【インタビュー】“神様、僕は気づいてしまった”が1stミニALで形にしたバンドのコンセプトとは? そして東野へいとが抱く“生きづらさ”

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■ 思った以上に曲が届いてしまったのは
■ それだけ一人残らず思い当たる節があるんじゃないかと

── 「カテゴライズしてしまうということの浅薄さ」っておっしゃったのがすごく興味深かったので、そこについてもう少し訊きたいんですけれども。というのも、実際「生きづらさ」のような感覚、思春期的な不全感や救われなさというものは、昔からあったと思うんです。それこそ音楽以前、近代文学の時代の太宰治だってそうだったかもしれない。でも、おっしゃったように「中二病」や「メンヘラ」という言葉が広まって、それがレッテルとして機能している。そのことによって、瓶詰めされて陳列されるような、すごく軽いものになってしまった。そういう風潮へのアンチテーゼが根源にあるということですよね。

東野:はい。

── そのモチベーションが神僕の原動力として大きなものになっている理由って、どういうところにあると思いますか?

東野:そうですね……僕は今は発表できる側になったので、幾分ましかと思うんですけど、そうではなかった時期に、何かわからないけど生きづらい、しんどい、けどそれを誰もわかってくれないという感情があって。みんな絶対そういう感情を持っているにもかかわらず、平然と生きている。それを口にしないどころか、口にした人をやり玉にあげつらうような人たちもいて。それに苦しんだ側というか……。

── 自分の原体験にそういう感覚がある。

東野:そうですね。救いたいとか、傷のなめ合いではないですけど、やっぱりつらいものはつらいから、つらいもの同士仲良くしようぜ、と。

── その感覚は、メンバー全員共有してるもの? それともへいとさん一人が抱えてるもの?

東野:メンバーは実力で選んでいるので、そうかどうかはわからないですけれど。でも、音楽やってる人間って、みんなそうなんじゃないかな。

── 音楽を作る時に身近な生活や街、仲間じゃなく、息苦しさや不全感や、何かの理想郷や運命、そういうものに想像力が及ぶ。そういう人は自分だけじゃないという。

東野:そうですね。仲間とか家族とか、あるはあると思うんですけど、二人でも三人でも寂しいってあると思うんです。複数で居たって孤独は孤独で。そういうことを考えて生きてきたので。

── 思春期的な原体験にそういう感覚があった。一方で、今の神僕は「CQCQ」がドラマ主題歌になり、自分たちの想像を越えて曲が届いた実感はあると思うんです。

東野:そうですね、はい。

── あの曲が広くまで届いたことの実感は、どう捉えてらっしゃいますか?

東野:今って、やっぱり何だかわからない生きづらさ、抑圧がある世の中じゃないですか。だから思った以上に曲が届いてしまったのは、それだけ一人残らず思い当たる節があるんじゃないかと思いますね。だから、今まで届かなかったところに届いたというか、やっぱりそうじゃないか!っていうのは感じますね。

── なるほどね。確かに、インスタグラム以降、「日常生活がキラキラしていなければいけない」みたいな感覚が大きくなっていて。それを呪縛や抑圧と感じる人は多くいるかもしれない。そういうところに刺さったのかもしれない。

東野:そうですね。


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