【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第16回「生糸」
11月、モンブランの糸を一本一本ほどきながら、器用に口に運ぶ彼女を見ていた。
「そんな食べ方で美味しい?」そう聞くと「お腹の中で絡まったら大変でしょう。」と退屈そうにフォークの先を唇に当てた。
「大丈夫、もしそうなってもほどいてあげるよ。そういうの得意なんだ。」
僕はさっきほとんど丸呑みした毛糸玉のようなものが、この体内でもやもやと絡まるのを想像した。どうもぴんとこなかった。(けれど君が言うのならきっとそうなんだろう。)
「そうだ、この前教えてくれたプラネタリウムに行ったんだけど、確かにあれは素晴らしかったよ。」
「そうでしょ、あそこは他のところと違ってプログラムがニッチで最高なの。」
声色を変えずにそう言ったけれど、確かに目の奥が一瞬きらりと輝いた。光を捉えた僕は、この機を無駄にしまいと考える中で一番ロマンチックな提案をする。
「だからさ、今度はプラネタリウムじゃなくて、本物の星空を観に連れて行ってあげるよ。前に行ったことがあるんだけど、人も少なくて良い穴場があるんだ。」
彼女は何か事情がありそうな顔でゆっくりと僕の目を見たあと、フォークを皿に置いて珈琲を口に含んだ。「偽物の光なんかじゃなくてさ、本当に遠くで瞬いているやつだよ。」
ありがとう、そう言ってコーヒーカップを置いた後に「けどごめんなさい、私は星が見たいんじゃないの。宇宙が見たいのよ。」と申し訳なさそうに微笑んだ。
僕は自分が言ったことと彼女の言いたいことの何が違うのかわからなかった。(けれど君が言うのなら、それとこれとはきっと違うのだろう。)
その夜、布団に潜りながらストーブの灯りを見つめていた。ジーッという音はいつまでたっても、耳に、この空間にすら馴染むことは無い。おかげで寝る前に消さなければならないということを何度も思い出させた。
それからはストーブのことばかり考えていた。腕の中に居る彼女が今何を考えているかなんて想像もしなかったのだ。
「私の嫌いなところはないの?」小さな声が僕の耳をストーブから奪った。
「そんなところはないよ。君は何もかもが完璧だからね。」
僕は簡潔な返事をした後、息がかからないよう、慎重に二回呼吸をした。三回目の息を吸ったとき、先程の小さな声は、もっと小さな声で「悲しいけれどあなたがくれる愛は、私からたくさんのものを奪うの。」と言った。
「たとえば、あなたにありがとうと言われることとか。あなたにとって私が、」そこまで言いかけて、身体をくるりとこちらに向ける。
僕は息を吐き、何も言わずにただ彼女の頭を覆うように抱きしめた。
布と髪の毛が擦れる音がする。顔をあげた彼女は僕の頬に触れ、目を見て「あなたのことはとても素敵だと思うけれど、私のことは素敵だと思わせてくれないのね」と言った。
僕は自分が思うよりずっと、その言葉に動揺していた。
次に目を覚ました時、背中に汗をかいていた。ストーブを消し忘れたのだ。隣に寝ている彼女を起こさないように布団からゆっくりと手を伸ばし、つまみをひねる。暖かい灯りが消えて暗くなった部屋で、汗をかいていないか彼女の顔に目を凝らすと、その寝顔に僅かな違和感を覚えた。
口から、なにか白くて細い、糸のようなものを吐き出しているのだ。
糸は既に、壁や本棚、目覚まし時計など、彼女の周りに存在するありとあらゆるものと繋がっており、なんとも奇妙な光景だった。けれど僕は、そんな姿の彼女を見てもさほど心配にはならなかったのだ。
寝ぼけていたからか、咄嗟に夢と判断したからなのか。或いは、苦しそうというより、とても安らか(まるで寝息が糸になるよう)に吐き出していたからかもしれない。とにかく、このまま起こさないように自分も寝てしまおうと考えていた。
それから彼女は、寝返りを打ちながら三日三晩、絶え間なく糸を吐き続けた。
吐き出された糸は僕との間に微かな靄を作り、次第に隔たりとなった。無数の糸を張り巡らせてできた小さな空間に自分の姿をすっぽりと収め、それでも尚寝返りを打ち吐き続ける姿は、まるで繭をつくる蚕の様だ。
糸が何重にもなり、隔たりが強度を増していく。やがて彼女は完全に中の見えない、真っ白な殻の中に閉じこもってしまった。
それから数日、もぞもぞと中で動く音が完全に止まったのを確認した。僕はこの立派な繭が完成したとき、部屋に二人いるはずなのに一人分の音しかしないということが奇妙でならなかった。そんなことしか、考えたくなかったのだ。正確に言えば、彼女としたある会話のことを思い出したくなかった。
「蚕って愛情を持って育てないと立派な繭を作ってくれないんだって。他の家畜と違って泣いたり騒いだりしないでしょう。だから、暑いとか寒いとか、何してほしいのかなとか考えて育てなきゃいけないって。」
「もちろん、僕はそのくらい君を大切にしたいと思っているよ。何か言わなくても、君の望むものをなんでもあげたいと思う。」
「翅があっても飛べないんだよ?成虫になったら口も無くなって、ご飯も食べられない。」
「それでも愛している。君はどんな姿でも完璧なんだから。」
「違うの、私は、」
僕は繭の中で眠る彼女の姿を想像した。
どうだろう、今この殻を破ったら、ふわふわとした白い身体に翅を生やして出てくるのだろうか。口を無くした彼女は自分が飛べないという事実を悟り、静かに絶望し、そして死を待つ。
僕はそんな彼女に寄り添って、最期まで無償の愛を注ぎ続けるだろう。「結局、君が望むものを何一つ与えないままで。」
立派だと思っていた目の前の繭が、気持ちの悪い、ただの白い塊に思えて仕方がなかった。
リーガルリリー 海
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