ブレット・フォー・マイ・ヴァレンタイン第3作絶好調、増田勇一の『フィーヴァー』試聴記
4月21日、世界各国に先駆けてここ日本でリリースに至ったブレット・フォー・マイ・ヴァレンタイン(以下BFMV)の新作、『フィーヴァー』が、実に好調な滑り出しを見せている。オリコンの調査による発売当日のデイリー集計によれば、邦楽の強豪たちに混ざりながら6位という好位置につけており、さらに洋楽部門では首位を奪取していたりもする。
改めて基本的なことを振り返っておくと、今作は、英国はウェールズ出身のこの4人組にとって、通算3作目のアルバムにあたるもの。2004年にセルフ・タイトルのEPでUKデビューしたのち、『ザ・ポイズン』(2005年)、『スクリーム・エイム・ファイア』(2008年)とアルバム・リリースを重ねてきた。母国のみならず全米チャートでもトップ5入り(初登場4位)を果たした『スクリーム・エイム・ファイア』は、文字通りの出世作となり、全世界でのトータル・セールスも100万枚を超えている。これは見事な数字と言っていいだろう。
しかし、これはあくまで僕個人の私見だが、その『スクリーム・エイム・ファイア』には、どこか違和感をおぼえずにいられなかった。聴こえてくるサウンドの説得力は確実にバンドの成長を物語っていたし、実績面での成功に見合うような音楽的グレード・アップが確実に果たされていたようにも思う。正直、最初に聴いたときには、デビュー作に触れたとき以上の興奮をおぼえたのも事実だ。が、時間が経過していくにつれて強まっていったのは、『ザ・ポイズン』の根底にあったこのバンドならではの匂いや味、空気感といったものが、充分に活かされていないどころか打ち消されてしまっているのではないか、という思いだった。わかりにくい比喩かもしれないが、「海外遠征を経てガタイのいいパワー・ファイターになって帰国してきたプロレスラーが、若手時代の得意技を忘れてしまっていた」みたいな、そんな印象が僕のなかにはあったのだ。
だからこそ僕は、『スクリーム・エイム・ファイア』が集めてきた支持の大きさが怖かった。あの作品を貫いていたものが“らしさ”だと解釈されることになれば、それはこのバンド本来の多面性やコントラストを否定し、彼ら自身の可能性を狭めてしまうことにも繋がり兼ねないのではないか? そんな不安を拭い去ることができずにいた。もちろん僕などがあれこれ心配し始めたところで、それが何かの解決に繋がるわけではないのだが。
しかし今回の『フィーヴァー』が手元に届いたとき、僕の抱いてきた不安はすべて一瞬にして解消されることになった。ここにはまさに、過去2作の長所のみを残し、あらゆる構成要素をいっそう鋭利に研ぎ澄ますことに成功した、現在のBFMVの姿が収められている。べつに難解なことに手を出しているわけでも、あからさまなコンセプトを掲げながら自分たちの近未来を具現化しているわけでもない。斬新というよりもむしろオーソドックスな作品と呼ぶべきだろうし、だからこそ「新世代ヒーローによるヘヴィ・メタルの未来形」といったありがちな形容をすることには、僕は躊躇いをおぼえてしまう。
実際、目新しいかどうかよりも、独自性が感じられるか否かのほうがずっと重要であるはずだ。そして事実、僕には、このアルバムからこそ「BFMVがBFMVである理由」が見えてくる気がする。「他のバンドではなく、BFMVが選ばれる理由」というものが、前作よりもずっと強く感じられるように思う。
今作が完成に至るまでには、実はかなりの紆余曲折があったのだという。プロデューサーにはリンキン・パークやグッド・シャーロットなどとの仕事でも知られるドン・ギルモアが起用されているが、彼はかなりヴォーカル主体のアプローチをすることでも知られる人物。手元にある最新バイオグラフィの文面によれば、曲の基盤ができあがった時点で、彼はマット・タック(Vo、G)以外のメンバーをスタジオから追い出し、2人だけでメロディと歌詞を練りこむことに集中するという手法をとっていたのだという。
