【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話063「適当すぎる日本語、最強説」

2026.04.08 14:14

Share

世界中の言語の中で、ひときわ日本語は難しいと言われる。漢字・ひらがな・カタカナという3つの文字体系があり、敬語の複雑さもある。そもそも助詞の扱いがやっかいだし、英語を始めとした欧米諸国の言語とは文法も違う。けれど、難易度を上げているのはそういった言語の構造ではなく、「何を伝える言語なのか」という日本語の設計思想そのものが異端すぎるからだ。

多くの言語は物事を正しく説明し的確に伝えることを目的にしている。誰が何をどうしたのか…と主語と述語を明確に、時間軸を整えて論理的に伝える。ま、当たり前ですよね。だけど、どうにも日本語はそうじゃない。主語は消えるし、結論をぼやかすし、時間軸も矛盾する。

たとえば、「行った?」「行ってきました」、「あれやってね」「やっておいたよ」みたいな会話って普通にあるけど、すでに主語がない。コンビニでは「温めますか?」としか言わない。スタバで「僕はカフェラテ」と言っても「I am cafe latte」じゃないのは言うまでもない。不完全な情報でもコミュニケーションが取れるのは、話し手と聞き手の間で認識が共有されているから。つまり、多くの場面で語らずともお互いが同調していることを大前提としていたりする。これって結構レアな状況らしい。つまりは阿吽の呼吸であり、調和と協調そのものだ。他人を敬うという基本姿勢は日本語を通して育まれた文化の一端でもあり、人との距離を測る空気を読む能力も、ここが礎にあるのではないか。

以前【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話057「前と後ろがひっくり返るのはなぜ?」でも触れたけど、日本語では過去は「この前」、未来は「この後」という。読み終えたページは「前のページ」と言うし、過去を「先日」とも言う。つまり「過去は前方にあり、未来は後ろにある」と捉える。この「可視化できるものを前に置き、見えないものは後方に置かれる」という世界観は、「過去の先例を前面に置いて学び尊び敬い、積み重ねられた伝統と歴史の歩みの上に今があり、その先に未来が表れる」という日本人の価値観に直結する。

この「流れてきた時間とそこから得た経験が、そのまま今と未来へと繋がる」という捉え方は、時間の扱いをも異例なものにしてしまう。「知っている」「持っている」「結婚している」などは、動作ではなく結果が続いている「状態」を示す表現で、「明日ライブやってるから」「もし混雑していたら」「来年は痩せてるよ」という言い回しに至っては、未来の出来事すら現在進行の流れの中に取り込んでしまう。過去の結果がそのまま未来につながっているという価値観だから、時間はいつもシームレス。日本語は「意味」よりも「状態」を共有する言語として機能していることがとても多い。

だから端折れる情報は片っ端に消えていく。「もう食べた?」「あれどうなった?」「例のやつ」といった会話が成立するのは共有されている状態があるからで、単語が消滅しても関係性の密度の中で会話は進む。「とりあえずまあ」から「とりま」になり、あげく「ま」になっても通じてしまう。これもう、外人さんには理解不能よね。

当然ながら、この「1を聞いて10を知る」という高コンテクストな日本語の世界観は、J-POP/J-ROCKの歌詞にもそのまま当てはまっていく。日本語の歌詞はしばしば意味が曖昧だ。主語がなく、時間が混ざり、誰の物語なのか特定できない。だが、それでも世界観は香ってくる。むしろその曖昧さゆえに、聴き手それぞれの感情に入り込む余白が生まれる。英語の歌詞がストーリーを明確に描くことで共感を得るとするならば、日本語の歌詞は状態を漂わせることで共鳴を生むことができる。説明しないことでより深く共有される言語の力は、単なる表現方法の好みではなく言語構造が持ち得た圧倒的なアドバンテージだ。

日本語が難しいのは「意味を正確に伝える」のではなく「同じ状態に入る」ことを求められるからで、文法よりもその感覚が不可欠だ。そしてその設計思想こそ、音楽において圧倒的な魅力を放つ一端となっている。意味を固定せず、主体を限定しないで時間も閉じない。その結果、楽曲はひとつの解釈に収まらず、聴くたびに新たな景色を描いたりもする。日本語の音楽が持つにじみや余白は、この言語特性が育んだ雄弁な表現手法だ。

日本語歌詞の音楽は、もっともっと輝く余地がある。説明するのではなく感じさせる言葉なんだもの。例えばオノマトペだけで歌詞が成り立ってしまうとか、「よこはま・たそがれ」みたいに名詞だけでストーリーが描かれるとか、ステキすぎると思いません?

文◎烏丸哲也(BARKS)

◆【コラム】BARKS烏丸哲也の音楽業界裏話まとめ