【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第14回「蜂蜜」
手のひらに収まるほどの小さな機械、そこから流れる世界の音に耳を澄ませた。朝の雑踏、電車の騒音、前の席の談笑とこちらに放たれた言葉。布団のぬくもりとは対照的に、冷たく尖った音が耳を伝って私に届く。
ザー…キムラサンマタジブンダケオワッタカラッテアガッタノ?コッチハミンナデタスケアッテシゴトシテルッテイウノニ…ホントオモイヤリッテモノガ…ゴソ…ザー…「日中の仕事をかなり多めに受けてくれているので結構助かってますけどね。」(すごい、よく言った。)
毎日こうして生活の一部始終をボイスレコーダーで録るようになってからもう10年が経つ。それを毎晩布団の中で再生すると、一日の出来事をさも他人の人生をのぞき見しているような気分になるのだ。私じゃない、ワタシの最悪な一日。そこから逃げる術を教えてくれたのは大好きなかこちゃんだった。
かこちゃんはお母さんの妹で、そっちの家族の誰とも血が繋がっていないんじゃないかと思うくらいに、とにかく自由だった。いい大人なのに大人じゃないみたいで、かと思ったら急におばあちゃんみたいになる不思議な人。
夜の10時から開く変な本屋をやっていたし、そこに来るお客さんは大概本を手にウトウトしながら朝を待って何も買わずに帰って行くから、親戚からは「あれは商売じゃない、お店屋さんごっこがしたいだけだろう」とチクチク嫌味を言われていた。
だから私がかこちゃんのところに行こうとすると、お母さんはいつも少しだけ嫌な顔をした。嫌な顔、というよりもっと、右の下瞼と鼻の下がきゅっと縮こまるような、こっちに罪悪感を与える顔。
けれど、私はそんなかこちゃんのことが大好きだったのだ。
かこちゃんのお店は紙と埃の甘い匂いに、ハーブかスパイスが混ざったような香りがした。それが良い匂いかと聞かれると難しいが、玄関もトイレもリビングも全部フローラルな香りで包まれる我が家よりは遥かにほっとする匂いだった。
学校が終わってからお店が開くまでの数時間、私たちは既に雑多な匂いに珈琲を混ぜて、エタ・ジェイムズの声で包んだ。今思えば、そこだけが私が私で居られる場所だったのだ。
私はその日もかこちゃんの店に向かった。チャイムが鳴ったとほぼ同時に、誰にも急いでいると気付かれない速さで教室を飛び出した。真っ直ぐ歩いている間、まばたきはほとんどしていなかったと思う。そして遂に店の扉を開けた瞬間、我慢していた涙の珠がわっと溢れだしたのだ。かこちゃんは慌てずに、いつもの椅子に案内して台所に向かった。
私は呼吸を整えてから、台所に届くか届かないかの声で「みんなにくさいって言われる。」と呟いた。
こちらに戻ってくるかこちゃんの手には温かい紅茶の入ったマグカップが二つと、脇に大きな蜂蜜の瓶とスプーンが抱えられていた。それから私の隣に座って、ただ背中をさすった。クーラーの効いた部屋で分厚くて柔らかい手が何度も背骨を通ると、そこだけが熱くなって、その都度お腹の中にため込んだ言葉たちに出口を教えてくれているようだった。
それから私は、お父さんが部屋で煙草を吸うのを嫌がるお母さんが、家中に異常な数の芳香剤を置いたり、強い柔軟剤を大量に使うのだと伝えた。二人は互いに嫌なことを伝えないどころか会話すらままならないこと、それが原因で学校でいじめられるようになったことも、今ではそんな原因など関係のないいじめが続いていることも、何とか話すことができた。
かこちゃんが大きなスプーンでたっぷりと蜂蜜を掬い、私の紅茶にいれると、金色に光る筋がきらきらと溶けだした。
「ずっと、自分で気にしていたから、だから、言われたのがすごく辛かった。」
陽炎の様に揺らめくそれを見ながら、訥々と声が漏れる。
「私のせいじゃないのに、私のせいな気もして、みんなが悪いのに、誰も悪くないような気もする」
