いい音爆音アワー vol.68「遅咲き*特集」
デビューまでに時間がかかった人、デビュー後に時間がかかった人、その両方!といろいろありますが、いずれにせよ、若くしてすぐに売れた人は、実力の有無に関わらず、その時代に受け入れられやすい、つまりキャッチーな何かを持っていたのでしょうね。それに対して、遅咲きな人は、キャッチーさは足りなかったけど、実力を持っていたはず。実力がなければ、花開くこともなかったでしょう。
なぜ遅咲きだったのか、調べたり考えたりしながら、その音楽を聴いてみるのも、また興味深いものです。
セットリスト
- Cyndi Lauper「Time After Time」満開(ブレイク)時32歳。一度バンドでデビューの後、自己破産という苦労人。
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アルバムからの第2弾シングル(1984年1月27日発売)
シンディ・ローパー:
1st アルバム『She’s So Unusual』(1983年10月14日発売)収録
作詞・作曲:Cyndi Lauper, Rob Hyman/プロデュース:Rick Chertoff
全米1位 アルバムは全米4位
アルバムタイトルの『She’s So Unusual』は、1929年に発売されたHelen Kaneという女優が唄う「He’s So Unusual」のもじり。この曲のカヴァーもアルバムに収録されている。
1953年6月22日、米国ニューヨーク州ニューヨーク市クイーンズ区生まれ。
17歳の時、高校を退学し、愛犬スパークルを連れて家を出る。ウェイトレスや絵のモデル、空手道場の呼び込みなどいくつもの仕事をしながら、アートスクールに通い、バンド活動を行う。
1978年、自身のバンド”Blue Angel”を結成する。
当時、”The Allman Brothers Band”のマネージャーをしていたスティーヴ・マサースキーSteve Massarskyが彼らのデモ・テープを気に入り、5,000ドルで契約し、マネージメントを引き受ける。
1980年、ポリドール・レコードよりアルバム『Blue Angel』リリース。多くの評論家から絶賛されたが、売上はさっぱりで、バンドも解散してしまう。その際、バンドメンバーとマサースキーがトラブり、マサースキーはバンドに対し、80,000ドルの損害賠償を提訴する。シンディはそれにより自己破産してしまい、ストレスもあってか、声帯を痛めて一時声が出なくなってしまう。やがて、再びウェイトレスをしながらクラブで唄う生活に戻る。
1981年、EPIC傘下のポートレート・レコードと契約。
1983年10月、1st アルバム『She’s So Unusual』リリース。【音楽活動開始から5年/初回デビューから3年/この時30歳】5曲をシングル・カットし、その内の4曲が全米5位以内に入る。アルバムはトップ200に65週間ランクインし、世界で2200万枚を売り上げる。
1985年のグラミー賞で「Best New Artist」と「Best Album Package」(art director: Janet Perr)を獲得。また「Girls Just Want to Have Fun」のMVは第1回(1984年)MTV Video Music Awardsで「Best Female Video」を受賞。
1986年9月、2nd アルバム『True Colors』リリース。
1997年11月、44歳にして初の子供、長男出産。
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- サカナクション「ネイティブダンサー」山口一郎がビクターとの育成契約をしてから、満開まで14年。
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配信シングル(2009年2月9日発売)
1980年9月8日生まれ、北海道小樽市出身の山口一郎は10代の頃より、ビクターの育成部門に所属。
3rd アルバム『シンシロ』(2009年1月21日発売)収録
作詞・作曲:山口一郎
2005年、札幌出身の岩寺基晴(g)とユニット”サカナクション”を結成。
2006年春、草刈愛美(b)、岡崎英美(key)、江島啓一(dr)をサポートメンバーに(デビューとともに正式加入)。
2007年5月、ビクター・エンタテインメントの「BabeStar Label」より、アルバム『Go To the Future』でデビュー。
2009年1月、BabeStarからビクター・レーベルに移り、3rd アルバム『シンシロ』発売。オリコン8位に達する。【結成から4年/デビューから2年/山口がビクターに所属してから10年/山口この時28歳】
2010年1月、シングル「アルクアラウンド」、3月、アルバム『kikUUiki』リリース。それぞれオリコン3位に達する。
10月8日、初の武道館ライブ。
2013年3月、アルバム『sakanaction』リリース。初のオリコン1位を初登場で達成した。
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- Franz Ferdinand「Take Me Out」ボーカルのアレックスは3度目のデビュー。満開時32歳。
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2nd シングル(2004年1月12日発売)
フランツ・フェルディナンド(ほんとの発音はフランツ・ファーディナンド):
1st アルバム『FRANZ FERDINAND』(2004年2月9日発売)収録
作詞・作曲:Alexander Kapranos, Nicholas McCarthy/プロデュース:Tore Johansson
全英3位 アルバムは全英3位・全米32位。世界で400万枚を売り上げる。
スコットランドのグラスゴー芸術大学の同期だったアレックスとボブが中心に2001年に結成。
この時、アレックスは29歳。すでに2つのバンドで2度デビューしていた。
2003年5月、Domino Recordsと契約。同年9月にシングル「Darts of Pleasure」をリリース。
2004年1月、NME誌の表紙に抜擢される。同月、2nd シングル「Take Me Out」リリース。初登場全英3位。
2月、1st アルバム『FRANZ FERDINAND』リリース。
初登場全英3位。NME誌の2004年ベスト・アルバムに選出される。【アレックスこの時32歳】
