いい音爆音アワー vol.70「日本ポップス青春期=70年代」

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爆音アワー
いい音爆音アワー vol.70「日本ポップス青春期=70年代」
2016年9月14日(水)@風知空知
ちょうど70回目ということで、1970年代にフォーカスしてみました。
世界的にもそうですが、日本でも音楽市場が劇的に変化した10年間です。ロック、フォーク、アイドル、ニューミュージック、テクノポップ……みんな60年代末〜70年代に登場し、驚くほどの勢いで成長しました。まさに日本のポップ・ミュージックの青春時代。
なぜそれが70年代だったのか、社会背景なども合わせて考えつつ、これだけは聴いとかないと♪と思う重要音源をピックアップしてみました。
福岡智彦 (いい音研究所)

セットリスト

▶1960年代の終焉
象徴的な諸事件…
1969年7月3日 ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが死去。
1970年4月10日 ポール・マッカートニーがビートルズからの脱退を発表。ビートルズ解散
1970年9月18日 ジミ・ヘンドリックス死去。
1970年10月4日 ジャニス・ジョプリン死去。
  • The Beatles「Let It Be」(シングルver.)
    驚くのは、69年に『Let It Be』と『Abbey Road』の2作を作っていること。解散直前なのに創作力凄い。
▶ロック登場
エレキ・ギターの進歩、PAシステムの開発などを背景に、60年代の終わりから、英米では大音量のロック・ミュージックが盛況を極める。
それに影響を受けて、日本でも多くのロック・バンドが生まれ、ロック・イベントも盛んに開催されるが…、結局この時期の日本のロックは売れなかった。
考えられる要因は3つ。
1.フェンダーやギブソンの楽器・アンプは高かった。1ドル=360円の時代だからね。
2.PAがお粗末だった(「ニューミュージック・マガジン」 72年10月号に 「音響装置がこれからの問題」 という記事があった)。
3.「世界を目指す」と言って英語で唄うバンドが多かった(だったら洋楽を聴くだろう)。
  • はっぴいえんど「いらいら」
    「奇跡」という言葉を軽々しく使いたくないが、この4人が集まったのはやっぱり奇跡としか言いようがない。日本のロックの創始にして完成形。
  • クリエイション「You Better Find Out」
    坂本九が全米1位になった記憶がまだ新しかったから、そしてGSが歌謡曲でしかなかったから、世界を目指すロックは英語で!という発想になった。
▶フォーク・ブーム
60年代後半から70年代前半にかけて、日本で多くの若者の支持を集めたのはロックではなく、 フォークだった。 アコースティック・ギターを中心としたシンプルな編成で演奏されることが多かったフォークソングは、 高度な音楽的素養を必要とせず、 また楽器も安価に入手できることもあって、 多くのアマチュアシンガーやグループを生み出した。そうした中から、 やがて有力なシンガーたちが登場してくる。
  • よしだたくろう「親切」
    ヒット・アルバム『元気です。』の中では地味な曲ですが、デビュー曲の「イメージの詩」と同様のスタイルで、完成度はより高いと思う。拓郎にしかできない境地です。
  • 井上陽水「人生が二度あれば」
    暗い歌だけど、この歌唱に惹かれない人はいないでしょう。
  • 赤い鳥「A Fool On the Hill」
    はっぴいえんどより、五輪真弓より2年も早い海外レコーディング。しかもデビュー前に。プロになりたくないって言ってたのに。…いい時代。
  • ザ・ディランII
    「プカプカ(みなみの不演不唱<ぶるうす>)」
    URCレコード発。関西フォークは土臭さが魅力。
  • 中島みゆき「わかれうた」
    ヤマハのポプコンも70年代を作ったジェネレータのひとつ。
▶アイドル
60年代までは、人気芸能人は「スター」と呼ばれていた。
1971年にデビューした新三人娘(小柳ルミ子4月・南沙織6月・天地真理10月)がアイドルの源流とされ、これ以来「アイドル」という言葉に独特のイメージが定着した。
  • 南沙織「17才」
    デビューした時は、まだ沖縄返還前でした。
  • 麻丘めぐみ「芽ばえ」
