-異種格闘技対談-Ring【round2】:第2回/川島道行(BOOM BOOM SATELLITES/Vo & Gt)

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-異種格闘対談-Ring【round2】第2回

ゲスト 川島道行 BOOM BOOM SATELLITES/Vo & Gt 逹瑯 ムック/Vo

「僕の田舎の家の裏に、加藤くんっていうお金持ちの子が住んでいたんですよ」川島「か、加藤くんっ!?」逹瑯

川島: BUCK-TICKとかBOOWYとかも化粧してたけど、まぁ、そんな感じのゴシックな。でも、今ほど当時は、そのゴシックなモノが、そこまで一般的なモノではなかったから、ま、普通じゃなかったというか。白塗りに、青いアイシャドーを塗ってたっていう。髪の毛も立てて。学園祭でも、ローソクの燭台みたいなのを作って、そこに火を付けて、ノイズ流してって、やってました。

逹瑯: すごぉ~い(感動)。

川島: いや(キッパリ否定)、すごくない(笑)。まったくすごくない! そういうスタイルはありましたからね、僕のルーツとしては完璧ベーシックなモノなので、全然すごくないんですよ(笑)。

逹瑯: まずその世界自体を知らないからなぁ~。だから、それ自体がすごい。

川島: たしかにね(笑)。でも、僕もそこから、バウハウスとか、デヴィッド・ボウイを知ったくらいでしたからね。だから、そういう化粧をすることに対しての、穿った視点というものはあまり持っていなくて。

逹瑯: へぇ~。

川島: デッド・オア・アライヴが出てきたときは、もう既に、彼らの音はユーロビートで、ギターは鳴ってないんだけど、ギターはフライングVっていう。

――はいはい(笑)。

川島: ジグ・ジグ・スパトニックとか、ロックンロールとか、エンタテイメントのアホさ加減をトピックとして取り上げているような人たちも、すごく好きだったし。うん、そんな感じです。だから、最初から、ジャズだとか、高尚な音楽をやっていた訳じゃなくて。

逹瑯: へぇ~。そうなんだぁ。なんか、すごいですよね、音楽のルーツが違うだけで、こんなにも大きく枝分かれしていくんだなって思うと、すげぇ面白い。でも、やっぱ出だしが俺とは違うな(笑)。

――川島さんがルーツとされる、インダストリアル・ミュージックや、ユーロ、ハウス、テクノという音楽たちと、川島さんが実際に出逢うきっかけって何だったんですか?

逹瑯: うん。そこ聞きたいよね。俺は、もともとはフォークなんですよ。井上陽水さんとか。

川島: 僕もそうですよ。小学生の頃は、誰も知らないようなフォークばっか聴いてましたもん、あんべ光俊さんとか(笑)。

――そっから、どうやってインダストリアル・ミュージックへ!?

川島: ある日突然、バンドやりたいな! って思うんですよね(笑)。なんでしょね(笑)。イギリスのバンドを聴きだしたりとか。

――そのきっかけが知りたいです。

逹瑯: 知りたい! 

川島: 僕の田舎の家の裏に、加藤くんっていうお金持ちの子が住んでいたんですよ。

逹瑯: か、加藤くんっ!?

川島: そう、加藤くん(笑)。その加藤くんが、よく、“家に遊びにおいでよ”っていってくれて、よく遊びに行ってたんですよ。そこで、ニュー・オーダーとか、エイリアン・セックス・フィンドっていうバンドのアルバムを加藤くんが聴かせてくれたんですよ。そりゃぁもぉすごい衝撃でしたね。なんだ、コレ! って感じでしたから。僕にとっての音楽は、そこからそれになっていったんです。本当にお金持ちだったんで、いっぱいいろんなレコード持ってたんです。加藤くん家は、大きな料亭をやっていて、こっちに来るミュージシャンは、だいたい加藤くん家の料亭に打ち上げに来てましたからね。だから、そういうときは加藤くんが“今日、清志郎さんが来てるよ!”って電話してきてくれて、みんなで“よし、見に行かなくちゃ!”って自転車飛ばして加藤くん家の料亭まで行ったりとかしてたんです(笑)。

逹瑯: すげぇ! それ楽しそうだなぁ。で、その加藤くんは今、何されてるんですか?