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- Sheryl Crow「All I Wanna Do」デビュー・アルバム予定の音源を気に入らないとお蔵にした女傑。
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アルバムからの第3弾シングル(1994年4月4日発売)
シェリル・クロウ:
1st アルバム『Tuesday Night Music Club』(1993年8月3日発売)収録
作詞・作曲:Sheryl Crow, Kevin Gilbert, Wyn Cooper, Bill Bottrell, David Baerwald/プロデュース:Bill Bottrell
全米2位 アルバムは全米3位
1995年のグラミー賞で、本曲が「Record Of the Year」と「Best Female Pop Vocal Performance」、本人は「Best New Artist」を獲得。
「Tuesday Night Music Club」とは当時つきあっていたKevin Gilbertに誘われて入ったミュージシャン仲間の会。
1962年2月11日、米国ミズーリ州ケネット生まれ。
ミズーリ大学コロンビア校で、作曲、演奏、教育の学士を取得。在学中は地元のバンドで歌っていた。
大学卒業前からミズーリ州フェントンの小学校教師として音楽を教える。平行してコマーシャルのジングル制作の仕事もする。
1986年、音楽をやるためカリフォルニアに移住。
1987年から1989年、マイケル・ジャクソンの「Bad World Tour」でコーラスを務める。スティーヴィー・ワンダー、ベリンダ・カーライル、ドン・ヘンリーなど多くのアーティストのレコーディングへバッキング・ボーカルとして参加。
1990年、A&Mレコードと契約。
1992年、ヒュー・パジャムHugh Padghamのプロデュースによりデビュー・アルバムをレコーディング、1992年9月22日にセルフ・タイトルで発売される予定だったが、レコード会社との話し合いの末、無期延期となってしまう。オーバー・プロデュースが本人の気に入らなかったものと思われる。
1993年8月、やっとデビュー・アルバム『Tuesday Night Music Club』リリース。当初は動きが鈍かったが、1994年4月にシングル・カットした「All I Wanna Do」が秋になって急に売れ始める。【音楽活動開始後7年/デビュー時31歳/この時32歳】
1996年9月、2nd アルバム『Sheryl Crow』リリース。シングル「If It Makes You Happy」が大ヒット。
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- Lee Dorsey「Ride Your Pony」海軍→プロボクサー→自動車修理屋→歌手→自動車修理屋(笑)→歌手。
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シングル(1965年暮発売)
リー・ドーシー:
2nd アルバム『RIDE YOUR PONY / GET OUT OF MY LIFE, WOMAN』(1966年発売)収録
作詞・作曲:Naomi Neville(Allen Toussaintのペンネーム)/プロデュース:Allen Toussaint/演奏:デビュー前の”The Meters”の面々
シングルはR&Bチャート7位、全米28位
1924年12月24日ー1986年12月1日 米国ルイジアナ州ニューオリンズ出身
第二次大戦では海軍に従軍し、戦後は”Kid Chocolate”というリングネームでプロ・ボクサーとして活躍した。
1955年にボクシングを引退し、自動車修理屋を開業しつつ、夜はクラブで歌い始める。
1958年、初のシングル「Rock Pretty Baby/Lonely Evening」をリリースするが売れない。【この時33歳】
1960年、あるパーティで偶然にプロデューサーのアラン・トゥーサンAllen Toussaintと出会い、意気投合、Fury RecordsのA&Rマンだったマーシャル・スホーンMarshall Sehornを紹介される。
1961年、アラン・トゥーサンのプロデュースによりシングル「Ya Ya」をリリース。ビルボードHOT100で7位とヒットするが【この時36歳】、その後低迷し、自動車修理の仕事に戻る。
1965年、陸軍の兵役を終えたトゥーサンが、スホーンと共に「Sansu」という制作会社を設立、再び、ドーシーに声をかける。「Ride Your Pony」や「Working in the Coal Mine」など、いくつかの作品をヒット・チャートに送り込む。【この時40歳】
1970年、アルバム『Yes We Can』リリース後、また自動車修理の仕事に戻る。
1980年、アルバム『Night People』をリリースし、”The Clash”の米ツアーの前座を務める。
1986年12月1日、肺気腫により死去。享年61歳。
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- Chris Rea「Twisted Wheel」米で売れると英で売れず、英でダメだと思ったら、欧で売れる。やがて英で1位をとるが、なぜか米では100位以下。
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2nd アルバム『DELTICS(デルティクスの渚)』(1979年発売)収録
クリス・レア:
作詞・作曲:Chris Rea/プロデュース:Gus Dudgeon
1951年3月4日 英国イングランド北東部ミドルズブラMiddlesbrough出身
ジョー・ウォルシュに傾倒して最初のギターを買って音楽の道を志したのが22歳のとき。
1973年、デイヴィッド・カヴァデールDavid Coverdaleがいたミドルズブラのバンド “Magdalene” (その後 “Beautiful Losers”)に参加。
1974年、マグネット・レコードよりデビュー・シングル 「So Much Love」をリリース。
1978年6月、エルトン・ジョンを育てたガス・ダッジョンGus Dudgeonのプロデュースで1st アルバム『Whatever Happened to Benny Santini? (何がベニーに起ったか)』をリリース。シングル・カットされた「Fool (If You Think It's Over)」は全米12位、ACチャートでは1位と、アメリカでヒットした(アルバムは49位でこれが生涯最高)。この曲はグラミー賞の「Song Of the Year」にもノミネートされたが、これはビリー・ジョエルの「Just the Way You Are(素顔のままで)」が獲得している。
