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近年の重箱の隅をつつくようなソフト・ロック関連の再発ブームの中、とにかく何を差し置いても聴かなくてはならない王道グループが The Association である。高度に洗練されたコーラス・ハーモニー、キャッチーなメロディ、躍動感溢れるバンド・アンサンブルなど、ソフト・ロックと呼ばれる音楽の定義が全て詰まっている。'68年8月に発表された4枚目のアルバム『Birthday』の日本盤裏ジャケットには "ソフト・ロックのチャンピオン" と書いてあったが、この堂々たる肩書きは現在でも全く通用するのである。 ロサンジェルスの名門クラブ、トルバドールのハウスバンドだった13人組のフォーク・ロック・バンド、ザ・メンを母体にして The Association が結成されたのは'65年のことである。メンバーは Terry Kirkman 、Gary Alexander 、Russ Giguere 、Jim Yester 、Brian Cole 、Ted Bluechel の6人である。同年暮れ、Joan Baez 作の「Babe I'm Gonna Leave You」でデビューを果たすが不発に終わり、翌年ワーナー傘下の Valiant に移籍。今度は Bob Dylan の「One Two Many Mornings」のカバーで出直すがこれもヒットには至らなかった。 そこで手を差し伸べたのが Curt Boettcher である。彼のプロデュースにより出来あがったシングル「AlongComes Mary」は'66年7月に全米7位の大ヒット、続く「Cherish」も全米No.1を記録、一躍トップ・グループの仲間入りを果たした。 同時期発表されたデビュー・アルバム『And Then...Along Comes The Association』も Curt の貢献により粒の揃った佳曲で埋められた。その中でも Curt が唯一作曲に参加した「Message Of Our Love」は後の The Millennium を予感させる先進性が既に垣間見れる。 幸先のいいスタートを切ったものの、Curt の独裁的なレコーディングの仕方についていけなかったメンバーは Curt とその周辺のスタッフを全員解雇する。そしてメンバーの1人 Jim Yester の弟でありフォークの名グループ、MFQのメンバーでもある Jerry Yester をプロデューサーに迎え、2nd『Renaissance』を発表。全曲メンバーのオリジナル、演奏による力作だったが、チャート的には地味な結果に終わる。 それまで所属していた Valiant が ワーナーに吸収されたのをきっかけにしてプロデューサーが Bones Howeに交代。The Mamas & the Papas などを手掛けた名エンジニアである。これが功を奏し、前作よりポップな印象の3rd『Insight Out』からは「Windy」(全米1位)と 「Never My Love」(全米2位)の2大ヒットが生まれる。また'67年6月に開かれたモンタレー・ポップ・フェスティバルにも出演し、実力、人気の頂点にいることを印象づけた。 翌'68年、引き続き Bones Howe のプロデュースにより4作目『Birthday』を発表。The Beatles などの影響からトータル・アルバムの性格が強いこと、曲自体の質が高いこと、それまで以上のゴージャスなコーラスと躍動感溢れるリズム・セクションが展開されることなどから間違い無く彼らの最高傑作であろう。 その後は映画『Goodbye Columbus』のサントラ('69年)や、カントリー・テイストの『The Association』('69年)、ライヴ盤('70年)、地味ながら後期の代表作『Stop Your Motor』('71年)を発表していくがヒットからは遠ざかっていく。そして『Waterbeds in Trinidad!』を'72年に発表した直後、Brian Cole がドラッグで他界。そしてグループは解散してしまう。 80年代に一度だけオリジナル・メンバーで再結成しているし、'95年には新生 Association でアルバムも発表している。