なかには「そこまでプロデューサーが踏み込んでいいのか?」と感じる読者もいることだろう。もちろんプロデューサーという職業の役割や作業スタイルは十人十色だし、音楽面にはほとんど口を出さず、アーティストの望む環境作りに徹するタイプの人たちもいる。が、このドン・ギルモアの場合は逆に、バンドの内側に踏み込みながら、楽曲を理屈に合ったものとして成立させ、より訴求力のあるものとして磨きあげていくことに労力の比重を置く人物であるようだ。実際、彼と仕事歴のあるリンキン・パークのチェスター・ベニントンや、EVE6のメンバーたちとかつて話をしたときにも、彼が“歌の力”といったものに執着するプロデューサーであること、アーティストに対して甘いハードル設定を許さない人物であることを、彼らの口から聞いた記憶がある。実際、マットにとっても彼との作業は容易なものではなかった模様で、前述のバイオグラフィのなかには、彼のこんな発言も記されている。
「ドン・ギルモアは、“自分ならばキミたちをもうひとつ上の段階へと押し上げることができる”と自信満々だった。彼には俺たちの長所と短所がはっきりとわかっていたんだ。俺たち自身、自分たちが行くべき道を進んでいること自体はなんとなく理解できていたから、俺たちが道を踏み外さずに進めるようにしてもらうことと、成果を上げるためにさらなる努力するよう俺たちに仕向けてもらうことだけが必要だった」
「これまでは、ただ歌詞とメロディを書いて、“いいな”と思えたら、それをそのまま使っていたんだ。でも彼は、本当に素晴らしいものになるまで繰り返し歌詞を書かせ、メロディを変えさせた。そこが今作での違いだね。俺は、過去から抜けきれていなかったんだ」
これまた妙なたとえで恐縮だが、要するに「得意科目も苦手科目も自覚できている学生に、それを見透かしたうえで成績アップを確約する優秀な家庭教師がついた」かのような状態だったのだろう。そして結果、今作において何よりも評価されるべきは、やはり楽曲と“歌”の訴求力だという気がする。実のところ、曲を研磨していくプロセスにおいてスタジオから締め出されたマット以外のメンバーたちには、当初、ある種の猜疑心めいたものが芽生えた部分もあったようだし、バンドの結束に亀裂を生じさせ兼ねないそのやり方にマット自身も少なからず疑問を抱いていたようだ。が、それが妙な不協和音に繋がらずに済んだのは、言うまでもなく、結果が素晴らしかったからに他ならない。
さて、そうして完成に至った『フィーヴァー』は、この4月最終週には欧米でもリリースを迎えるが、この作品が、『スクリーム・エイム・ファイア』を上回る反響を得ることになるのは、あらかじめ確実と言っていいだろう。さっそくこの4月30日には1ヵ月間に及ぶ北米ツアーが幕を開け、6月からはフェスへの出演と単独公演とが入り混じった欧州ツアーが展開されることになっている。このアルバムを携えての来日公演についても、一日も早い実現を望みたいところだ。
ところで本稿の前半、『スクリーム・エイム・ファイア』についてややネガティヴな記述をしている筆者ではあるが、この『フィーヴァー』で充足感を味わってからというもの、あの作品についての解釈自体にも自分自身のなかで変化が生じることになった。要するに僕は、BFMVが『スクリーム・エイム・ファイア』と同傾向の作品ばかりを重ねることになる危険性を感じていたわけだが、現在では同作について「性格のはっきりした作品」としての役割と存在感を、『ザ・ポイズン』から『フィーヴァー』へと至るプロセスとしての重要性を、感じずにいられない。