そんな声を遮るように、銀色のスプーンがまだ溶け切っていない蜂蜜と湯気を纏って近づいてきた。目の前ではかこちゃんが、あーん、と口を開けながら悪い顔をしている。私も真似して開けると、まだアツアツのスプーンが口の中に入ってきた。あまりのアツさにとびあがると、さっきまでの空気が嘘の様に笑いに包まれた。
「アツすぎ!!上顎火傷したんだけど!」
「でも美味しくない?あたしこれが一番好き」
そんな風に、いつも通りにはなれなくてもいつも通りのふりをしてくれるのが一番うれしかった。
「夏樹はどうしたい?」
そう聞かれた時、自分がどうしたいのか、自分でどうにかできるものなのか、やっぱりわからなかった。自分が何かすることで悪い方向に行くかもしれない、そんなことを毎日考えていたのだ。
「…わからない。けど、わからないけど、毎日辛くなる。周りの人みんな嫌い。お母さんもお父さんも、好きなのに嫌いで、そんな風に思ってる自分も嫌いになる。」
「そっか。」
嫌な言葉が身体から出て行く度、その隙間を埋めるように紅茶を飲んだ。
温かいため息が出る度に、魔法みたく、ずっと強張っていた肩が解れるみたいだった。
少しして、かこちゃんは「正直私には何もできないと思う。けど、柔軟剤?のことは夏樹が言ってほしければお姉ちゃんに言うし、言ってほしくなければ言わない。いじめのことも、夏樹が勝手に、私を頼りたいとき、頼りたいようにしてくれればいいよ。」と言った。
その言葉に、はじめは少し驚いた。というのも、大人ならこんな私をどうにか助け出してくれると、心のどこかで思っていたのだ。けれどすぐに、かこちゃんの言葉が温かくて正しいものなのだと気が付いた。
「だけど、このままどうにもできないのも辛いと思うから、いいこと教えてあげる。あたしが昔よくやってたこと。」
そういうと、レジ横にある戸棚の奥から、小さなボイスレコーダーを持ってきて、「はい、お守り」と私に渡した。
「え?これでいじめの一部始終を録音しろってこと?」
「いや、夏樹がそうしたいならそれでもいいけど…そうじゃなくて、夏樹の生活の全部を録音するの」
そう言ってボイスレコーダーの再生ボタンを押すと、ザー…というノイズとともに、なんてことのない生活音が流れた。若い頃のお母さんらしき人の声や、食器の音、水道の音なんかもきこえる。
「あんたの全部があんたである必要なんかないの。夏樹は自分の身体で、どこが一番好き?」
「好きとか難しいけど、左目は嫌いじゃ無い、かも。」
「じゃあ夏樹は左目だけでいいよ。夏樹はその綺麗な左目を傷つけられた時だけ悲しんだらいい。そのほかの身体も、においだって夏樹のものじゃなくていいんだよ」
生まれて初めてそんなことを言われて、心の中に新しい種子がぽんっと落ちてきたような、そんな感じがした。
「それで、このレコーダー。これで録音して、夜ひとりで聴き返すの。結構面白いよ。夏樹が操縦する大きいロボットの生活?って感じで客観的にみれて。」
得意気に言うかこちゃんを見ながら、私は昔のかこちゃんを想像した。こんなことを思いつく程辛いことがあったのだろうか。私みたいに、いや、わたしなんかよりもっと生きづらさを感じていたのだろうか。そんなことは分からなかったし、たとえ想像が及んだとしてもきっと「自分の苦しみに共感なんてしてほしくない。これだけ苦しんだんだから、せめて自分だけのものであってほしい」なんて言うんだろうと思った。
「それでもし誰かが夏樹のことを傷つけたら、あんたに私は傷つけられんないよって、左目で言ってやんな。」私の左目を見つめながらそう話すかこちゃんは自分の本体が右耳だったのだと、あとからこっそり教えてくれた。
「じゃあ、さっきかこちゃんに火傷させられた上顎も私本体は傷ついてないってこと?」
「うーん、まあまあ、そういうことにしておいてよ。」
リーガルリリー 海
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