1979年、2nd アルバム『DELTICS』をリリースしたが、エルトン・ジョンやビリー・ジョエルのような音楽で売ろうとするレコード会社側に、ブルース志向を強めたいレアは反発、しだいに軋轢は大きくなる。
1983年、5th アルバム『Water Sign』に、レコード会社はほとんど関心をなくしていたが、なぜかヨーロッパおよびアイルランドでヒット、わずか2、3ヶ月で50万枚を売り上げた。
1985年リリースの7th アルバム『Shamrock Diaries』からようやくイギリスでも認知されるようになっていった。
1987年リリースの9th アルバム『Dancing with Strangers』は全英2位となり、ワールド・ツアーを行い、ウェンブリー・スタジアムで2度公演を行った。
1989年、10th アルバム『The Road to Hell』リリース。ついに全英1位となるが、一方アメリカでは107位と振るわなかった。【デビューから15年/この時38歳】
1991年2月、11th アルバム『Auberge』リリース。再び全英1位となったが、全米176位。
以降、売上的にはしだいに下がっていく。
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- Lenine「Hoje Eu Quero Sair Só」ブラジリアン・ロックの遅咲きアーティスト代表。
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3rd アルバム『O Dia Em Que Faremos Contato(未知との遭遇の日)』(1997年発売)収録
レニーニ:
作詞・作曲:Lenine, Mu Chebabi, Caxa Aragão/プロデュース:Chico Neves
1959年2月2日、ブラジル・ペルナンブーコ州レシーフェ生まれ。
MPB(エミ・ペー・ベー)=Brasilian Popular Musicを代表するアーティスト。
1983年、Lula Queirogaとのデュオでアルバム『Baque Solto』をリリース。
1993年、2ndアルバムはMarcos Suzanoとのデュオで『Olho de Peixe(魚眼)』で注目を浴びる。このとき34歳。
1997年、初のソロ・アルバム『O Dia Em Que Faremos Contato(未知との遭遇の日)』(1997年)リリース。ブラジルでヒット。【デビューから14年/この時38歳】
その後はブラジル音楽シーンの中で確固たる地位を獲得し、自身の作品のみならずプロデューサーとしても活躍する。
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- 【追悼コーナー】Bernie Worrell
Parliament「SUPERGROOVALISTICPROSIFUNKSTICATION」ファンク界の天才キーボード奏者が72歳で永眠。- ∨
4th アルバム『Mothership Connection』(1975年12月15日発売)
バーニー・ウォーレル:
作詞・作曲:George Clinton, Bootsy Collins, Bernie Worrell, Garry Shider
アルバムは全米13位 R&B4位
1944年4月19日、米国ニュージャージー州ロングブランチ生まれ。
キーボード&オルガン奏者、アレンジャー。
3歳からピアノを習い、8歳でピアノ協奏曲を自作、10歳でワシントン・シンフォニー・オーケストラと共演した早熟の天才。絶対音感の持ち主でもあった。
米名門音楽院の一つ、ニューイングランド音楽院でクラシック音楽を学ぶ。
1969年、ジョージ・クリントンに勧誘され、”Funkadelic”の1st アルバム『Funkadelic』の録音に参加。Funkadelicと同じメンバーからなる別のファンクグループ”Parliament”においても活躍した。このFunkadelicおよびParliamentの作る音楽を「Pファンク」と言うが、バーニーは、ピアノ、ハモンドオルガン、モーグ・シンセサイザーを駆使し、Pファンクの独創的な音作りの根底を築いた。メンバーの出入りの激しいPファンク軍団において最初から最後まで参加した最重要人物である。
1980年代は”Talking Heads”の準メンバーとして活躍した他、キース・リチャーズなど数多くのミュージシャンと共演し、数多くのアルバムを残している。
2016年6月24日、肺癌で逝去。享年72歳。
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- スピッツ「あわ」『名前をつけてやる』を買って、売れてないけどいい歌だなと思ってました。
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2nd アルバム『名前をつけてやる』(1991年11月25日発売)収録
スピッツ:
作詞・作曲:草野正宗/編曲:スピッツ
東京造形大で草野マサムネ、田村明浩が出会い、草野が武蔵野美術大学に再入学した後、文化服装学院の三輪テツヤ、崎山龍男が加わった。
1987年、ライブハウスで活動を始める。
1990年3月、新宿ロフトのレーベル、ミストラルよりミニ・アルバム『ヒバリのこころ』をリリース。
1991年3月、ポリドールより、1st アルバム『スピッツ』をリリース。FM802で「ニノウデの世界」がヘビーローテーションになるが、チャートインせず。
1991年11月、2nd アルバム『名前をつけてやる』リリース。
1992年9月、3rd アルバム『惑星のかけら』リリース。出すたび、だんだん売上枚数が下がる。
1993年9月、4th アルバム『Crispy!』リリース。これも不振で、草野は自信をなくすが、10月にシングル・カットした「君が思い出になる前に」がテレビ東京「もっと素敵に!」のテーマソングになり、初のオリコン・チャート入りを果たす。(33位)
1994年4月、シングル「空も飛べるはず」リリース。スマッシュ・ヒットで7万枚売れる。
1994年9月、5th アルバム『空の飛び方』リリース。オリコン14位。
1995年4月、11th シングル「ロビンソン」リリース。オリコン最高4位、通算30週以上チャートにランクインするというロングセラーとなり、162万枚の大ヒットとなる。【結成から8年、デビューから4年】