が、とにかく何よりも最重要なのは、『フィーヴァー』が必聴作品であるということ。とはいえ、そこで「このバンドがこれからのヘヴィ・メタルを背負っていく!」とかそういうことは敢えて言わずにおきたい。こうして本稿に目を通してくださった皆さんには、すでにそうなることがわかっているはずだから。
増田勇一
改めて基本的なことを振り返っておくと、今作は、英国はウェールズ出身のこの4人組にとって、通算3作目のアルバムにあたるもの。2004年にセルフ・タイトルのEPでUKデビューしたのち、『ザ・ポイズン』(2005年)、『スクリーム・エイム・ファイア』(2008年)とアルバム・リリースを重ねてきた。母国のみならず全米チャートでもトップ5入り(初登場4位)を果たした『スクリーム・エイム・ファイア』は、文字通りの出世作となり、全世界でのトータル・セールスも100万枚を超えている。これは見事な数字と言っていいだろう。
しかし、これはあくまで僕個人の私見だが、その『スクリーム・エイム・ファイア』には、どこか違和感をおぼえずにいられなかった。聴こえてくるサウンドの説得力は確実にバンドの成長を物語っていたし、実績面での成功に見合うような音楽的グレード・アップが確実に果たされていたようにも思う。正直、最初に聴いたときには、デビュー作に触れたとき以上の興奮をおぼえたのも事実だ。が、時間が経過していくにつれて強まっていったのは、『ザ・ポイズン』の根底にあったこのバンドならではの匂いや味、空気感といったものが、充分に活かされていないどころか打ち消されてしまっているのではないか、という思いだった。わかりにくい比喩かもしれないが、「海外遠征を経てガタイのいいパワー・ファイターになって帰国してきたプロレスラーが、若手時代の得意技を忘れてしまっていた」みたいな、そんな印象が僕のなかにはあったのだ。
だからこそ僕は、『スクリーム・エイム・ファイア』が集めてきた支持の大きさが怖かった。あの作品を貫いていたものが“らしさ”だと解釈されることになれば、それはこのバンド本来の多面性やコントラストを否定し、彼ら自身の可能性を狭めてしまうことにも繋がり兼ねないのではないか? そんな不安を拭い去ることができずにいた。もちろん僕などがあれこれ心配し始めたところで、それが何かの解決に繋がるわけではないのだが。
しかし今回の『フィーヴァー』が手元に届いたとき、僕の抱いてきた不安はすべて一瞬にして解消されることになった。ここにはまさに、過去2作の長所のみを残し、あらゆる構成要素をいっそう鋭利に研ぎ澄ますことに成功した、現在のBFMVの姿が収められている。べつに難解なことに手を出しているわけでも、あからさまなコンセプトを掲げながら自分たちの近未来を具現化しているわけでもない。斬新というよりもむしろオーソドックスな作品と呼ぶべきだろうし、だからこそ「新世代ヒーローによるヘヴィ・メタルの未来形」といったありがちな形容をすることには、僕は躊躇いをおぼえてしまう。
実際、目新しいかどうかよりも、独自性が感じられるか否かのほうがずっと重要であるはずだ。そして事実、僕には、このアルバムからこそ「BFMVがBFMVである理由」が見えてくる気がする。「他のバンドではなく、BFMVが選ばれる理由」というものが、前作よりもずっと強く感じられるように思う。
今作が完成に至るまでには、実はかなりの紆余曲折があったのだという。プロデューサーにはリンキン・パークやグッド・シャーロットなどとの仕事でも知られるドン・ギルモアが起用されているが、彼はかなりヴォーカル主体のアプローチをすることでも知られる人物。手元にある最新バイオグラフィの文面によれば、曲の基盤ができあがった時点で、彼はマット・タック(Vo、G)以外のメンバーをスタジオから追い出し、2人だけでメロディと歌詞を練りこむことに集中するという手法をとっていたのだという。
