【インタビュー】ALデビュー15周年&現体制10周年“兀突骨”リーダー高畑治央が振り返る今までの歩み
前作から5年というスパンの後にリリースされた6thアルバム『黄泉ガヘリ』も好調な兀突骨。2024年はアルバム・デビューから15周年、そして現メンバーになって10周年とアニバーサリーも重なる。そんな兀突骨を率いるリーダー高畑治央に自身のキャリアを含め兀突骨の歩みを振り返ってもらった。
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■ 「アジアのメタル・バンド」を打ち出したかった
── 兀突骨の結成は2000年になるのですよね。それまでにバンド活動はされていたのですか?
高畑治央:地元埼玉県で色々なバンドで活動していて、もう思い出せない位で、サポートを含め最高で5つのバンドを掛け持ちしていた時期もありました。それが90年代だったのでシーンもゴチャゴチャした感じでメタルなのかハードコアなのかボーダーレスなバンドも多くて、メンバーの髪型で判断する感じの時代だったと思います。
── その頃、高畑さんが参加したバンドで何か音源になったものはありますか?
高畑:GOOFY STYLEってご存じですか? 実は今までGOOFY STYLEに迷惑かなと思って黙っていたのですが、半年間程メンバーだったんですよ。Loud Mouth Recordsからリリースされたオムニバス・アルバム(RAT RACE♯2)音源で弾いています。それが20~21歳頃で、GOOFY STYLEヴォーカリストのフクダさんは俺の兄貴分です。
── その後に兀突骨結成ですね。
高畑:高校時代から友人とやっていたバンドが兀突骨の前身で、アジアンテイストのあるヘヴィなグルーブあるバンドでした。ラップはやりませんでしたが、良いと思ったものは何でも取り入れるクロスオーバーな感じで速い曲もありました。振り返ると掴みどころのないバンドだったかもしれません。22歳で本格的なバンドを自分でやってみたいなと、メンバー・チェンジを切っ掛けにバンド名も兀突骨になったのが始まりです。
── 兀突骨になってスタイルが固まった感じでしたか?
高畑:もうメタルしかないって振り切りました。
── 何で兀突骨ってバンド名にしたのですか?
高畑:「アジアのメタル・バンド」を打ち出したかったので。最初は日本人の人名でちょっと考えました。DOKKENとかBON JOVIとか海外なら人名のバンドもありますが、『織田』とか『徳川』だと違和感ありますよね。そもそもメンバーにそんな名前のヤツなんていなかったし(笑)。それで「三国志」を読んでいた時に兀突骨のキャラクターが強烈なインパクトがあったのを思い出したんです。兀突骨は身体にウロコが生えていて穀物を一切食べずに生きた獣や蛇を食べるんです。そんな東洋の化け物をバンド名にするって西洋のバンドに対抗している感じも出ると思ったし。それに『ゴツトツコツ』って言葉の響きも気に入っていたんで。
── 今ならこういった漢字や日本語のバンドって珍しくないかもしれませんが、当時はそういったバンド名って少し色物扱いな印象がありました。特にメタルのシーンだとそれが強かったかと。
高畑:それはありましたね。でも当時のメンバーは「語呂がいいね」「インパクトがあるね」「読みにくくて良いね」とか反対もなかったので決めました。当時はインターネット普及前で検索するってこともできなかったのでバンド名を覚えてくれるかなって不安はありましたが、英語でも読み方の分からないバンドも多かったですし何とかなるだろって。
── スラップ・ベースを取り入れるのは最初から構想していたのですよね?
高畑:それは勿論ありました。自分のスタイルとしてそれを打ち出していきたかったですし、あの時点で確立していた気になっていましたから(笑)。
── メタルで本格的にスラップ・ベースを取り入れているバンドって少なかったですよね。どちらかと言えばオルタナ系やクロスオーバー系のバンドが多いイメージでした。
高畑:あの当時、メタルは保守的でハードコアは逆に色々と進んで取り入れていったイメージがありました。SUICIDAL TENDENCIESやCOCOBATとかスラップを取り入れたバンドを聴いて新しいと感じて、メタルでスラップを取り入れたいなって思って、自分のチャレンジでどこまでいけるかなと。メタルのリフやスピードにスラップを合わせるのって難しくて最初はしっくりしなかったです。
── リズム的にも跳ねちゃうのでメタルらしい疾走感が出ないので試行錯誤したのでは?