9月、6th アルバム『ハチミツ』リリース。初のオリコン1位。
1996年1月、フジテレビ系ドラマ「白線流し」の主題歌に「空も飛べるはず」が起用され、リバイバル・ヒット、オリコン1位、148万枚を売り上げる。
2016年7月27日、15th アルバム『醒めない』リリース予定。
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- 山下達郎「Ride On Time」売れなくて、作曲家への転向を考えた時もあったそうです。
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4th シングル(1980年5月1日発売)
山下達郎;
7th アルバム『Ride On Time』(1980年9月19日発売)収録
作詞・作曲・編曲:山下達郎
青山純・伊藤広規・椎名和夫・難波弘之というラインアップでの最初のレコーディング曲。リハーサルをしながらリズム・アレンジを作っていったという。Alto sax solo: 土岐英史
自ら出演したマクセル・カセットテープのCMイメージ・ソング
オリコン3位 アルバムは1位
1953年2月4日 東京都豊島区池袋生まれ。
1972年8月、後にシュガー・ベイブのメンバーとなる村松邦男と鰐川己久雄を含む友人たちとアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』を制作。
1973年春、大貫妙子、野口明彦、村松、鰐川と”シュガー・ベイブ”を結成。
1975年4月、シュガー・ベイブ、アルバム『SONGS』、シングル「DOWN TOWN」同時リリース。
1976年3月、山下、伊藤銀次、大瀧詠一による『NIAGARA TRIANGLE vol.1』リリース。
4月1日、シュガー・ベイブ解散。
12月、RCA/RVCより、全曲アメリカ・レコーディングの1st ソロ・アルバム『CIRCUS TOWN』リリース。
1977年5月、2nd アルバム『SPACY』リリース。
1978年12月、3rd アルバム『GO AHEAD!』リリース。
1979年春、「BOMBER」が大阪のディスコを中心にスマッシュ・ヒット。売上が低迷を続け、作曲家への転向を考えていたが、ようやく状況が好転し始める。
1980年5月、シングル「RIDE ON TIME」リリース。
9月、アルバム『RIDE ON TIME』リリース。オリコン1位を記録。【初レコードから8年/ソロ・デビューから4年】
1994年4月、シュガー・ベイブ『SONGS』を初CD化。オリコン3位。
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- Aretha Franklin「Day Dreaming」“The Queen Of Soul”になるまで、デビューから7年かかりました。
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シングル(1972年2月発売)
1942年3月25日、米国テネシー州メンフィス生まれ
19th アルバム『Young, Gifted and Black』(1972年1月24日発売)収録
作詞・作曲:Aretha Franklin/プロデュース:Tom Dowd, Arif Mardin, Jerry Wexler
ドラム:Bernard ""Pretty"" Purdie/ベース:Chuck Rainey/ギター:Cornell Dupree
R&B1位、POP5位 アルバムはR&B2位、POP11位
有名な教会の牧師だった父の元で育てられ、子供の頃から父の教会でゴスペルを歌っていた。
1956年、J.V.B. Recordsと契約し、ゴスペル・アルバム『Songs of Faith』をリリース。
1960年、コロムビア・レコードと契約、9月に1st シングル「Today I Sing the Blues」をリリース、R&Bチャートで10位となったが、いくつかスマッシュ・ヒットはあったが、それ以上にはなかなかいかず。のちにコロムビアの重役、ジョン・ハモンドJohn H. Hammondは「コロムビアは彼女のゴスペル・フィーリングを理解せず、本当の魅力を引き出せなかった」と述べている。
1967年1月、Atlantic Recordsに移籍、2月に「I Never Loved a Man (The Way I Love You)」が発売されるといきなりR&Bチャートで1位、POPチャートでも9位。
さらに4月、オーティス・レディングの「Respect」をカヴァーでリリースすると、R&B、POPともに1位を獲得。【ゴスペルから11年/デビューから7年/アルバム11作目】
1968年1月リリースの14th アルバム『Lady Soul』、6月リリースの15th アルバム『Aretha Now』をピークに1970年代の前半まで快進撃を続ける。
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- Special Others「Hawaiian Secret Beat」インストでここまで大きな花を咲かせたのはえらい。遅咲き上等。
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5th アルバム『Have a Nice Day』(2012年10月10日発売)収録
スペシャル・アザーズ:
作曲・プロデュース:Special Others
1995年、神奈川県立岸根高等学校の同級生にて結成。
2000年頃よりストリート、クラブ、レストランバーなどで活動。
2005年6月、ビクター傘下Babe Starよりミニ・アルバム『UNCLE JOHN』リリース
2006年6月、ビクターよりミニ・アルバム『IDOL』リリース。精力的なライブ活動、各フェスへの出演などで徐々に知名度を上げる。
2009年4月、3rd アルバム『PB』リリース。オリコン10位。初のオリコンTOP10入り。
2012年10月、5th アルバム『Have a Nice Day』リリース。オリコン8位。【結成から14年、デビューから7年】
2013年、日本武道館でのワンマンライブを開催、ソールドアウトとなる。
2015年10月、最新6th アルバム『WINDOW』リリース。
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- Maroon 5「Sunday Morning」アルバム発売から2年以上かけてのトップ10入りは最長記録だそう。
