumpet/arranger)、Mic Gillette (1st trumpet)、Skip Mesquite (1st sax)、Francis ""Rocco"" Prestia (bass)、Willie Fulton (guitar)、David Garibaldi (drums)というメンバーを配し、ビル・グラハムBill Grahamの「San Francisco Records」と契約、1st アルバム『East Bay Grease』をリリースする。
1972年、Warner Brothers Recordsに移籍、2nd アルバム『Bump City』をリリース。
1973年5月、3rd アルバム『Tower Of Power』リリース。全米15位。
1974年5月、4th アルバム『Back to Oakland』リリース。
1975年1月、5th アルバム『Urban Renewal』リリース。
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- Queen「Don't Stop Me Now」ここからはサウンドだけでなく、歌メロディにもシンコペーションが効いている曲たちです。
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第2弾シングル・カット(1979年1月5日発売)
7th アルバム『Jazz』(1978年11月10日発売)収録
作詞・作曲:Freddie Mercury/プロデュース:Roy Thomas Baker, Queen
レーベル:EMI(英)/Elektra(米)
全英9位、全米86位 アルバムは全英2位、全米4位
・ギターはソロしか入ってないが、元のテイクには全編ギターが入っていた(だけど、ピアノだけのほうがスピード感がある、と思う)。
・イギリス映画「Shaun of the Dead」(2004)の劇中歌として使われている。
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- Michael Jackson「Human Nature」Steve Porcaro作曲。“TOTO”はやはりシンコペーション好き?
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第5弾シングル・カット(1983年7月3日発売)
マイケル・ジャクソン:
6th アルバム『Thriller』(1982年12月1日発売)収録
作詞・作曲:Steve Porcaro, John Bettis/プロデュース:Quincy Jones
レーベル:Epic
全米7位 アルバムは全米37週1位、全英1位、オリコン1位
・Steve Porcaroが、男の子にいじめられて泣いて帰ってきた小学校1年の娘の話を元に、「Africa」をミックスしているときにデモを作った曲。
・マイケルに提供するつもりはなかったが、David Paichが自作曲を何曲か『Thriller』用にプレゼンするのにスティーヴにカセット・コピーを頼んだところ、スティーヴはたまたまカセットテープの空きがなくて、上記デモが入ったカセットの逆サイドにペイチの曲を入れた。クインシーはペイチの曲は特に気に入らなかったが、そのままテープがオートリバースで再生され、スティーヴのデモを聴いて、このアルバムにピッタリだと思い、起用した。但し一部歌詞は変えたかったので、ソングライターのJohn Bettisに直してもらった。
・アルバム収録予定だった「Carousel」をはずして、この曲を入れることになった。
・演奏はTOTOメンバー:Jeff Porcaro, Steve Lukather, David Paich. Steve Porcaro, Paulinho da Costa
1958年8月29日 - 2009年6月25日 米国インディアナ州ゲーリー生まれ。
男6人+女3人兄弟の5男。
1968年1月(9歳)、”Jackson 5”、スティールタウン・レコードから「Big Boy」でデビュー。7月、モータウンと契約。
1969年10月、”Jackson 5”、「I Want You Back(帰ってほしいの)」で再デビュー。いきなり全米チャート1位。続く「ABC」はビートルズの「Let It Be」を首位から引きずり下ろし再び1位。続く「The Love You Save」、「I'll Be There」もチャートを制し、デビュー早々4曲連続全米チャート1位という偉業を達成。
1971年10月7日、シングル「Got To Be There」でソロデビュー。
1979年8月10日、クインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えた5th アルバム『Off The Wall』をリリース。
1982年12月1日、6th アルバム『Thriller』リリース。1984年第26回グラミー賞にて、”Album of the Year”、”Record of the Year(「Beat It」)”他、合計8部門を獲得。
1987年8月31日、7th アルバム『Bad』リリース。
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- Jason Mraz「Butterfly」今回唯一の21世紀曲。昨今はシンコペーション流行らない?
