【スロー・アンダースロー/リーガルリリー海の短編連載】第13回「手鏡」
「めずらしいな。普段は地上を歩いたりなんてしないのに」
晴人の視線の先に目をやると、頭のてっぺんから足の先までを真っ白い布で覆った人が歩いていた。
「あれは何?」
「赤い人だよ。彼らは地上に出てこられないんだ。」
晴人は目で追いながら言った。
全身を覆う白い布は、目元はムスリムの女性が着用するニカブによく似ていて、赤い人というより白い人という方が断然しっくりくる。
「紫外線に分解されるんだよ。あの人たちは正しいから。
正しすぎるものはいずれ消されるんだ、あの看板みたいに。」
そう指をさす方には、赤い文字だけが消えて意味の通らなくなった標識があった。
『赤い人は正しい人で、正しすぎるものはいずれ消される』
僕にはその標識と同じくらい晴人の言っていることが理解できなかった。
「光は見るの初めて?」
「うん」
「じゃあついてきて、面白いもの見せてあげる。」
僕たちは赤い人の跡をつけた。赤い人は誰かとすれ違う度、怪訝な顔をされながら、それでもまっすぐに突き進んだ。そしてようやく角を曲がり、日の当たらない小道に入っていったのだ。
見つからないように建物のかげから覗くと、周囲を確認してから顔面の布を外し、手で扇ぎながら涼んでいた。向こうを向いていたので顔は見えなかったが、男だということはわかる。
晴人は彼のいる方に向けてポケットに仕込んでいた石を投げた。思ったよりも近くに飛んでいった石は、コンっという音を立てて地面に落ちた。その瞬間、音に反応してこちらを向いた。
僕は「赤い人だ」と思った。
男の目の周りは歌舞伎役者みたく真っ赤な模様が浮かんでいて、口の周りも、大量の血を舐めたように赤く染まっていたのだ。日焼けのしていない白い肌に浮かぶもんだから、余計に赤が際立って、遠くからでもはっきりとわかる。
初めてみたそれに驚いて目を逸らせずにいると、彼と目が合った。
「何やってんだ、逃げるぞ!」
手をぐっと握られたまま、僕は立ち尽くすことしかできなかった。
「光!」
強い力で手をひかれ、その瞬間、一歩だけ後退ったのを合図に、導かれるままに走った。
何度も後ろを振り返ったが、彼が追ってくることはなかった。
「今日赤い人を見たんだ。めずらしいんだって、晴人がそう言っていた。」
「赤い人なんて呼んじゃいけないよ。この金魚と一緒、彼らは病気に罹っただけなんだから。」
父はメチレンブルーをスポイトで吸い、ぽつぽつと水槽に垂らした。
「顔に変な模様があった。」
「それはベニグマだ。」
そう言うと、手を止めて僕のほうを見た。
「とにかく、あまり彼らを刺激してやるな。攻撃的なところがある。」
「彼らは正しい人なんでしょ?それなのに攻撃なんてしてくるかな。」
「正しい人が良い人とは限らない。ベニグマは正しさを武器にしてしまった人に現れるんだ。一度罹ると治ることは無い。」
「僕らは誰しもベニグマに罹る可能性がある。光、決して正しさを武器に人を傷つけちゃいけないよ。」
メチレンブルーが毛細血管のようにもやもやと、青色の筋となって水槽を巡っている。スプーンで混ぜると水の色が文字通り水色になった。
いつもの公園で晴人の部活が終わるのを待っていると、すぐ後ろから声がした。
「お前、この前石投げただろう。」
背筋がスーッと冷たくなって振り返ると、真っ白な布を被った人が立っている。僕は一瞬にして、布ごしに存在するあの真っ赤な目と口を思い出した。
「ごめんなさい。けれど石を投げたのは友達です。」
赤い人は平然を装いながら答える僕の頬を、パンっという気持ちいい音で平手打ちした。そして「友達か。だったらおまえも同じだろう。」と鼻で笑った。
「お前たちは何故、俺らを挑発する?」
「別に挑発するつもりは...」
「だってそうだろう。お前だって怖いもの見たさで跡をつけてきたんだ。俺らはなんだ?怪物か?違う、お前と同じ人間だよ。それも正しいほうのな。」
赤い人が肩に置いた手は温かくて、僕の頬とまだ繋がっているような感じがした。
「もし...もしも本当にあなたが正しい人だとしたら、何があっても僕みたいな子供に手をあげるべきじゃないはずだ。」
僕が恐怖と罪悪感で縮こまるほどに、赤い人は高揚し、眼球はどんどん剥き出しになっていった。
「いいか?このベニグマは別に恥ずかしいものじゃないんだよ。俺たちが神に勧善懲悪を認められた証なんだ。
俺たちは善か悪か、それだけで判断をする。年齢なんて関係ない。」
僕はこの時初めて、真っ直ぐすぎる正義を怖いと思った。目元の穴から覗くベニグマが血色を増し、さらには血走った眼球が今にもこちらに飛び出してきそうだ。
そして、その目には怒りではなく、確かに悦びがあった。ああ、こいつは怒りを原動に、正義を後ろ盾に、目の前の人間を支配して楽しんでいるんだ。そう思った途端、僕に向けられた目の卑しさに腹の底からふつふつと怒りがこみ上げてきた。
「...お前たちはただ正義を振りかざして気持ちよくなっているだけだろう。」
怒りが恐怖を超えたとき、僕は震える声を律して言った。
「父さんも言ってたよ、お前たちは病気だって。神に選ばれた証なんかじゃない、正しさを武器に人を傷つけた烙印じゃないか。」
いつの間にか溜まった誰かの正しい言葉が、自分の声で流れ出る。
不意を突かれたようにハッとする赤い人を見て、僕の中で何かが気持ちよく弾けた。そして取り留めのない正義が身体の奥から押し寄せて、嘔吐のように溢れ出た。
「だから、お前たちみたいなベニグマは、」
そう僕が言いかけたとき、赤い人は笑った。
「どうだ気持ちいいか?お前、俺と同じ顔になってるぞ。」
リーガルリリー 海
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