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アルバムからの第4弾シングル(2004年12月2日発売)
マルーン 5:
1st アルバム『Songs About Jane』(2002年6月25日発売)収録
作詞・作曲:Adam Levine & Jesse Carmichael/プロデュース:Matt Wallace
シングルは全米31位止まりだったが、この曲がOctoneとの契約の決まり手になった。アルバムは全米6位・全英1位
1994年から、アダム・レヴィーンAdam Levine (vo, g)、ジェシー・カーマイケルJesse Carmichael (key, g)、ミッキー・マデンMickey Madden (b)、ライアン・デューシックRyan Dusick (dr)の4人組バンド”Kara's Flowers”として活動。
1997年8月、リプリーズ・レコードより、Greendayを手がけたロブ・キャヴァロRob Cavalloプロデュース、元”Jellyfish”のロジャー・マニングRoger Manningやデイヴィッド・キャンベルDavid Campbell(Beckの父)らも参加したアルバム『The Fourth World』をリリース。しかし売れず、半年後に廃盤、1999年には契約も終了する。
ジェイムズ・ヴァレンタインJames Valentine (g)が加入し5人編成になったことで”Maroon 5”と改称。
2001年4月、ニューヨークの新設レーベルOctone Recordsと契約、第1号アーティストとなる。
2002年6月、1st アルバム『Songs About Jane』リリース。当初は売れなかったが、ライブ活動などで徐々に話題を集め、2004年9月には全米6位となった。【結成から10年/デビューから7年】
2005年の第47回グラミー賞では「最優秀新人賞」を受賞。
2007年5月、2nd アルバム『It Won't Be Soon Before Long』リリース。全米初登場1位。
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- The Three Degrees
「Dirty Ol' Man(荒野のならず者)」意味が全く違う邦題。なんで西部劇みたいにしたんだろう?- ∨
アルバムからの第1弾シングル(1973年発売)
スリー・ディグリーズ:
アルバム『The Three Degrees』(1973年発売)
作詞・作曲・プロデュース:Kenneth Gamble & Leon Huff
シングルは英国では歌詞が卑猥として放送禁止となったりしたが、オランダでは1位。
アルバムは全英12位、全米28位
1963年の結成から現在も活動中だが、常に3人組ながらメンバーは計15人になる。
最盛期の1967〜1976年のメンバーは、ファイエット・ピンクニーFayette Pinkney、ヴァレリー・ホリデイValerie Holiday、シェイラ・ファーガソンSheila Ferguson(リード・ボーカル)。
1963年にペンシルバニア州フィラデルフィアで結成。
1965年、プロデューサーのリチャード・バレットRichard Barrettに見出され、1st シングル「Gee Baby (I'm Sorry)」リリース。
そのハーモニーのすばらしさでクラブシーンでは人気を博したが、レコードの売上にはなかなか結びつかなかった。
1973年、ケニー・ギャンブルKenny Gambleとレオン・ホフLeon Huffが1971年に設立した「Philadelphia International Records」に移籍。
1973年、アルバム『The Three Degrees』をリリース。
1974年、人気テレビ番組「Soul Train」のテーマとしてギャンブル&ホフが作詞作曲した「TSOP (The Sound of Philadelphia)」を、”MFSB”(Mother, Father, Sister, Brotherの略でPIRのスタジオ・ミュージシャン・グループ)+The Three Degreesでリリース、全米1位となった。
平行して、アルバム『The Three Degrees』からシングル・カットした「Dirty Ol' Man(荒野のならず者)」や「When Will I See You Again(天使のささやき)」(全英1位全米2位)が大ヒットし、The Three Degreesの人気が確立する。【結成から10年/デビューから8年】
1976年、Epic Recordsに移籍。
1978年、Ariola Recordsに移籍。プロデューサー、ジョルジョ・モルダーGiorgio Moroderと組んでディスコ・ヒットを飛ばす。
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- ピチカート・ファイヴ
「スウィート・ソウル・レヴュー」ぶれない存在感で、8年かけてみごと開花しました。- ∨
4th シングル(1993年4月7日発売)
1984年、小西康陽、高浪慶太郎、鴨宮諒、佐々木麻美子の4人で結成。
7th アルバム『ボサ・ノヴァ 2001』(1993年6月1日発売)収録
作詞・作曲・編曲:小西康陽
オリコン19位 アルバムはオリコン7位
1985年、細野晴臣プロデュースの12インチシングル「オードリィ・ヘプバーン・コンプレックス」でテイチク/ノン・スタンダードレーベルよりデビュー。
1986年、CBSソニーへ移籍。
1987年、1st アルバム『couples』リリース。全く売れず。同年、鴨宮諒と佐々木麻美子の二人が脱退。既に”オリジナル・ラヴ”をスタートしていた田島貴男をボーカルに迎え、1988年に2nd アルバム『Bellissima!』をリリース。その後『女王陛下のピチカート・ファイヴ』(1989年)、『月面軟着陸』(1990年)とアルバムを発表し、一部では高い評価を得るが、商業的な成果は残せなかった。
1990年、日本コロムビア/SEVEN GODS(後にTRIADレーベル)に移籍。田島貴男が脱退し、元ポータブル・ロックの野宮真貴が加入。
1993年4月、シングル「スウィート・ソウル・レヴュー」をリリース。カネボウ化粧品・夏のキャンペーンソングとして、スマッシュ・ヒットとなる。
6月、アルバム『ボサ・ノヴァ 2001』リリース。オリコン7位を記録。
12月、「東京は夜の七時」がフジテレビ系「ウゴウゴルーガ2号」のオープニング曲に採用され、さらに知名度が高まる。【結成から9年/デビューから8年】
