【連載】nano.RIPE きみコの「恋だの愛だの」#3

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nano.RIPEのきみコです。

手探り、かつ、完全なる見切り発車でスタートしたこのコラム。
今回で3回目になりますが、皆様どのようなキモチであたしの恋愛遍歴を読んでくれているのでしょうか。
ああ、きみコも人なんだ、と、共感してもらえていたら嬉しいけれど。
トモダチとお茶でもしながら話しているようなゆるーい感覚で楽しんでもらえたら。


第3回のテーマは「片思い」。

片思いって、とてもステキなコトバだと思います。
日本人らしい奥ゆかしさ、儚さ、美しさ、そんなものがこれ以上ないバランスの正三角形を作っているような。
なんてことを言えるのは、「片思い=思い出」という公式があたしのアタマの中に成り立っているからかもしれないけれど。

思い出は必ずしもキレイになるわけではないけれど、断片を切り取らず「片思い」という大きな括りにすると大抵はキレイに見える。
いや、違うかな。実際とてもツラかったキオクだから、キレイにしてしまわないとココロが押し潰されてしまうのかな。
そもそも、「片思い」とちゃんとコトバに出来るということは、すでに自分の中で過去のものとして消化出来ているということが前提であって…
なんて理屈っぽく説明するとせっかくの美しいコトバも台無しですね。
つまり、思い返すとほっこりとしたキモチになれる恋のみをあたしの中では「片思い」と分類出来るような気がするのです。

とはいえ、そんな片思いだって渦中に居る時は波乱万丈。
何人もの自分が次から次へと現れ、自分じゃないみたいな自分同士が毎日のように大ゲンカ。
自分で自分を否定したかと思えば、その数秒後には大袈裟なくらいに慰めたり。
天使、悪魔、表、裏、めまぐるしく変化する感情に支配され、本体が思考停止することだってザラにある。
それでも学校や仕事や日々の生活は当たり前に進んでいって、本当はなんにも手に付かないくらいにただヒトリを想っているのに、張り付いたような笑顔でやり過ごす。これ、もはや苦行です。

でも、そんな片思いがどうしてほっこりとした思い出に変わるかって、それはキオクという名のマジック。

キオクは曖昧で、それ故にぼくら人間は生きていける、というような意味のコトバをどこかで目にしたことがあるけれど、本当にその通り。
毎日毎日焦がれて止まなくて、仕事も勉強も手がつかないくらいにただヒトリを思って、想って、そんな一方通行ツラくないわけないのに、どうしてか思い返すとくすぐったいくらいにキレイな思い出になっている。
思い出だけでゴハンが3杯食べられちゃうような。あたしで言うと、思い出だけで曲が3曲書けちゃうような。

カラクリはきっと「悲劇のヒロイン」。それも、都合の良い「悲劇」。
映画とかでもそう。悲劇には人間が心地良く泣ける黄金比みたいなものがあって、思い出の中の片思いはピッタリとそこに当てはめられているのです。

ヒトリの人を想い続けた自分、見返りを求め過ぎなかった自分、こっそり泣いた背景はキレイな景色に入れ替わり、なんなら洋服だって着替えちゃっているかも。
叶わなかった恋だからこそ、自分のアタマの中にしかなかった気持ちだからこそ、都合よく変換出来る。
でも、それで良いんです。それだから良いんです。
そうじゃなきゃ人はもう恋をしなくなってしまうから。

でもね、そんな風に変換しなくても、片思いは本当にキレイなもの。
渦中に居るときはそんな余裕ないけれど、片思いをしている人を端から見ると、だれかを好きになることの素晴らしさを知る。
恋人になったり、夫婦になったり、カタチが変わると二度と手に入らないものが片思いにはある。
わかっているのに、わかっていても、貫けないから、もう戻れない青春時代を振り返るようなキモチであたしは「片思い」を振り返るのです。

青春時代、10代の頃のあの感覚を取り戻すことは年を重ねるほどに難しくなってゆくけれど、片思いのあの感覚はいくつになっても体験出来る。
そうして焦がれて、また新たな恋をして、片思いのど真ん中に足を踏み入れた時に思うのです。

「あれ…こんなにツラかったっけ…」

人は忘れゆく生き物。
あたしもこの先の人生で、まだまだそんなことを繰り返してゆくのかな。

nano.RIPE Vo.きみコ

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