川島: 加藤くんはね、今、レコード屋さんやってます。

――すごい。加藤くんって、面識もないのに、勝手に加藤くん呼ばわりしてますけど(笑)、加藤くんも本当に音楽好きなんですよね。

逹瑯: ホントだね、すごいね。

川島: 加藤充くんには本当に感謝してます(笑)。

逹瑯: 田舎って、ほんのちょっと距離が離れてて学区が違ったら、まったく接点なかったりしますもんね。すげぇ、その加藤くんが家の裏に住んでたってことが、川島さんの音楽人生の始まりですよね。すげぇな、運命って。ウチらは、田舎が茨城なんですけど、すげぇ田舎なんですよ。だから逆に、みんなと違ったことしようっていうよりも、みんなの知ってる超有名なバンドのコピーして目立ってやろう! って思ってましたもんね(笑)。そこからいって違う。人と違う、人があんまり理解できないことやってやろうっていうとこで始めたバンドで、メンバーに理解されなかったっていうのが、もぉ、やっぱすげぇ可笑しくて、川島さん、すげぇ最高です(笑)。

川島: うん(笑)。

逹瑯: でも、ウチらみたいな感覚でメンバー集めるのって、結構楽な方だと思うんですけど、やっぱ、川島さんみたいな感覚でメンバー集めるのって大変だったんじゃないです? その後、今のメンバーとはどうやって知り合ったんですか? そこは、ちゃんと理解し合って始められたんですよね?

川島: あはははは。理解(笑)。そうですね、理解……し合えてるとは思ってますけど(笑)。今のメンバーである中野(雅之)と出逢ったのは、東京に出てきて大学に通うようになったんですけど、そこで。中野も違うバンドをやっていたんです。僕は、ドラマーのいないバンドというモノがやりたかったので、ドラム・マシーンとサンプラーは使いこなせないのに持っていて、っていう状態だったんですよ。

逹瑯: へぇ~。当時のスタイルとしては新しかったんですか?

川島: ん~、いや、ジーザズ・ジョーンズとかもいたしね。って、彼らはドラマーいたっけな。でもね、プライマル・スクリームを初めて聴いたときに、ビートは完全にブレイクビーツだし、こんなのやりたいって思ったんですよね。サンプラーで鳴らされているビートっていうモノにすごく惹かれてて。そういうのは、機械を買えば出る音なんだって思ってたんですよ、最初は。

逹瑯: あははは。

川島: だから、当時、まだサンプラーってめちゃめちゃ高くて20万円以上したんですけど、頑張って買ったんです。

逹瑯: へぇ~。じゃぁ、BOOM BOOM SATELLITESを始めてからは、ライヴを中心に考えていたんですか?

川島: いや、BOOM BOOM SATELLITESを始めた頃、中野はまだ別のバンドをやっていたし、あんまり僕自身もライヴをやるという意識ではなかったんですよね。当時、時代にしたら90年代の初頭なので、ヒップホップとかマンチェスター・ブームだった頃だから、音楽が出来上がっていくこと自体に楽しみを覚えていたというか。音楽を作っていることが楽しくて音楽やってるっていう感じだったんですよね。中野と一緒にやるようになってからも、そんなに積極的にライヴをやる感じじゃなかったし、ドラマーはいなかったし、DATとかにトラック入れて、音楽を作ることが楽しかったんですよね。新しい音楽ができていくのが楽しかったんです。当時はまだ学生でしたしね。

逹瑯: そうなんだぁ。ウチらは、もう最初からライヴがやりたくてバンド組みましたからね。音楽作るっていう感覚というか、音源を買ってくれる人がいないと、音源が作れないっていう、そういうなんか、もっと現実的な感じだったというか。ライヴって何処らへんでやられてたんですか?

川島: インクスティック芝浦とか。

――懐かしい!

逹瑯: 知らない……。

――知らないかもね。(※インクスティック芝浦ファクトリー……80年代を代表するライヴハウスで、“クラブ”の先駆けともいえるハコ。1989年12月31日に閉館)

川島: うん。あとは、横浜のクラブ24とか。

逹瑯: あ、クラブ24は知ってますよ! ムックもやったことあります! 良かった1個でも共通点があった!

川島: あはははは。

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