1994年9月、アルバム『Overdose』リリース。高浪が脱退し、小西、野宮のユニットとなる。
2001年1月1日、様々な大物ゲストを迎えたアルバム『さ・え・ら ジャポン』をリリース。
2001年3月末、解散。
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- Four Tops
「I Can't Help Myself (Sugar Pie, Honey Bunch)」この曲のスタイルが典型的なモータウン・サウンドですね。- ∨
シングル(1965年4月23日発売)
フォー・トップス:
2nd アルバム『Four Tops Second Album』(1965年11月13日発売)収録
作詞・作曲: Holland–Dozier–Holland/プロデュース:Brian Holland, Lamont Dozier,
全米1位 アルバムはR&B3位、POP20位
1953年、デトロイトの高校生だったリーバイ・スタッブスLevi Stubbs、アブダル・”デューク”・ファキールAbdul ""Duke"" Fakir、ルナルド・”オビー”・ベンソンRenaldo ""Obie"" Benson、ローレンス・ペイトンLawrence Paytonの4人が”Four Aims”として結成し、以来1997年にペイトンが肝臓癌で亡くなるまで一度もメンバー・チェンジすることなく活動を続けた。
1956年、チェス・レコードと契約したのをきっかけに”Four Tops”と改名。
その後7年間、Red Top、Riverside Records、Columbia Recordsとレーベルを変えるが、いっこうにヒットが出なかった。
1963年、モータウンの社長、Berry Gordy, Jr.が彼らの将来性を確信し、契約する。
とは言え、最初のうちはスタンダード・ジャズのカバーやSupremesなど他のアーティストのバッキング・ボーカルなどを務めるだけ。
あるとき、作家チームのHolland–Dozier–Holland (Lamont Dozierと、BrianとEddieのHolland兄弟)が、特に使う当てのないインスト・トラックを作った。彼らはこれにメロディをつけてフォー・トップスに歌わせ、「Baby I Need Your Loving」として1964年の半ばに発売すると、全米11位のヒットとなった。
1965年6月、「I Can't Help Myself (Sugar Pie, Honey Bunch)」が全米1位を獲得。
その後は次々とヒットを飛ばす。【結成から12年/デビューから9年】
1966年8月、彼らにとって最大のヒットとなる「Reach Out I'll Be There」(全米1位)リリース。
1967年にHolland–Dozier–Hollandが契約トラブルでモータウンを去り、それ以降はヒットががくんと少なくなってしまう。
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- REO Speedwagon「Keep the Fire Burnin’」メンバーチェンジ、特にボーカリストがコロコロ代わったのが遅咲きの原因でしょうかね。
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アルバムからの第1弾シングル(1982年6月発売)
REOスピードワゴン:
10th アルバム『Good Trouble』(1982年6月11日発売)収録
シングル、アルバムともに全米7位
1966年秋、米国イリノイ州のイリノイ大学に入学したニール・ドーティNeal Doughty (key)がアラン・グラッツァーAlan Gratzer (dr)と出会う。アランはバンド活動をしていたが、1967年春、そのバンドメンバー、ジョー・マットJoe Matt (g)、マイク・ブレアMike Blair (b)とともに脱退、ニールと新たなバンドを結成する。1967年秋にはグループ名を”REO Speedwagon”とし、パーティなどで活動を始める。
1968年春、テリー・ルトゥレルTerry Luttrell (vo)加入。何度かのメンバーチェンジの後、1970年秋にはニール、アラン、テリー、グレッグ・フィルビンGregg Philbin (b)、ゲイリー・リッチラスGary Richrath (g)となる。
1971年、Epic Recordsと契約。10月にはデビュー・アルバム『R.E.O. Speedwagon』リリース。しかし1972年初頭にボーカルのテリーを解雇。後任にケヴィン・クローニンKevin Croninが加入。
1972年12月、2nd アルバム『R.E.O./T.W.O.』リリース。3rd『Ridin' the Storm Out』制作中に、ケヴィンも脱退、マイク・マーフィーMichael Bryan Murphyが加入して完成させる。
しかし、マイクもその後の2アルバムを経て脱退、1976年初頭にケヴィンが復活。
1977年、グレッグ脱退、後任ベーシストにブルース・ホールBruce Hall。
1978年3月、7th アルバム『You Can Tune a Piano but You Can't Tuna Fish(ツナ・フィッシュ)』リリース。全米29位と初めてTOP40入りをし、200万枚を売り上げる。
1980年11月、9th アルバム『Hi Infidelity(禁じられた夜)』リリース。翌年、それまで8週連続全米1位をキープしていたジョン・レノンの『Double Fantasy』に替わり1位を獲得。その後、15週連続全米1位をキープし、売上は1000万枚を越えた。さらに1981年の年間アルバムチャートでも1位となった。シングル「Keep On Loving You」も全米1位。【結成から13年/デビューから9年】
1982年6月、10th アルバム『Good Trouble』リリース。
1984年11月、11th アルバム『Wheels Are Turnin'』リリース。全米7位。シングル・カットの「Can’t Fight This Feeling(涙のフィーリング)」は全米3週連続1位。
1985年7月13日、「ライブエイド」出演。このあたりまでが絶頂期。
1991年、解散。
1992年、再結成。その後現在も活動中。
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- エレファントカシマシ「今宵の月のように」EPIC時代はこういう曲を書かなかったのか、書けなかったのか…?