なかには「そこまでプロデューサーが踏み込んでいいのか?」と感じる読者もいることだろう。もちろんプロデューサーという職業の役割や作業スタイルは十人十色だし、音楽面にはほとんど口を出さず、アーティストの望む環境作りに徹するタイプの人たちもいる。が、このドン・ギルモアの場合は逆に、バンドの内側に踏み込みながら、楽曲を理屈に合ったものとして成立させ、より訴求力のあるものとして磨きあげていくことに労力の比重を置く人物であるようだ。実際、彼と仕事歴のあるリンキン・パークのチェスター・ベニントンや、EVE6のメンバーたちとかつて話をしたときにも、彼が“歌の力”といったものに執着するプロデューサーであること、アーティストに対して甘いハードル設定を許さない人物であることを、彼らの口から聞いた記憶がある。実際、マットにとっても彼との作業は容易なものではなかった模様で、前述のバイオグラフィのなかには、彼のこんな発言も記されている。
「ドン・ギルモアは、“自分ならばキミたちをもうひとつ上の段階へと押し上げることができる”と自信満々だった。彼には俺たちの長所と短所がはっきりとわかっていたんだ。俺たち自身、自分たちが行くべき道を進んでいること自体はなんとなく理解できていたから、俺たちが道を踏み外さずに進めるようにしてもらうことと、成果を上げるためにさらなる努力するよう俺たちに仕向けてもらうことだけが必要だった」
「これまでは、ただ歌詞とメロディを書いて、“いいな”と思えたら、それをそのまま使っていたんだ。でも彼は、本当に素晴らしいものになるまで繰り返し歌詞を書かせ、メロディを変えさせた。そこが今作での違いだね。俺は、過去から抜けきれていなかったんだ」
これまた妙なたとえで恐縮だが、要するに「得意科目も苦手科目も自覚できている学生に、それを見透かしたうえで成績アップを確約する優秀な家庭教師がついた」かのような状態だったのだろう。そして結果、今作において何よりも評価されるべきは、やはり楽曲と“歌”の訴求力だという気がする。実のところ、曲を研磨していくプロセスにおいてスタジオから締め出されたマット以外のメンバーたちには、当初、ある種の猜疑心めいたものが芽生えた部分もあったようだし、バンドの結束に亀裂を生じさせ兼ねないそのやり方にマット自身も少なからず疑問を抱いていたようだ。が、それが妙な不協和音に繋がらずに済んだのは、言うまでもなく、結果が素晴らしかったからに他ならない。
さて、そうして完成に至った『フィーヴァー』は、この4月最終週には欧米でもリリースを迎えるが、この作品が、『スクリーム・エイム・ファイア』を上回る反響を得ることになるのは、あらかじめ確実と言っていいだろう。さっそくこの4月30日には1ヵ月間に及ぶ北米ツアーが幕を開け、6月からはフェスへの出演と単独公演とが入り混じった欧州ツアーが展開されることになっている。このアルバムを携えての来日公演についても、一日も早い実現を望みたいところだ。
ところで本稿の前半、『スクリーム・エイム・ファイア』についてややネガティヴな記述をしている筆者ではあるが、この『フィーヴァー』で充足感を味わってからというもの、あの作品についての解釈自体にも自分自身のなかで変化が生じることになった。要するに僕は、BFMVが『スクリーム・エイム・ファイア』と同傾向の作品ばかりを重ねることになる危険性を感じていたわけだが、現在では同作について「性格のはっきりした作品」としての役割と存在感を、『ザ・ポイズン』から『フィーヴァー』へと至るプロセスとしての重要性を、感じずにいられない。
が、とにかく何よりも最重要なのは、『フィーヴァー』が必聴作品であるということ。とはいえ、そこで「このバンドがこれからのヘヴィ・メタルを背負っていく!」とかそういうことは敢えて言わずにおきたい。こうして本稿に目を通してくださった皆さんには、すでにそうなることがわかっているはずだから。
増田勇一