    歌に合わせた”フリ”の元祖だと思います。
  • 太田裕美「青い傘」
    この人の場合、アルバムの片隅にも名曲が隠れているのです。
  • 山口百恵「夢先案内人」
    1980年、弱冠21歳で完全引退。70年代を席巻し、”菩薩”とまで言われたアイドル。
  • キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」
    1978年に渡辺プロに入社した私が、新入社員の研修で行かされたのが後楽園の「ファイナル・カーニバル」。ラッキーでした(^^)。
▶ニューミュージック
「フォーク」という言葉にある反体制的あるいは私小説的というイメージ、「ロック」にあるヘビーなサウンドのイメージには収まらず、歌謡曲でもない新しい音楽についてこう呼ぶようになった。
ちなみに1969年に創刊された「ニュー・ミュージック・マガジン」は、1980年に「ミュージック・マガジン」と改称している。
  • 荒井由実「返事はいらない (album ver.)」
    「天才」という言葉も軽々しく使いたくないが(最近ほんと「神」まで軽いからね)、18歳でこんな詞曲を作り、アレンジもしてしまうなんて、本物の天才。
  • 五輪真弓「少女」
    デビュー・アルバムをいきなりロス録音。しかもキャロル・キングがピアノ。かっこよすぎます。
▶早すぎた名作たち
少し進み過ぎていたために、70年代の大衆には理解されなかったアーティストたちもたくさんいました。しかし彼らの存在が、日本のポップミュージックのレベルを底上げし、彼ら自身も次の時代では大きく開花していくのです。
  • 大瀧詠一「指切り」
    スタックス・サウンドを導入。この人はほんとに日本のポップスの可能性を大きく広げました。
  • シュガー・ベイブ「雨は手のひらにいっぱい」
    今なお古さを感じさせない名盤も、当時は売れず、評価もされなかった。つくづく人間は視野がせまいのです。
  • 鈴木茂「微熱少年」
    いざアメリカに着いてみたら、手違いでミュージシャンがブックされていなかった。名盤は逆境から生まれる?!
  • サディスティック・ミカ・バンド
    「塀までひとっとび」
    世界的なプロデューサーが自らプロデュースさせてくれと言ってきた日本のアーティストは他にないのでは?
  • 加藤和彦「シンガプーラ」
    72年に私費を投じて機材を購入し、PAサービス会社「ギンガム」を立ち上げた人。そういう面からも日本のポップミュージックを切り拓いた偉い人なのです。
  • RCサクセション「やさしさ」
    制作後5年も経ってようやく日の目を見た名盤。やはりよいものは不滅です。なお、巨人軍は不滅ではありません。
  • 矢野顕子「丘を越えて」
    高2でプロとして認められた、ユーミンと並ぶ天才少女。
▶テクノポップ
細野さんの「イエロー・マジック」構想、シンセサイザーとシーケンサーの発達、ディスコ・ブーム、インベーダーゲーム、村井邦彦さんの意志、という5要素がYMOのテクノポップを生んだと思う。
  • Yellow Magic Orchestra
    「Yellow Magic (Ton Poo)」
    発売された頃は、「細野さん、どうしちゃったんだろう?インベーダー・ゲームのやり過ぎかな?」と思っていました。
▶J-POPの予兆
「ニューミュージック」はやがて「J-POP」という枠に飲み込まれていく。
「J-POP」という言葉が作られたのは1988年の終わりか1989年の頭。1988年10月に開局したばかりのJ-WAVEが言い始めた。
「ニューミュージック」までは、テレビに出ないとか、やはりどこかサブカルチャーの匂いがあるが、「J-POP」はもはやメインストリームである。日本でもっとも売れ、もっともありふれた音楽は、歌謡曲からロック/ポップス的音楽にとって代わったということだ。
70年代にはその言葉は存在しないわけだが、最初からテレビで活躍し、売れるポップスを作ったサザンオールスターズは元祖「J-POP」と言えるのではないだろうか。
  • サザンオールスターズ「思い過ごしも恋のうち」
    言葉とメロディがこれでもかこれでもかと畳みかけてくる。改めて、よくできたポップミュージックだと思います。
                        
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