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15th シングル(1997年3月30日発売)
エレファントカシマシ:
9th アルバム『明日に向かって走れ -月夜の歌-』(1997年9月10日発売)収録
作詞・作曲:宮本浩次/編曲:宮本浩次・佐久間正英
フジテレビドラマ『月の輝く夜だから』主題歌
オリコン8位 アルバムは2位
1981年、北区立赤羽台中学校1年6組の石森敏行 (g)と冨永義之 (dr)を中心とする中学の同級生で結成され、中学3年時に宮本浩次が加入。
1986年、冨永の高校時代の同級生だった高緑成治 (b)が加入し、現メンバーとなる。
12月、CBSソニー・SDオーディションに入賞。
1988年3月、EPICソニーよりシングル「デーデ/ポリスター」、アルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』でデビュー。
以降、『東京の空』(1994年5月)まで計7作のアルバムをリリースするが、最高でオリコン43位(『生活』(1990))。そしてEPICからは契約を打ち切られる。
1996年4月、ポニーキャニオンよりシングル「悲しみの果て」で再デビュー。
1997年7月、フジテレビ系ドラマ「月の輝く夜だから」の主題歌となった15th 「今宵の月のように」がオリコン初のTOP10、80万枚を超える大ヒットとなる。【15th シングルでブレイク/結成から11年、デビューから9年】
1999年、東芝EMIに移籍。
2007年、ユニバーサルミュージックに移籍。
2015年11月、最新22nd アルバム『RAINBOW』リリース。
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- オフコース「眠れぬ夜」こんなにユニークな声で、これだけハーモニーがよくて、なんで売れるまで10年もかかったのか?不思議です。
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7th シングル(1975年12月20日発売)”オフ・コース”名義
オフコース:
4th アルバム『ワインの匂い』(1975年12月20日発売)
作詞・作曲:小田和正/編曲:オフ・コース
小田が作ったデモはバラード調だったが、レコーディングの際アレンジが変更された。プロデューサーの武藤敏史が「オフコースには理屈ぬきに誰もが楽しめるような曲が少ないので」という考えの元にやったのだが、小田君は当時それがかなり不満だったらしい。
オリコン48位。初のスマッシュ・ヒット。アルバムは62位。
1964年、横浜市の聖光学院高校に在学中だった小田和正 (vo, key,g)、鈴木康博(vo, g)、地主道夫、須藤尊史がフォーク・グループを結成。名前はまだない。
1967年、”THE OFF COURSE”と命名する。
1969年11月、第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国グランプリ大会で第2位に入賞。
1970年4月5日、1st シングル「群衆の中で」(ジ・オフ・コース名義)でデビュー。
1972年4月、3rd シングル「おさらば」リリース。グループ名を”オフ・コース”とする。
1973年6月、1st アルバム『オフ・コース1 ⁄ 僕の贈りもの』リリース。
1977年8月、11th シングル「秋の気配」リリース。このシングルから表記が「オフコース」となる。
1979年12月、17th シングル「さよなら」リリース。オリコン・チャート第2位の大ヒット。
1980年11月、11th アルバム『We are』リリース。初めてオリコン1位を獲得。【結成から16年/デビューから10年/この時小田和正33歳】
これ以降『Back Streets of Tokyo』(1985年8月)まで計7作連続オリコン1位
1982年6月15日 - 30日、日本武道館連続10日間公演実施。
1989年2月26日、「The Night with Us」東京ドーム公演を実施。同日オフコース解散。
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- RCサクセション「雨あがりの夜空に」3rd アルバム廃盤のどん底から這い上がってきた強さが漲った音。
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シングル(スタジオ盤)(1980年1月21日発売)
1966年、中学の同級生だった忌野清志郎、小林和生、破廉ケンチの3人でバンド”The Clover”を結成する。
4th アルバム『RHAPSODY』(1980年6月5日発売)
作詞・作曲:忌野清志郎、仲井戸麗市/編曲:RCサクセション
アルト・サックス:梅津和時
4月5日久保講堂でのライブを収録。
1967年、高校進学によりThe Clover”解散。清志郎と小林は、上級生の武田清一(後に”日暮し”)と”The Remainders of the Clover(クローバーの残党の意)”を結成。
1968年、The Remainders of the Cloverが自然消滅した後、破廉がバンドに戻りバンド名を”The Remainders of the Clover Succession(クローバーの残党からの継続の意)”の省略形、”RCサクセション”とする。
1970年3月、シングル「宝くじは買わない」で東芝音工よりデビュー。ホリプロ所属。
1972年2月、3rd シングル「ぼくの好きな先生」がスマッシュ・ヒット。同月、1st アルバム『初期のRCサクセション』をリリース。
1974年、当時のマネージャー奥田義行がホリプロから井上陽水を連れて独立、プロダクション「りぼん」を設立。この行為に怒ったホリプロはRCの移籍を禁止、飼い殺し状態となる。この頃、3rd アルバム『シングル・マン』を制作するがこの騒ぎでお蔵入りとなってしまう。
1976年、ようやくホリプロから「りぼん」へ移籍。
4月、3rd アルバム『シングル・マン』がようやくリリースされるも、1年後に廃盤となってしまう。
1977年、破廉が脱退。
1978年、春日博文、新井田耕造、仲井戸“CHABO”麗市が加入し、フォーク形態からロック/R&Bバンドに変わっていく。清志郎は髪を逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。
1979年、春日に替わって小川が加入。そのライブ・パフォーマンスが評判となる。
音楽評論家の吉見佑子らが『シングル・マン』の再発売を期して「シングルマン再発実行委員会」を発足、ポリドールとの折衝が繰り返された結果、自主制作・300枚限定という形で再発売が決定する。
1980年1月、シングル「雨あがりの夜空に」発売記念として渋谷のライブハウス「屋根裏」で4日連続のコンサートを開催。のべ800人の観客を動員し、同所の動員記録を打ち立てる。
6月、ライブアルバム『RHAPSODY』リリース。
8月、『シングル・マン』が正式に再発売される。
10月、シングル「トランジスタ・ラジオ」リリース。
12月、アルバム『PLEASE』リリース。
1981年、初の日本武道館単独公演。【結成から13年/デビューから11年】
1990年12月25日の日本武道館でのコンサートを最後に解散。
2009年5月2日、清志郎、癌性リンパ管症により死去。享年58歳。
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- Boz Scaggs「Slow Dancer」この名曲、名唱でもまだ売れなかったんですねぇ。
