寺岡呼人、特集第二弾 対談前編 vs 大江千里

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寺岡呼人vs大江千里 対談:前編
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──大江千里さんと寺岡呼人さんは共にユーミンこと松任谷由実さんの大ファンとか。しかも相当コアなファンみたいですね。

大江千里(以下、大江):はい。呼人君が僕のイベントLive depotに出てくださって。その時に荒井(松任谷)由実さんの「雨のステーション」をセッションしたんですよね。

寺岡呼人(以下、寺岡):そうです、そうです。それから半年後かな、僕の“呼人の部屋”というイベントに出て頂いて、ユーミンを歌いまくったという。その選曲もド真ん中というよりは…。

大江:マニアック。“ユーミンのような気もするなぁ”みたいな(笑)。

寺岡:ついてこれないお客さんもいっぱいいたと思う(笑)。

大江:ふふふ。あの・呼人君が最初にユーミンを聴いたのは?

寺岡:一番最初は「守ってあげたい」かな。その時はピンと来なかったけど、何年後かに男友達にゴリ押しされて『昨晩お会いしましょう』を聴いたら“これ・いいな・!”と。たまたま地元に近い倉敷市民会館でライヴがあって。もうビビりましたね。ユーミンが棺桶みたいなのに乗って客席から登場、ステージの両側にはエスカレーターがついてて。

 

大江:僕は『SURF&SNOW 』が最初だった。荒井由実時代は聴いていたんだけど、あまりにも凄すぎて。ちょうど僕も曲を書き始めてたから、あえて遠ざけてたんですよ。それが大学生になって、フッと『SURF&SNOW 』のジャケットが気になって、聴いたらハマッちゃって。『水の中のASIAへ』でフリークになり、『時のないホテル』『悲しいほどお天気』と聴いてる時に『昨晩お会いしましょう』が発売された。神戸の大学生だったから“Kobe girl ~♪”にね、ビビッと来ちゃった。

寺岡:一曲目の「タワー・サイド・メモリー」のサビのコーラスですね。奇しくもお互いに80年代前半の松任谷由実さんにハマッたんですね。

大江:そうですねぇ。それで最初に観たコンサートは“水の中のASIAへ”。いきなり龍が客席にドーッ! と出てきて、ユーミンがその上に乗って。でも声が震えてたから“あっ、やっぱり怖いんだな”って(爆笑)。

寺岡:あはははは!

大江:そこまでやってる姿にまた感動しました。呼人君とはねぇ、好きなツボが一緒。たとえば“ド・ミ・ソ、レーッ!!♪”って上がるとことか(笑)。このツボがわかる人がなかなかいなくてね。

寺岡:まさか、そういう曲を一緒に歌ってくれる人がいるとは思わなかった。

大江:以下同文ですね(一同笑)。


寺岡:大江さんはデビューが1983年ですよね。もうバブル真っ只中。

大江:スタジオ・ミュージシャンにお金がかかってましたね。快適に弾けるようにと全種類のギターが置いてあったり。贅沢ですよね。今じゃありえない。

寺岡:スタジオ・ミュージシャンが怖かったとされた時期。そういう伝説をいっぱい聞いたけど、僕がお願いした人達は全員いい人でした。

大江:僕は怖い時期をちょっと見てるかも。だから、ずっとスタジオ恐怖症でしたよ。1stアルバムの時にトーク・バックの使い方がわからないから、自分が言ったほうが早いと思って、ドアを何枚も開けて“すみません! こういう風に弾いてもらえませんか?”とアレンジャーを通さずに言っちゃって。後でプロデューサーにひどく叱られました。

寺岡:最初のレコーディングってでかいですよね。トラウマになるか、楽しく終わるかですごく違う。大江さんはトラウマ系ですね(笑)。でも逆を言うと、デビューの頃から自分の出したい音がわかってたことが凄い。僕なんか、チンプンカンプンでしたから。ちなみに1stアルバムの制作期間は?

大江:あっ、それでも1か月ぐらい。曲はもう2枚分ぐらいあったから。産みの苦しみを味わったのは3rdアルバムの『未成年』。「REAL」という曲で初めて大江千里というものを客観的に見て、歌詞を書いてみたんです。でも書けなくて、一回スタジオを飛ばしちゃってね。気分転換にと自転車で出掛けたら、目の前の焼鳥屋さんにいたアレンジの清水信之さんとギターの佐橋佳幸さんに見つかっちゃって。で、一緒に焼き鳥を食べて帰ったらポコッと出来ちゃった。

寺岡:おおーっ。じゃあ、その後の転機というのは?

  

大江:31歳でニューヨークへ行った時ですね。自分が心から目指してるものを作って、その評判が良くなくて、聴いてくれる人が求めるものとの間にかなりの開きがあることに気づいた。でもね、それは当然のことなんです。だからその違いをどう楽しく埋めるか。それとアルバムの中に何曲か、10年後に“あっ、結構好きかも”と思ってくれる曲があればいい。そう割り切りましたね。呼人君は? 悩んだ時期は?

寺岡:僕は26、27歳の頃。本人は悩んでる意識はなかったんだけど、気がつけば曲が全然できてなくて。“あれ? 俺、スランプぅ!?”みたいな(笑)。でも、さっきの焼鳥屋さんの話みたいに、あえて外へ出て行って、あまり気にしないようにして。そしたら逆に道が開けたというか。性格的には切り替えの効かないタイプだったんですよ。ただ年齢と共に“それはそれ。これはこれ”とちょっとずつ変わってきたかなと思いますね。

…後編へつづく…


  
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