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3rd アルバム『We Sing. We Dance. We Steal Things.』(2008年5月12日発売)収録
ジェイソン・ムラーズ:
作詞・作曲:Jason Mraz/プロデュース:Martin Terefe
レーベル:Atlantic
アルバムは全米3位
1977年6月23日、米国ヴァージニア州メカニックスビル生まれ。チェコとスロヴァキアの血を引く。
2002年、Elektra Recordsと契約。
同年10月15日、1st アルバム『Waiting for My Rocket to Come』をリリース。
2005年7月、Steve Lilywhiteのプロデュースで、Atlanticより、2nd アルバム『Mr. A–Z』をリリース。全米5位。
2008年5月、3rd アルバム『We Sing. We Dance. We Steal Things.』をリリース。全米初登場3位。リードシングルの「I’m Yours」は全米6位、チャートに76週間ランクインし続けて、ビルボード誌の当時の最高記録を塗り替えた。
2010年、第52回グラミー賞で、シングル「Make It Mine」が「Best Male Pop Vocal Performance」、コルビー・キャレ−Colbie Caillatとデュエットしたシングル「Lucky」が「Best Pop Collaboration」を獲得。
2012年4月、4th アルバム『Love Is a Four Letter Word』リリース。
2014年7月、5th アルバム『Yes!』リリース。
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- Simon & Garfunkel「Baby Driver」彼らは実はなかなかファンキーだと思います。
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5th アルバム『Bridge over Troubled Water(明日に架ける橋)』(1970年1月26日発売)収録
サイモン&ガーファンクル:
作詞・作曲:Paul Simon/プロデュース:Paul Simon, Art Garfunkel, Roy Halee(エンジニアも)
レーベル:Columbia Records
アルバムは全米10週連続1位、全英合計33週1位、オリコン7週連続1位。
・この曲名がタイトルとなった映画「Baby Driver」が2017年6月に公開された(ソニー・ピクチャーズ エドガー・ライト監督)。もちろん劇中でも流れる。
・本アルバムを最後に解散。
1964年3月31日、”Simon & Garfunkel”名義での初のライブをグリニッジ・ヴィレッジの「Gerde's Folk City」で行った。
同年10月19日、デビュー・アルバム『Wednesday Morning, 3A.M.(水曜の朝、午前3時)』をリリース。
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1970年7月18日、二人が幼少期を過ごした、ニューヨーク市クイーンズ、Forest Hillsでのライヴを最後に、”Simon & Garfunkel”は活動を停止した。
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- ブレッド&バター
「ピンク・シャドウ (album ver.)」サビ頭4音連続”食い”は他にないんじゃないかなー。よく思い切りました。- ∨
先行シングル(1974年8月1日発売)
ブレッド&バター:
3rd アルバム『Barbecue』(1974年9月25日発売)収録
作詞・作曲:岩沢二弓・岩沢幸矢/プロデュース:Bread & Butter
レーベル:日本コロムビア
・ミュージシャンは、drums:林立夫、bass:細野晴臣、guitar:鈴木茂、key.:ジョン山崎、perc.:斎藤ノブ、a-guit.:岩沢二弓、backing vocals:山室(白鳥)恵美子(”トワ・エ・モア”)・新居(山本)潤子(”赤い鳥”〜”ハイ・ファイ・セット”)・榊原(杉村)尚美(”日暮し”)
・山下達郎がライブ・レコーディング・アルバム『It’s a Poppin’ Time』(1978)のためにカヴァーした。
岩沢幸矢(さつや) 1943年7月11日、神奈川県茅ヶ崎市生まれ
岩沢二弓(ふゆみ) 1949年2月23日、神奈川県茅ヶ崎市生まれ
父親は映画監督の岩沢庸徳。
幸矢が大学時代、湘南のホテル・パシフィックでアルバイト。加山雄三やワイルドワンズのステージを目の当たりにする。
1969年10月、シングル「傷だらけの軽井沢」(作詞:橋本淳/作曲:筒美京平)でデビュー。
1971年、”ザ・タイガース”にいた岸部シローと意気投合。
1972年3月10日、ポリドールから1st アルバム(”シローとブレッド&バター”名義)『Moonlight』リリース。
やがてシローは俳優業で多忙になり脱退。
1973年4月、2nd アルバム『Images』リリース。
1974年9月、3rd アルバム『Barbecue』リリース。
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- Derek and the Dominos「I Am Yours」静かな曲だけど、メロディがほとんどシンコペーションしているというツワモノ。
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1st & the last アルバム『Layla and Other Assorted Love Songs(いとしのレイラ)』(1970年11月9日発売)収録
デレク・アンド・ザ・ドミノス:
作詞・作曲:Eric Clapton, Nizami/プロデュース:Derek and the Dominos, Tom Dowd
レーベル:Polydor
アルバムは全米16位
・NIzamiは12世紀のペルシャの詩人。その作品のひとつ「Layla and Majnun」という悲恋の物語がこのアルバムの発想の元になった。この「I Am Yours」はNizamiの詞にクラプトンが曲をつけたもの。
“Cream”解散後、1969年に結成した”Blind Faith”もアルバム1枚で崩壊、クラプトンは、”Blind Faith”のアメリカ・ツアー時に前座を務めた”Delaney & Bonnie and Friends”に参加した。
1970年、その”Delaney & Bonnie and Friends”もやがて分裂するが、メンバーのボビー・ウィットロックBobby Whitlockがイギリスでクラプトンに合流、2人は曲作りを始める。
1970年8月、”Delaney & Bonnie and Friends”からさらにカール・レイドルCarl Radleとジム・ゴードンJim Gordonが合流、ライブ活動を始める。最初のライブで、仮のバンド名”Eric and the Dynamos”を、司会者が読み違え、”Derek and the Dominos”と言ってしまったが、その頃なるべく目立ちたくなかったクラプトンはそれを採用した。
3週間ほどのライブを終え、トム・ダウドTom Dowdをプロデューサーとしてレコーディングするため、マイアミのCriteria Studiosに向かう。ちょうどそのころ、”The Allman Brothers Band”が慈善コンサートのために町を訪れており、ダウドがクラプトンにデュエイン・オールマンDuane Allmanを紹介する。彼らは意気投合し、クラプトンは後に自叙伝でデュエインのことを「ずっと求めていたけど得られなかった音楽の兄弟」だと語っている。
1970年11月9日、1st アルバム『Layla and Other Assorted Love Songs(いとしのレイラ)』リリース。
1971年、2nd アルバムのレコーディング中にクラプトンとゴードンが激しい口論となったことで制作は中止、バンドは解散した。
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