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6th アルバム『Slow Dancer』(1974年3月発売)
ボズ・スキャッグス:
作詞・作曲:George Daly, Boz Scaggs/プロデュース:Johnny Bristol
1944年6月8日 米国オハイオ州キャントン生まれ。
15歳の時、学校でスティーヴ・ミラーSteve Millerと出会い、バンド活動を始める。2人は共にウィスコンシン・マディスン大学に進み、ブルース・バンドを組んだ。
卒業後、リズム&ブルースが盛り上がっていったロンドンにしばし滞在し、その後、演奏しながらスウェーデンを旅する。
1965年、スウェーデンにて1st ソロ・アルバム『Boz』を制作・リリースするが、全く売れず。
1967年、サイケデリック・ムーヴメントのさなかのサンフランシスコに滞在。再びミラーと出会い、”The Steve Miller Band”に加入する。
1968年、The Steve Miller Bandの1st & 2nd アルバムに参加する。平行して、アトランティックとソロ契約も獲得する。
1969年、”the Muscle Shoals Rhythm Section”にデュウェイン・オールマンも加わり、2nd アルバム『Boz Scaggs』を制作・リリース。評価は高かったがやはり売れず。
1971年、コロムビアに移籍。
1976年3月、後に”TOTO”を結成するミュージシャンたちと制作した、7th(コロムビアでの5th) アルバム『Silk Degrees』をリリース。 「Lowdown」をはじめ、ヒットシングルをいくつも出しつつ、アルバムは全米2位の大ヒットとなる。【デビューから11年/この時31歳】
8th アルバム『Down Two Then Left』(1977)、9th アルバム『Middle Man』(1980)も、『Silk Degrees』ほどではなかったが、ヒット。
2013年3月、5年ぶりのアルバム『Memphis』は全米17位のヒット。
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- 夏川りみ「涙そうそう」この曲と彼女の声・歌唱のマッチングはひとつの奇跡ですね。
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3rd シングル(2001年3月23日発売)
夏川りみ:
作詞:森山良子/作曲:BEGIN/編曲:京田誠一
オリコン最高8位
オリジナルは1998年に森山良子がアルバム『TIME IS LONELY』に収録。
ついで、BEGIN18枚目のシングルとして2000年3月23日に発売。
出生名:兼久りみ 1973年10月9日 沖縄県石垣市生まれ
9歳の時、石垣ケーブルテレビ主催「第1回ちびっこのど自慢大会」で優勝。
1986年(中学1年生)、第10回「長崎歌謡祭」で史上最年少でグランプリを獲得。ポニーキャニオンからスカウトされて上京。
1989年、”星美里”の名で演歌歌手としてシングル「しほり」でデビュー。
1996年、売れないまま引退し、那覇市の姉の飲食店を手伝う。
ポニーキャニオン時代のディレクター三井健生が音楽事務所を立ち上げ、彼女を東京に呼び寄せる。
1999年5月、”夏川りみ”として、「夕映えにゆれて」で再デビュー。
2001年3月 シングル「涙そうそう」リリース。じわじわと売れ、遂には116週連続チャートイン、120万枚の大ヒットとなった。【初回デビュー後12年】
2002年末、第44回日本レコード大賞で「涙そうそう」が金賞を受賞、第53回NHK紅白歌合戦に同曲で初出場した。
2003年、古謝美佐子のカバー曲「童神」が第45回日本レコード大賞・金賞を受賞。第54回NHK紅白歌合戦では再び「涙そうそう」を歌った。
2004年、「愛よ愛よ」で第46回日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞。第55回NHK紅白歌合戦では三たび「涙そうそう」を歌った。
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- Carole King「Home Again」デビューは早かったんだけど、売れるまでに13年。でも売上げ2500万枚!
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2nd アルバム『Tapestry』(1971年2月10日発売)収録
キャロル・キング(本名:Carol Joan Klein):
作詞・作曲:Carole King/プロデュース:Lou Adler
アコースティック・ギター:James Taylor/ドラム:Russ Kunkel/コントラバス:Charles Larkey
1942年2月9日、米国ニューヨーク市ブルックリン生まれ。
ハイスクール時代に”Carole King”と名乗り、”Co-Sines”というバンドを結成、同級生のポール・サイモンに手伝ってもらいデモ・テープを制作する。
1958年、ABC-Paramountよりシングル「The Right Girl」でデビュー。売れず。
同年、「Queens College」という大学に入り、そこでGerry Goffinと出会う。
1959年8月(17歳)、長女ルイーズを身ごもったのを機にゲフィンと結婚する。大学を退学し、アルバイトをしながら二人でAldon Musicに所属し、曲作りに励む。
1959年、高校時代につきあっていたニール・セダカNeil Sedakaがキャロルのことを歌った歌「Oh! Carol」がヒット、彼女も「Oh! Neil」を作ってリリースするが売れず。
1960年、”The Shirelles”に提供した「Will You Love Me Tomorrow」が、黒人女性ボーカルグループ初の全米1位の大ヒットになり、ここからGoffin&Kingは作家として大活躍、1960年から1963年にかけての3年間に、20曲以上の全米トップ40ヒットを送り出した。
1962年、その間SSWとしていくつかシングルをリリースし、「It Might as Well Rain Until September」はヒットしたが、他はサッパリだった。
1968年、ゴフィンと離婚、彼女は2人の娘を連れてロサンジェルスに転居する。
Charles Larkey (b)、Danny Kortchmar (g)とトリオ・バンド”The City”を結成、1968年にアルバム『Now That Everything's Been Said』をリリースするが、売上は思わしくなく、翌年バンドも解散する。
やがて、James Taylor、Joni Mitchell、Toni Sternらとも知り合い、彼らとの音楽交流を通じてソロ・アルバム『Writer』を創りあげ、1970年、ルー・アドラーのOde Recordsよりリリースする。全米84位。
1971年2月、2nd アルバム『Tapestry』リリース。全米15週連続1位、売上2500万枚の特大ヒットとなり、グラミー賞でも「Album of the Year」「Record of the Year (It’s Too Late)」「Best Pop Vocal Performance, Female」「Song of the Year (You’ve Got a Friend)」の4部門を受賞する。【デビューから13年】
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