高畑:試行錯誤はかなりありました。ミドル・テンポのものだったら簡単でしたが、いかにもなツービートのものに乗せるのは本当に大変でテンポの速いものに対してどうやってスラップ・ベースを乗せるのかが課題でした。
── 兀突骨でスラップ・ベースを入れた曲を作って、最初に手応えを感じた曲は何でしたか?
高畑:1stアルバム『魍魎』(2009年)に収録されていた「殉教者」ですね。この曲を作って、これだなってある意味完成形だと思えました。これをやればいいんだってプレイが見えて、兀突骨の未来も感じました。
── 話は結成時に戻りますが、結成時には専任ヴォーカリストがいたのですよね?
高畑:戸口ですね。彼は後に「みみうなぎ」ってバンドを作って独自な世界観でコアなファンを掴んでいました。今はそのバンドはないですが、SQIDやSHELLSHOCKで活躍している船戸さんや同じくSQIDやGUNSHIP666にいたケンスケ君等、メタル側の人が結構在籍していました。みみうなぎは坂本龍一さんのラジオ番組で曲が流れたり、サウンドはかなり特異で面白かったです。
── 結成時のメンバーは他にINSIDE CHARMER等で活躍する島田さん、HATERIZER他で活躍の中澤さんの4人で、この時にデモ音源をリリースしているのですよね?
高畑:このメンバーで1枚リリースしています。「Finger」、「蟻」、「流動情鬼」の3曲を収録していて、『魍魎』をリリースした時に特典としましたし、あと話に出たLoud Mouth Recordsのオムニバス(RAT RACE♯3)に参加した時に「天誅」をプラスして再発表しました。過去は否定したらいけないなってスタンスでバンドの歴史も聴いて欲しい思いもあるので。だからかもしれませんがリ・レコーディングは好きではないんです。でも、最近は今のメンバーで昔の曲をレコーディングしたらどうなるかなって考えも出てきました。
── このメンバーで2年程活動した後に戸口さんが脱退して、高畑さんがヴォーカル兼任になるのですよね?
高畑:戸口の歌はとても上手いのにどこかマイク・パットン的でアジアンな世界観も持ち合わせた独自の世界観で、とても真似ができるような感じではなかったんです。それで同じ様に歌える人はいないだろうって探すのを諦めて、自分で歌うしかないって前向きに決心しました。立ち止まりたくもなかったので。
── それが2002年で、2003年と2005年にデモをリリースするのですよね?
高畑:2003年のデモは何が収録されていたか忘れてしまいました(笑)。ヴォーカルも兼任して最初の音源でレコーディングしたのも覚えているのですが…。2005年のデモには「魍魎」と「蒼天スデニ死ス」を収録しています。
── 2005年のデモをリリースしてから2009年にB.T.H.Recordsから1stアルバムをリリースするまで間が空いていますが、この間はどんな活動をしていたのですか? DEFILEDにも在籍してもいましたよね。
高畑:2006年にDEFILEDから一度音合わせをしませんかってメールが来たのはよく覚えているんですよ。その日が自分の誕生日だったので(笑)。名前は勿論、DEFILEDの活躍も知っていたので自分のところにそういったメールが来るとは思ってもいなかったです。オーディション後に正式なオファーが来たのですが、兀突骨があるので一度お断りしたのですが兼任でも大丈夫とのことだったのでOKをして、2007年にDEFILEDで初ライブをしました。
── DEFILEDには何年頃まで在籍していたのですか?
高畑:2012年末まで在籍していました。DEFILED在籍時も兀突骨はライブを活発にやっていて、兀突骨で仙台ライブの翌日にDEFILEDで韓国ライブをやったなんてこともありましたし、同じ日にライブが被っていた時は主催者に都合をつけてもらって掛け持ちでやったこともありました。体力的にはかなりキツかったですが、音楽のことを考えてばかりの時期で良い経験になりました。兀突骨のアルバムをリリースしたいと考えていた時期にそのノウハウがなかったのですが、DEFILEDのリーダー住田さんにアドバイス貰えたのは本当に助けになりました。兀突骨の契約先であるB.T.H.Recordsを紹介してくれたのも住田さんでしたし。
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